西郷と大久保
とある説を元に、西郷と大久保の絆そして離別を書いてみました
鹿児島、帰途の地、故郷の山中、西郷吉之助 (隆盛) は愛犬の鎖を握り、狩りをし、泥にまみれて畑を耕していた
その背中を、私学校の生徒たちが勇ましくもいぶかしい目で見つめていた
若者たちは、西郷が「大久保は間違っている」と言うのを待っていた
その一言があれば、彼らは大義名分を得て、即座に東京へ向けて決起する
逆に、西郷が「大久保が正しい」と言えば、彼らは「西郷すら我らを見捨てた」と絶望し、各地で暴徒化するかもしれない
(おはんたちの言うことも分かる、だが、一蔵 [大久保利通] の言うことも、また国のためには正しいのだ)
だから、西郷は何も語れなかった
正論を言えば教え子たちを絶望の底に突き落とし、感情に任せて煽れば国の統一が乱れる
西郷はただ犬を連れて山を歩き、狩りをし、泥を耕し、沈黙という手綱だけで、不平士族を繋ぎ止めようと独り重圧に耐えていた
東京 霞が関の内務省、大久保利通の執務室に、鹿児島からの密偵の報告書が届く
『西郷、日々犬を連れ、山に入りて狩るのみ、政治の語は一切なし』
部下は「西郷は牙を抜かれたか」と首を傾げたが、大久保は無言で報告書を伏せた
吉之助の沈黙の理由を、大久保は重々承知していた
鹿児島城下の加治屋町で、共に貧しさをしのぎ、遊び学び、同じ志を抱いて育った幼馴染だ
お互いの親や兄弟、考え方まで知り尽くした家族同然の仲だからこそ、言葉を交わさずともその真意が分かった
「敬天愛人」、人の頼みは無下には出来ない、そんな男だった
言葉を発すれば、どちらに転んでも争いは避けられない
だからあの男は、ただの農夫として泥にまみれ、すべてを土の下に埋めて時が解決するのを待っているのだ
(吉之助、おはんの苦しみは分かる、だが、国に時間は残されていないのだ)
欧米の列強に立ち向かうため、古い「士族」という仕組みは、解体せねばならない
大久保は眼鏡の奥の目を細め、鹿児島の弾薬庫から武器を搬出する命令書に、静かに署名した
吉之助の沈黙を力ずくで破り、自らが歴史の楔となって、時代の決着をつけるための引き金を引いた
明治十年、九月二十四日、不平士族を率いて立った西南戦争の果て、西郷は鹿児島城山で自刃した
東京の私邸でその電報を受け取った大久保は、しばらく動けなかった
書記官を退出させ、部屋に一人になった瞬間、その冷徹と思われていた男は崩れ落ちた
大久保は家中を声を上げて泣きながら歩き回り、机にしがみつくようにして泣き崩れた
吉之助は、教え子たちの絶望をすべて道連れにして、泥舟と共に沈んだのだ
大久保という「国家の要」に、己の命ごと士族の時代を討たせるために
(おはんは、最初から死に場所を探していたのだな、すべてを、私に託すために)
大久保は引き出しから、小さな手箱を取り出した
その中にあったのは、かつて二人が同じ夢を追い、命を懸けて国を動かしていた頃に西郷から届いた、古い二通の手紙だった、大久保は、その生々しい筆跡の残る手紙を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた
脳裏をよぎるのは、まだ何者でもなかった少年時代、夜空を眺めて未来を語り明かした故郷の夜だ
お互いのすべてを知り尽くしたはずの二人の道が、遠く隔たってしまった
涙のなかで、大久保の胸を去来したのは、かつて抱いた思いだった
――天下に我が知己は、ただ西郷あるのみ、西郷に我が知己は、ただ我あるのみ
その片翼を、自らの手で亡き者にした孤独が、大久保の体を激しく震わせた
やがて大久保は涙を拭い、再び眼鏡をかけた
翌朝からは、また冷徹な内務卿として、吉之助のいないこの国を一人で動かしていかねばならない
それが、親友を殺めた己の責任だと知っていた
そのわずか八ヶ月後、大久保もまた紀尾井町で暗殺される
倒れた彼の懐からは、あの時に流した涙で歪み、今度は血に染まった西郷の二通の手紙が見つかった
二人の無言の対話は、そこでようやく幕を閉じた
***
東京 上野の丘に、ひとつの銅像がたたずんでいる
軍服ではなく、着物に草履の身軽な姿で、愛犬の鎖を握り、遠くを見つめる男の姿
それはあの日、すべてを飲み込んで鹿児島の大地を歩いていた、あの沈黙の西郷吉之助そのものである
かつて大久保が命を懸けて守り、西郷が命を賭して拓いたこの国の首都を、男は今も静かに見守り続けている




