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公爵様の心臓

作者: さおり
掲載日:2026/05/10

伯爵令嬢リリアーヌは、自分が売り飛ばされるように嫁ぐのだと思っていた。


 馬車の窓から見える空は曇っていた。まるで彼女の未来を暗示しているようだ、と侍女は泣いたが、リリアーヌ本人は泣かなかった。


「泣いたところで、結婚相手が変わるわけでもないもの」


 彼女はそう言って微笑した。


 その微笑は、美しかった。


 だが、どこか壊れかけた人形のようでもあった。


 彼女が嫁ぐ相手――北方辺境を治めるアルヴェール公爵は、奇妙な噂で有名だった。


 冷酷。


 無慈悲。


 血も涙もない。


 そして、


「公爵様には、心臓がないのですって」


 侍女が小声で言った。


「機械で動いているとか」


「まあ」


 リリアーヌは少しだけ目を丸くした。


「それは便利そうね」


「お嬢様!」


 侍女は青ざめた。


 だが、リリアーヌは本気だった。


 彼女自身、自分の心などとっくに冷え切っていると思っていたからだ。


 伯爵家は没落寸前だった。


 父は賭博に明け暮れ、母は社交界にしがみつき、兄は借金を作って失踪した。


 残されたのは、美しい娘だけ。


 つまり、リリアーヌだった。


 公爵家からの縁談が来た時、父は三秒で承諾した。


「名誉なことだ!」


 と言って。


 その直後、借金取りに金貨袋を投げていたので、リリアーヌはすべてを察した。


 だから、期待などしていなかった。


 公爵が怪物でも構わない。


 どうせこの世は、もっと別の怪物で満ちている。


 そう思っていた。


 城に着くまでは。


    *


 アルヴェール公爵邸は、山の上にあった。


 黒い石で造られた巨大な城。


 まるで墓場だ、とリリアーヌは思った。


 だが、中へ入ると意外にも暖かかった。


 廊下には柔らかな絨毯が敷かれ、暖炉の火が静かに揺れている。


 そして使用人たちは妙に無口だった。


 全員が時計のように正確に動く。


 無駄話をしない。


 足音さえ揃っている。


 気味が悪いほどに。


「公爵様がお待ちです」


 執事が言った。


 大広間の扉が開く。


 そこに、一人の男がいた。


 銀髪。


 青い瞳。


 長身。


 そして、恐ろしく整った顔。


 リリアーヌは思わず瞬きをした。


 怪物だと思っていた。


 だが実際は、氷で作られた王のような男だった。


「初めまして、リリアーヌ嬢」


 声まで美しかった。


「アルヴェールです」


 彼は優雅に礼をした。


 その動作には一分の隙もない。


 完璧。


 あまりに完璧すぎて、人間味がなかった。


「お会いできて光栄です、公爵様」


 リリアーヌも礼を返した。


 すると、公爵はじっと彼女を見た。


 長い沈黙。


 まるで値踏みされているようだった。


 だが次の瞬間、公爵は言った。


「疲れているでしょう。夕食は部屋へ運ばせます。今日は休んでください」


 それだけだった。


 怒鳴られもしない。


 抱き寄せられもしない。


 愛の言葉もない。


 ただ、機械のように正確な気遣いだけがあった。


 リリアーヌは拍子抜けした。


 そして同時に、少しだけ怖くなった。


 この男は、本当に心がないのではないか。


    *


 結婚生活は奇妙だった。


 公爵は優しかった。


 いや、正確には「丁寧」だった。


 寒ければ暖炉を増やし、紅茶が冷めれば新しいものが来る。


 リリアーヌが本を好むと知れば、翌日には図書室が解放された。


 欲しいものは、言う前に揃う。


 だが。


 そこには熱がなかった。


 花を贈られても、詩を読まれても、まるで義務のようなのだ。


「公爵様は、わたくしを愛しているのですか?」


 ある夜、リリアーヌは聞いた。


 暖炉の火が揺れていた。


 公爵はワインを置き、静かに答えた。


「愛とは、なんでしょう」


「まあ」


「私は理解できません」


 冗談ではない顔だった。


 リリアーヌは苦笑した。


「それでは困ります。夫婦なのですから」


「努力はしています」


「努力で愛せるの?」


「わかりません」


 公爵は真顔で言った。


「ですが、あなたが不快にならぬよう最大限配慮しています」


 その言い方が妙におかしくて、リリアーヌは吹き出した。


 公爵は少し驚いた顔をした。


「今、なぜ笑ったのです?」


「公爵様が、あまりにも真面目だからです」


「笑う場面でしたか?」


「ええ」


「なるほど」


 彼は頷いた。


