血の誓約
5つの大国の1つ、創造のシュバエウルク。
当時その国の王女であった弱冠8歳のカーティネス・シュバエウルクは、国王と王妃―――つまりは両親とのお忍びの旅行に出かけた途中で賊に襲われた。
お忍びとはいっても腕の立つ騎士は何人もいたし、警戒は怠っていなかった。
けれど賊に襲われ騎士の中から裏切り者が出た混乱の最中に次々と殺されていき、国王と王妃、そしてカーティネスを守る者はいなくなった。
そのまま馬車の中へと押し入った賊は王妃を守るように立っていた国王を殺し、カーティネスを守るように抱きしめていた王妃を殺し、カーティネスを馬車から連れ出した。
賊は、騎士だった者は、カーティネスに言った。
“ご心配なさらなくとも大丈夫ですよ、カーティネス王女。貴女を殺しはしません。楽しい玩具を沢山ご用意致しましょう。可愛らしい人形も好きなだけ差し上げます。欲しいものは何でも手に入れて見せましょう。その代わり―――”
“一生鳥籠の中で飼い殺しにされますけどね”
にっこりと笑って言われた言葉はカーティネスを容易く絶望に突き落とした。
呆然と涙を流すカーティネスに、賊は“ああ、今日のことはどうかご内密に”と言って仲間と話し始める。
無力だった。馬車の中で冷たくなっているだろう両親に駆け寄ることもできず、ただ泣くことしかできない。
おそらくこの騒ぎを起こしたのは軍部だろう。軍縮派の両親を随分と疎んでいたから。
このまま一生飼い殺されるのか、と両親の死を悼むこともできずに泣いていたカーティネスは、ふと気がついた。
先程まで何やら話しあっていた賊たちの声が聞こえなくなっている。
地面に縫いとめられていた視線を上げることもできずに不思議に思っているとぽん、と頭に手が置かれた。
そのままくしゃくしゃと撫でてくる手に困惑する。
カーティネスは王女だ。頭を撫でてくれるのは両親くらいで、それ以外は触れることも許してはくれなかった。
なのに無遠慮に撫でる手は止まることを知らず、撫でられ続けたカーティネスはようやく顔を上げた。
目の前にいたのは先程の賊ではなく比較的軽装の青年。
「嬢ちゃん、怪我はないみたいだな。家はどこだ?送ってやるよ」
「……っ」
「嬢ちゃん?」
カーティネスは震える体で青年に抱きついた。抱き上げようとした手に首を振って拒否を示し、その場から動かなかった。
帰りたくなかったのだ。鳥籠と呼ばれた王宮へ、帰りたくなかった。
おそらく帰れば先程の賊の言葉通り飼い殺しにされるのだろう。お飾りの王女にされてしまうのだろう。
大好きな両親との思い出が詰まった王宮で、元帥である叔父の操り人形にされるのはどうしても耐えられなかった。
「……わけありか?」
カーティネスの様子に青年は何かを察したようで真剣な声音で訪ねてくる。
無言で首肯すればほんの少しばかり考えた青年は再びカーティネスの頭を撫でた。
「なら、俺と一緒にくるか?」
ほんの少し緩められた腕。
けれど次の瞬間ぎゅっ、と腕の力を強めた。
青年にはそれだけで十分だったらしく、青年はカーティネスを抱き上げた。
「ああそうだ。お前、なんて名前なんだ?」
「カーティー……カーティネス・シュバエウルク」
「そっか。俺はクリムゾン・アンジェリーナ・ルドルフだ。これからよろしくな」
互いに名乗ったことで互いの正体が分かったが、カーティネスにとっては些細なことだった。
血塗れた青年に抱きついた時から元の生活は諦めた。
両親が死んでしまったことを認めてしまったも同然の行為をした時点で、幸せだった王宮へは帰れるはずもなかった。
「転移魔法」
だから、頬に伝った涙には見ないふりをした。
***
そして8年後。カーティネスは16歳になっていた。
セミロング程度の長さしかなかった赤髪は腰辺りにまで伸ばされ、ふんわりと巻かれた髪が可愛らしい。
凹凸のなかった身体は女性らしくしなやかに曲線を描いている。
