公爵様の心臓
伯爵令嬢リリアーヌは、自分が売り飛ばされるように嫁ぐのだと思っていた。
馬車の窓から見える空は曇っていた。まるで彼女の未来を暗示しているようだ、と侍女は泣いたが、リリアーヌ本人は泣かなかった。
「泣いたところで、結婚相手が変わるわけでもないもの」
彼女はそう言って微笑した。
その微笑は、美しかった。
だが、どこか壊れかけた人形のようでもあった。
彼女が嫁ぐ相手――北方辺境を治めるアルヴェール公爵は、奇妙な噂で有名だった。
冷酷。
無慈悲。
血も涙もない。
そして、
「公爵様には、心臓がないのですって」
侍女が小声で言った。
「機械で動いているとか」
「まあ」
リリアーヌは少しだけ目を丸くした。
「それは便利そうね」
「お嬢様!」
侍女は青ざめた。
だが、リリアーヌは本気だった。
彼女自身、自分の心などとっくに冷え切っていると思っていたからだ。
伯爵家は没落寸前だった。
父は賭博に明け暮れ、母は社交界にしがみつき、兄は借金を作って失踪した。
残されたのは、美しい娘だけ。
つまり、リリアーヌだった。
公爵家からの縁談が来た時、父は三秒で承諾した。
「名誉なことだ!」
と言って。
その直後、借金取りに金貨袋を投げていたので、リリアーヌはすべてを察した。
だから、期待などしていなかった。
公爵が怪物でも構わない。
どうせこの世は、もっと別の怪物で満ちている。
そう思っていた。
城に着くまでは。
*
アルヴェール公爵邸は、山の上にあった。
黒い石で造られた巨大な城。
まるで墓場だ、とリリアーヌは思った。
だが、中へ入ると意外にも暖かかった。
廊下には柔らかな絨毯が敷かれ、暖炉の火が静かに揺れている。
そして使用人たちは妙に無口だった。
全員が時計のように正確に動く。
無駄話をしない。
足音さえ揃っている。
気味が悪いほどに。
「公爵様がお待ちです」
執事が言った。
大広間の扉が開く。
そこに、一人の男がいた。
銀髪。
青い瞳。
長身。
そして、恐ろしく整った顔。
リリアーヌは思わず瞬きをした。
怪物だと思っていた。
だが実際は、氷で作られた王のような男だった。
「初めまして、リリアーヌ嬢」
声まで美しかった。
「アルヴェールです」
彼は優雅に礼をした。
その動作には一分の隙もない。
完璧。
あまりに完璧すぎて、人間味がなかった。
「お会いできて光栄です、公爵様」
リリアーヌも礼を返した。
すると、公爵はじっと彼女を見た。
長い沈黙。
まるで値踏みされているようだった。
だが次の瞬間、公爵は言った。
「疲れているでしょう。夕食は部屋へ運ばせます。今日は休んでください」
それだけだった。
怒鳴られもしない。
抱き寄せられもしない。
愛の言葉もない。
ただ、機械のように正確な気遣いだけがあった。
リリアーヌは拍子抜けした。
そして同時に、少しだけ怖くなった。
この男は、本当に心がないのではないか。
*
結婚生活は奇妙だった。
公爵は優しかった。
いや、正確には「丁寧」だった。
寒ければ暖炉を増やし、紅茶が冷めれば新しいものが来る。
リリアーヌが本を好むと知れば、翌日には図書室が解放された。
欲しいものは、言う前に揃う。
だが。
そこには熱がなかった。
花を贈られても、詩を読まれても、まるで義務のようなのだ。
「公爵様は、わたくしを愛しているのですか?」
ある夜、リリアーヌは聞いた。
暖炉の火が揺れていた。
公爵はワインを置き、静かに答えた。
「愛とは、なんでしょう」
「まあ」
「私は理解できません」
冗談ではない顔だった。
リリアーヌは苦笑した。
「それでは困ります。夫婦なのですから」
「努力はしています」
「努力で愛せるの?」
「わかりません」
公爵は真顔で言った。
「ですが、あなたが不快にならぬよう最大限配慮しています」
その言い方が妙におかしくて、リリアーヌは吹き出した。
公爵は少し驚いた顔をした。
「今、なぜ笑ったのです?」
「公爵様が、あまりにも真面目だからです」
「笑う場面でしたか?」
「ええ」