 まるで研究者だった。


 リリアーヌは思った。


 本当に、この人には心がないのかもしれない。


    *


 城には奇妙な部屋があった。


 地下深く。


 鍵のかかった鉄の扉。


 誰も近づかない。


 ある日、リリアーヌは執事に尋ねた。


「あそこは何?」


 執事は一瞬だけ表情を曇らせた。


「公爵様の私室です」


「地下に?」


「はい」


「変わっているのね」


「……公爵様は、昔から少々特殊なお方でして」


 それ以上は語らなかった。


 だが、人間は秘密を見ると開けたくなる。


 特に退屈な結婚生活を送っている伯爵令嬢なら、なおさらだった。


 数日後。


 リリアーヌは地下へ降りた。


 夜中だった。


 誰もいない。


 鉄の扉の前に立つ。


 すると。


「何をしているのです」


 後ろから声がした。


 公爵だった。


 青い瞳が暗闇で光っている。


 怒っているようには見えない。


 だが、ひどく冷たかった。


「ごめんなさい。気になって」


「開けないでください」


「どうして?」


 公爵は沈黙した。


 そして静かに言った。


「失望される」


「何に?」


「私に」


 その瞬間だけ。


 ほんの一瞬だけ。


 彼の声に、人間らしい響きが混じった。


 リリアーヌは驚いた。


「公爵様でも、そんな顔をするのね」


「どんな顔です?」


「怖がっている顔」


 公爵は黙った。


 長い沈黙のあと、彼は鍵を取り出した。


「……見ますか」


 鉄扉が開いた。


 部屋の中央には、巨大なガラス筒があった。


 中で、赤いものが脈打っている。


 心臓だった。


 巨大な管につながれ、液体の中で鼓動している。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 リリアーヌは息を呑んだ。


「これは……」


「私の心臓です」


 公爵は淡々と言った。


「十五年前に摘出しました」


「摘出?」


「感情は非合理です。父は激情で戦争を起こし、母は嫉妬で毒殺を企てた。兄は恋で身を滅ぼした。私は思ったのです。原因を取り除けばいい、と」


 公爵はガラス越しに心臓を見た。


「以来、私は極めて効率的に生きています」


 リリアーヌはしばらく何も言えなかった。


 ようやく口を開く。


「馬鹿みたい」


 公爵は瞬きをした。


「……初めて言われました」


「当たり前です」


 リリアーヌは呆れた。


「心臓を取ったくらいで、感情が消えるわけないでしょう」


「ですが私は、愛が理解できない」


「それは昔から鈍感だっただけじゃない?」


 公爵は真剣に考え始めた。


 リリアーヌはとうとう笑い出した。


 地下室に笑い声が響く。


 すると。


 ガラス筒の中の心臓が、どくん、と強く脈打った。


 二人は同時に黙った。


「……今のは?」


「知りません」


 だが、公爵の耳がわずかに赤かった。


    *


 それから、少しずつ奇妙な変化が起きた。


 公爵は以前より無口になった。


 いや、正確には。


 考え込むことが増えた。


「どうしました?」


「わかりません」


「便利な言葉ね」


「胸が騒ぐのです」


「心臓ないのに?」


「ええ」


 リリアーヌは笑った。


 すると公爵は、じっと彼女を見る。


「あなたが笑うと、地下室の心臓が激しく動くのです」


「嫌な現象ね」


「故障でしょうか」


「恋でしょう」


 その瞬間、公爵は本気で硬直した。


「……なるほど」


 数秒後。


「違います」


「否定が遅いわ」


 リリアーヌはまた笑った。


 公爵は黙り込んだ。


 そして、その夜。


 地下室の心臓は朝まで暴走した。


    *


 だが幸福は長続きしない。


 ある日、王都から使者が来た。


 王命だった。


「アルヴェール公爵に、国防長官への就任を命ずる」


 つまり中央政界への復帰だった。


 貴族たちはざわついた。


 北方の冷血公爵。


 感情なき統治者。


 彼が中央へ来れば、多くの権力者が失脚する。


 そして当然。


 リリアーヌにも接触が来た。


「公爵夫人、お気をつけください」


 舞踏会で老貴族が囁いた。


「あのお方には心がない。あなたも道具として扱われているだけですよ」


 別の女は言った。


「子供ができれば捨てられますわ」


 誰も彼も勝手なことを言う。


 リリアーヌは黙って聞いていた。


 だが帰宅後。


 彼女はふと思った。


 もし本当に、公爵に心がなかったら?


 あの優しさも。


 あの視線も。


 全部、演算の結果だったら?