そんな体を隠すかのようなふんわりとしたシルエットの真っ赤なドレスは選んだ人物の過保護故だ。
「魔族だとはわかったけど、まさか魔王だなんて思いもしなかったわ」
「いきなりどうしたんだ?」
「今日ね、初めて会った日の夢を見たの」
随分と成長したカーティネスと打って変わって出会った当時とさほど変わらぬクリムゾン。
そんなクリムゾンとティータイムを楽しんでいたカーティネスが不意に口を開けば、クリムゾンはああ、と一言言って紅茶を飲んだ。
クリムゾンにとってはたかが8年の時間しか経っていないが、カーティネスにとってはもう8年もの時間が経ったということなのだろう。
懐かしそうにクリムゾンの瞳が細められる。
「あの時のお前はまさに小動物だったなぁ。ぷるぷる震えて可愛いのなんのって」
「あら、そんなこと思ってたの?」
「ああ。ボロボロ涙零してるから頭撫でたら懐いてくるから連れて帰るしかないと思った」
「私の一世一代の決意をそんなにも軽く……」
「いいじゃないか。そのおかげで元の生活と似たような生活を送れてるだろ?」
クリムゾンの言うとおり、カーティネスはシュバエウルクの王女であった時と同じような生活を送っていた。
いや、むしろ当時よりも贅沢になったともいえる。
クリムゾンはカーティネスの欲しいものどころか自分の与えたいものすら渡してきたりするので当時よりも快適に過ごせていた。
「だからって両親を亡くしたばかりの私に対してその感想は失礼でしょう?」
「まあそうだな。ごめん。でもあの時のお前は可愛らしかった」
「……あの時だけ?」
「今も可愛いけど、綺麗になったっていうほうが合ってる」
クリムゾンはカーティネスに嘘をつかない。
それを知っているカーティネスはクリムゾンの言葉に素直に喜んだ。
頬をほんのりと染める様はまさしく恋する乙女。
「本当に、人は成長が早い。瞬きする間に大人になる」
名残惜しげにクリムゾンはカーティネスの頬を撫でた。
カーティネスはクリムゾンの手に自分の手を重ねて擦り寄る。
そのままの状態でクリムゾンは明日の天気を訪ねるかのように何気なく言った。
「なあカーティー。俺と結婚しないか」
「え……」
たまたま思いついたから言ったというような気安さだった。
確かにカーティネスはクリムゾンに恋をしているし、愛している。
恩人へ向ける気持ちの枠を超えてしまっていることくらい自覚していた。
けれど、結婚したいかと言われれば首を振る。
一方的な思いで十分なのだ。ペットを可愛がるのような感じで構ってくれればいい。
10を与えて1が返ってくる程度の関係がちょうどいい。
「む、り。無理、よ」
「なんで」
「なんで、って」
「カーティーは俺が好きだろ?」
当然のことのように言うクリムゾンにカーティネスは視線を彷徨わせた。
どうすればわかってくれるのだろうか。
「だって私、人間だもの」
「知ってる」
「今は子供だけど、すぐに老いるわ」
「うん」
「必ず、貴方を置いていく」
「そうだな」
クリムゾンの手に爪を立てた。
脆弱な人間であるカーティネスの力では傷1つ付けられない。
魔族と人間。その壁はあまりにも高い。
「私が死んだら、きっと忘れてしまうでしょう?」
そしてなによりもそれが耐えられない。
「それどころかどうして結婚したのかって疎んじるわ。嫌よそんなの、絶対いや」
綺麗な魔族の女性と再婚する際にそう思われるのが嫌だった。
クリムゾンは魔族だが、ただの魔族ではない。魔王族だ。
魔王になるには魔王族の血をひいていることが絶対条件となっている。
だから魔王であるクリムゾンは必ず血を残さねばならないし、そのためには魔族の女性を妻にしたほうがいい。
もしカーティネスと結婚すれば死んだ後にきっと再婚するのだろう。クリムゾンに相応しい魔族の女性と。
考えただけで泣きそうになる。
「だから私、貴方とは結婚しないわ」
忘れられて疎まれるくらいなら最初から何もないほうがいい。
