第31話 【早暁の寝室に散る火花――腹心エミリアの越権を制する、完璧なる正妃の威厳】
「王太子殿下と王太子妃殿下は、まだご就寝中でございます」
早朝。薄暗い王宮の廊下で、アリシアの侍女の冷ややかな声が響いた。
「私は摂政殿下の侍従武官兼補佐官である、エミリア・レーベンである。摂政殿下に火急でお知らせせねばならぬ事態が起きた。王太子妃殿下に早急にお言伝願いたい」
寝室の扉越しに聞こえてきたその言い争う声で、アルベルトは微かに目を覚ました。
正妃や側妃と床を共にする場合、その寝所の周辺管理と世話をするのは『妃側の侍女』であるというのが、ナーロッパの王族や有力貴族における常識であった。夫が寝室にいる間、そうした外部からの接触を管理・取次ぎするのは妃の役割であり、後宮(奥)全体を統括するのが『正妃』の絶対的な権限なのである。
そのため、アルベルトはこの状況で不用意に口を挟むことはできない。こういう時は、外の者がまず侍女に伝え、侍女から妃へ報告し、妃がそれを了承して初めて夫に判断を仰ぐのが、正式なプロトコルであった。
やがて外での押し問答が一段落したのか、侍女の一人が寝室の扉に近づき、声をかけてきた。
「王太子妃殿下、ご起床されておいででしょうか?」
「……ええ。どうしましたか?」
薄絹の寝衣を直しながら、アリシアが扉越しに静かに答える。
「王太子殿下の侍従武官兼補佐官、エミリア様が『火急の知らせがある』とお越しですが、いかがいたしましょうか?」
「分かりました」
アリシアは短く応じた後、凛とした、しかしまだどこか寝起きの微かな甘さを残した声で扉の向こうへ告げた。
「エミリア卿。火急とのことですが、どのようなご用件でしょうか?」
「……それは、摂政殿下に直接申し上げます。早急に殿下に拝謁できるよう、お取り計らいください」
エミリアのその要求に対し、アリシアは氷のように冷ややかな声で返した。
「緊急のご用件であれば、本来ならば『侍従長』、もしくは非番であれば『侍従次長』が報告に来るべきでしょう。……違いますか?」
王宮のヒエラルキーにおいて、侍従とは側近の文官であり、侍従武官は側近の武官である。そして侍従長こそがそれらの責任者であり、正式な指揮系統のトップであった。一介の侍従武官に過ぎないエミリアが、王太子の寝室に直接報告に来るなど、明らかな越権行為である――アリシアは、正妃としての権限をもって暗にそう叱責したのだ。
その指摘の鋭さに、エミリアの後ろに控えていた二名の侍従武官が表情を険しくし、反論しようと前に出た。しかし、エミリアはそれを手で制止する。
「王太子妃殿下の申されることは、ごもっともでございます。……しかし、今回は国家存亡と言って良い緊急事態であります。どうか、この無礼をご容赦くださいませ」
静かな火花が散る中、たまらずアルベルトが助け船を出した。
「……アリシア。エミリア卿には、王宮の『諜報機関』との取次を任せているのだ。おそらく、外国でよほどの緊急事態が発生し、正規の系統を飛ばして直に報告に来たのだろう」
夫であるアルベルトがそう口を出した以上、アリシアもこの場は引き下がるしかない。彼女は扉から一歩退き、アルベルトに視線で場を譲った。
「エミリア卿。緊急の件とは、内密にせねばならぬ事か? そうであれば今すぐ着替えるが……」
「いえ。摂政殿下にすぐ御裁可を仰ぎたく参上いたしました」
「わかった。ならばこの場で報告せよ」
アルベルトの許可を得て、エミリアは扉の向こうで居住まいを正し、緊迫した声を響かせた。
「摂政殿下に申し上げます。西の『フリーランス王国』が、軍の動員を開始したと諜者から報告が入りました。兵糧等の軍需物資も、国境に近いルエヌに集積を開始しているとのことです。……そして同時に、北の『デーン王国』もオレンボー辺境伯も、不穏な軍の動員を開始しているとのこと」
その報告を受け、アルベルトは寝台の上で手を顎に当て、鋭い目を細めた。
「成程……二方面の同時動員か。三務卿にこの件は伝えたのか?」
「はい。すでに三務卿には使いを送っております」
その迅速すぎるエミリアの答えを聞いて、アリシアは内心で小さく溜息をついた。
(……殿下は、あの腹心に位不相応な権限を与えすぎですね。確かに有能な手駒ではあるのでしょうが、特例的な権限の集中はいずれ宮廷内の正規の指揮系統を腐敗させ、秩序を乱す元凶になります。平時においては、是正すべき悪癖ですわ)
アリシアが統治者としての冷徹な沈思黙考を進める中、アルベルトは即座に決断を下した。
「わかった。では、午後一時に御前会議を開く。その調整を頼む。……それから、軍を本格的に動かすための『御裁可』を父上に仰がねばならない。陛下にこの事をお伝えし、拝謁できるよう取り次いでくれ」
「御意」
エミリアは深く一礼すると、連れて来た侍従武官二名と共に足早にその場を立ち去った。
足音が遠ざかるのを確認すると、アリシアは振り返り、夫に向けて静かに言った。
「アルベルト様。一つ、お願いがございます」
「何だろうか」
アルベルトが向き直ると、アリシアは完璧な淑女の微笑みを浮かべて答えた。
「はい。私はまだ、国王陛下――義父上にお会いした事がございません。軍議の前のこの拝謁に、私も同行してもよろしいでしょうか?」
ただの飾りではなく、国政の深部へ共に踏み込むという、彼女なりの確固たる意志。
アルベルトは少し驚いたように目を見開いた後、ふっと口元を緩めた。
「確かに、アリシアはまだ父上と顔合わせをしていなかったな。……わかった、一緒に行こう」
早朝の冷たい空気が張り詰める中、二人の「共犯者」は、王国の命運を左右する戦いの準備へと静かに立ち上がった。
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