 そう考えた瞬間。


 胸が少し痛んだ。


    *


 その夜。


 リリアーヌは地下室へ行った。


 心臓は静かに脈打っている。


「あなた、本当に公爵様の心なの?」


 当然、返事はない。


 だが。


 どくん。


 心臓が強く動いた。


「……いるのね」


 彼女はガラスに触れた。


「ねえ。もしあなたに感情が残ってるなら教えて。あの人は、わたくしを愛してる?」


 どくん。


 どくん。


 鼓動が速くなる。


 その時だった。


「何をしているのです」


 公爵が立っていた。


 だが今夜の彼は、妙だった。


 呼吸が荒い。


 顔色が悪い。


「公爵様?」


「……あなたが地下へ来ると、異常が起きる」


「異常?」


「心臓が制御不能になる」


 彼は壁に手をついた。


「頭痛、動悸、発熱。極めて不快です」


「それ、普通の恋では?」


「非効率です」


「恋ってだいたい非効率よ」


 公爵は苦しそうな顔で彼女を見た。


「理解できない」


「無理に理解しなくていいのに」


「ですが――」


 そこで彼は言葉を切った。


 そして。


 静かに言った。


「あなたが誰かに笑いかけると、胸が壊れそうになる」


 リリアーヌは目を見開いた。


「それを嫉妬というのです」


 公爵はしばらく沈黙した。


 まるで難解な学問を理解した学生のように。


「……なるほど」


「今さら?」


「はい」


 その顔が妙に真面目で。


 リリアーヌは吹き出した。


 すると。


 地下室の心臓が爆発しそうな勢いで鼓動した。


    *


 翌日。


 事件が起きた。


 地下室の警報が鳴ったのだ。


 使用人たちが駆け込む。


 ガラス筒に亀裂が入っていた。


 心臓が異常発熱している。


「原因は!」


「不明です!」


 技師たちが叫ぶ。


 公爵は静かに状況を見ていた。


 だが。


 リリアーヌが近づいた瞬間。


 心臓が激しく脈打ち始めた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 ガラスにさらに亀裂が走る。


「まさか」


 技師が青ざめた。


「感情過多だ……!」


「そんな病気みたいに言わないで」


 リリアーヌは呆れた。


 だが次の瞬間。


 ガラスが砕けた。


 赤い液体が飛び散る。


 心臓が宙に浮いた。


 そして。


 一直線に公爵の胸へ飛び込んだ。


 使用人たちが悲鳴を上げる。


 公爵はその場に崩れ落ちた。


「公爵様!」


 リリアーヌは駆け寄った。


 彼の胸から、どくどくと鼓動が響いている。


 強く。


 熱く。


 生きている音。


 公爵はゆっくり目を開けた。


 そして。


 初めて、人間らしい顔で笑った。


「……なるほど」


「またそれ?」


「愛とは、苦しいものなのですね」


「ええ」


「非効率です」


「そうね」


「ですが」


 彼はリリアーヌの手を握った。


 少し震えていた。


「悪くない」


 その瞬間。


 リリアーヌは思った。


 ああ。


 この人は、本当に不器用なんだ。


 心臓を捨てるほど。


 愛を恐れるほど。


 けれど。


 だからこそ。


 きっと誰よりも、愛を欲しがっていたのだ。


    *


 数か月後。


 王都では妙な噂が流れた。


「アルヴェール公爵が変わった」


 以前は氷のようだった男が、最近は笑うらしい。


 会議中にぼんやりする。


 夫人からの手紙を読むと耳が赤くなる。


 極めつけには。


 ある大臣が言った。


「公爵閣下。最近、人間らしくなりましたな」


 すると公爵は真顔で答えた。


「心臓を入れたので」


 周囲は沈黙した。


 だが公爵だけは本気だった。


 その日の夜。


 リリアーヌはその話を聞いて大笑いした。


「公爵様、変な人」


「そうでしょうか」


「ええ」


「ですが」


 公爵は彼女を抱き寄せた。


「あなたも、かなり変です」


「失礼ね」


「普通の令嬢は、地下室で心臓に話しかけません」


「普通の公爵は、心臓を摘出しないわ」


 しばらく沈黙。


 そして二人は同時に笑った。


 暖炉の火が揺れている。


 外では雪が降っていた。


 静かな夜だった。


 公爵はふと思った。


 もし昔の自分なら、この時間を無駄だと判断しただろう。


 利益もない。


 効率もない。


 合理性もない。


 だが。


 リリアーヌが笑っている。


 それだけで胸が温かかった。


 非効率。


 極めて非合理。


 しかし。


 人生には、そういうものが必要なのかもしれない。


 彼はそう結論づけた。


 すると。


「公爵様」


「なんです?」


「今、また研究みたいな顔してた」


「いけませんか」


「ふふ。別に」


 リリアーヌは笑い、彼の胸に耳を当てた。


 どくん。


 どくん。


 心臓が鳴っている。


 ちゃんと。


 人間らしく。


 そして公爵は、少し困った顔で彼女の髪を撫でた。


 恋とは不思議なものだ。


 心臓を捨てた男ですら。


 最後には、そこへ戻ってくるのだから。


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