だが我儘を言っていいならばカーティネスが生きている間くらいは結婚しないでほしい。
もしくは今殺してくれたっていい。
クリムゾンにならば殺されたって構わない。
「カーティー、お前なぁ……」
はぁ、と盛大な溜息とともにクリムゾンはカーティネスを抱き上げた。
呆れています、というのが容易に読み取れるほどでそれが少しカーティネスを苛立たせる。
クリムゾンはそのままカーティネスをベットの上に寝転がらせ、自分はその上に覆いかぶさった。
「く、クリムゾン!?」
「お前、8年間俺の傍で何を見てきたんだ?俺はお前をそんなにもぞんざいに扱ったか?俺はおまえに対してそんなにも不誠実な男だったか?」
「ちが、う、けど……」
「ならどうしてそんなことを言うんだ?忘れる?疎んじる?冗談も大概にしろ」
怒っている。それはわかる。
たが、どうしてそこまで怒っているのかがわからない。
カーティネスとしては当然のことを言ったまでだ。
2000年を生きる魔王族と100年程度しか生きられない人間はあまりに違いすぎる。
たとえ道が交わったとしてもそれは魔王族にとって些細な出来事にしか過ぎないのだろう。
たかが20分の1しか生きられない人間にそこまで心を砕くとは思えない。
「でも……」
「でもじゃない」
なおも言い募ろうとするカーティネスの言葉を怒りを隠そうともせずにクリムゾンは遮った。
どうしてわからないのか、わかろうとしないのか。
今のクリムゾンの思いはそれだけだった。
クリムゾンはカーティネスを愛しているとまではいかないが、愛しく思っているのは間違いなかった。
もう少し時間が経てば恋愛感情にまで発展することもわかっていた。
だからカーティネスが生きている間に自分のものにしておきたかったのだ。
時間が経てば、と言ったがその時間が100年か200年か、はたまた500年かはクリムゾン自身にもわからない。
ただわかるのは今カーティネスを手に入れなければ全てが手遅れになるということだけ。
カーティネスが死んでからでは遅すぎるのだ。
「そんなにもわからないのなら、わかるようにしてやろうか?」
「どう、やって……」
「こうやって」
言うや否やクリムゾンは自らの手首を噛み切った。
ぎょっとするカーティネスを放っておいて血に濡れた唇で言葉を紡ぐ。
「我が血に誓う」
「!?」
カーティネスは耳を疑った。
その言葉は“血の誓約”と呼ばれるもの。
自らの魔力を持って自らの血に刻み込む呪縛。
「我クリムゾン・アンジェリーナ・ルドルフは生涯カーティネス・シュバエウルクを忘れることなく」
使われてはいけないものだった。
「我クリムゾン・アンジェリーナ・ルドルフは生涯カーティネス・シュバエウルク以外を妻に娶ることなく」
使わせてはいけないものだった。
「我クリムゾン・アンジェリーナ・ルドルフは生涯カーティネス・シュバエウルク以外を愛することはない」
でも、止められなかった。
「誓いを破れば死することをここに宣言す」
嬉しかったのだ。今すぐ死んでもいいと思うくらい、嬉しかった。
血の誓約は改竄することも修正することも、破棄することもできない死ぬまで続く呪縛だ。
自らが綴るそれは、多くの魔力を有する魔族にだけ許された気高き誓い。
人よりも長いその生の中でその誓いを守り続けることの難しさを知らぬわけではないだろうに、それでもなお誓ったクリムゾン。
その姿にカーティネスは先ほどまでの迷いなど消えて、ただ愛しいという思いだけが溢れてきた。
「ふっ……くり、むぞ……」
「泣くな、カーティー」
「だ、て、」
「ははっ。なぁ、これでわかったか?」
嗚咽で声が出ず必死に首を縦に振る。
その姿を愛おしそうにクリムゾンは見つめた。
「シュバエウルクの王女、カーティネス・シュバエウルクよ。俺と、魔王たるクリムゾン・アンジェリーナ・ルドルフと、結婚してくれないか」
改めて紡がれたのは魔族の正式な求婚。
重なった唇はその答えだった。