「なるほど」
彼は頷いた。
まるで研究者だった。
リリアーヌは思った。
本当に、この人には心がないのかもしれない。
*
城には奇妙な部屋があった。
地下深く。
鍵のかかった鉄の扉。
誰も近づかない。
ある日、リリアーヌは執事に尋ねた。
「あそこは何?」
執事は一瞬だけ表情を曇らせた。
「公爵様の私室です」
「地下に?」
「はい」
「変わっているのね」
「……公爵様は、昔から少々特殊なお方でして」
それ以上は語らなかった。
だが、人間は秘密を見ると開けたくなる。
特に退屈な結婚生活を送っている伯爵令嬢なら、なおさらだった。
数日後。
リリアーヌは地下へ降りた。
夜中だった。
誰もいない。
鉄の扉の前に立つ。
すると。
「何をしているのです」
後ろから声がした。
公爵だった。
青い瞳が暗闇で光っている。
怒っているようには見えない。
だが、ひどく冷たかった。
「ごめんなさい。気になって」
「開けないでください」
「どうして?」
公爵は沈黙した。
そして静かに言った。
「失望される」
「何に?」
「私に」
その瞬間だけ。
ほんの一瞬だけ。
彼の声に、人間らしい響きが混じった。
リリアーヌは驚いた。
「公爵様でも、そんな顔をするのね」
「どんな顔です?」
「怖がっている顔」
公爵は黙った。
長い沈黙のあと、彼は鍵を取り出した。
「……見ますか」
鉄扉が開いた。
部屋の中央には、巨大なガラス筒があった。
中で、赤いものが脈打っている。
心臓だった。
巨大な管につながれ、液体の中で鼓動している。
どくん。
どくん。
どくん。
リリアーヌは息を呑んだ。
「これは……」
「私の心臓です」
公爵は淡々と言った。
「十五年前に摘出しました」
「摘出?」
「感情は非合理です。父は激情で戦争を起こし、母は嫉妬で毒殺を企てた。兄は恋で身を滅ぼした。私は思ったのです。原因を取り除けばいい、と」
公爵はガラス越しに心臓を見た。
「以来、私は極めて効率的に生きています」
リリアーヌはしばらく何も言えなかった。
ようやく口を開く。
「馬鹿みたい」
公爵は瞬きをした。
「……初めて言われました」
「当たり前です」
リリアーヌは呆れた。
「心臓を取ったくらいで、感情が消えるわけないでしょう」
「ですが私は、愛が理解できない」
「それは昔から鈍感だっただけじゃない?」
公爵は真剣に考え始めた。
リリアーヌはとうとう笑い出した。
地下室に笑い声が響く。
すると。
ガラス筒の中の心臓が、どくん、と強く脈打った。
二人は同時に黙った。
「……今のは?」
「知りません」
だが、公爵の耳がわずかに赤かった。
*
それから、少しずつ奇妙な変化が起きた。
公爵は以前より無口になった。
いや、正確には。
考え込むことが増えた。
「どうしました?」
「わかりません」
「便利な言葉ね」
「胸が騒ぐのです」
「心臓ないのに?」
「ええ」
リリアーヌは笑った。
すると公爵は、じっと彼女を見る。
「あなたが笑うと、地下室の心臓が激しく動くのです」
「嫌な現象ね」
「故障でしょうか」
「恋でしょう」
その瞬間、公爵は本気で硬直した。
「……なるほど」
数秒後。
「違います」
「否定が遅いわ」
リリアーヌはまた笑った。
公爵は黙り込んだ。
そして、その夜。
地下室の心臓は朝まで暴走した。
*
だが幸福は長続きしない。
ある日、王都から使者が来た。
王命だった。
「アルヴェール公爵に、国防長官への就任を命ずる」
つまり中央政界への復帰だった。
貴族たちはざわついた。
北方の冷血公爵。
感情なき統治者。
彼が中央へ来れば、多くの権力者が失脚する。
そして当然。
リリアーヌにも接触が来た。
「公爵夫人、お気をつけください」
舞踏会で老貴族が囁いた。
「あのお方には心がない。あなたも道具として扱われているだけですよ」
別の女は言った。
「子供ができれば捨てられますわ」
誰も彼も勝手なことを言う。
リリアーヌは黙って聞いていた。
だが帰宅後。
彼女はふと思った。
もし本当に、公爵に心がなかったら?
あの優しさも。
あの視線も。
全部、演算の結果だったら?
そう考えた瞬間。
胸が少し痛んだ。
*
その夜。
リリアーヌは地下室へ行った。
心臓は静かに脈打っている。
「あなた、本当に公爵様の心なの?」
当然、返事はない。
だが。
どくん。
心臓が強く動いた。
「……いるのね」
彼女はガラスに触れた。
「ねえ。もしあなたに感情が残ってるなら教えて。あの人は、わたくしを愛してる?」
どくん。
どくん。
鼓動が速くなる。
その時だった。
「何をしているのです」
公爵が立っていた。
だが今夜の彼は、妙だった。
呼吸が荒い。
顔色が悪い。
「公爵様?」
「……あなたが地下へ来ると、異常が起きる」
「異常?」
「心臓が制御不能になる」
彼は壁に手をついた。
「頭痛、動悸、発熱。極めて不快です」
「それ、普通の恋では?」
「非効率です」
「恋ってだいたい非効率よ」
公爵は苦しそうな顔で彼女を見た。
「理解できない」
「無理に理解しなくていいのに」
「ですが――」
そこで彼は言葉を切った。
そして。
静かに言った。
「あなたが誰かに笑いかけると、胸が壊れそうになる」
リリアーヌは目を見開いた。
「それを嫉妬というのです」
公爵はしばらく沈黙した。
まるで難解な学問を理解した学生のように。
「……なるほど」
「今さら?」
「はい」
その顔が妙に真面目で。
リリアーヌは吹き出した。
すると。
地下室の心臓が爆発しそうな勢いで鼓動した。
*
翌日。
事件が起きた。
地下室の警報が鳴ったのだ。
使用人たちが駆け込む。
ガラス筒に亀裂が入っていた。
心臓が異常発熱している。
「原因は!」
「不明です!」
技師たちが叫ぶ。
公爵は静かに状況を見ていた。
だが。
リリアーヌが近づいた瞬間。
心臓が激しく脈打ち始めた。
どくん。
どくん。
どくん。
ガラスにさらに亀裂が走る。
「まさか」
技師が青ざめた。
「感情過多だ……!」
「そんな病気みたいに言わないで」
リリアーヌは呆れた。
だが次の瞬間。
ガラスが砕けた。
赤い液体が飛び散る。
心臓が宙に浮いた。
そして。
一直線に公爵の胸へ飛び込んだ。
使用人たちが悲鳴を上げる。
公爵はその場に崩れ落ちた。
「公爵様!」
リリアーヌは駆け寄った。
彼の胸から、どくどくと鼓動が響いている。
強く。
熱く。
生きている音。
公爵はゆっくり目を開けた。
そして。
初めて、人間らしい顔で笑った。
「……なるほど」
「またそれ?」
「愛とは、苦しいものなのですね」
「ええ」
「非効率です」
「そうね」
「ですが」
彼はリリアーヌの手を握った。
少し震えていた。
「悪くない」
その瞬間。
リリアーヌは思った。
ああ。
この人は、本当に不器用なんだ。
心臓を捨てるほど。
愛を恐れるほど。
けれど。
だからこそ。
きっと誰よりも、愛を欲しがっていたのだ。
*
数か月後。
王都では妙な噂が流れた。
「アルヴェール公爵が変わった」
以前は氷のようだった男が、最近は笑うらしい。
会議中にぼんやりする。
夫人からの手紙を読むと耳が赤くなる。
極めつけには。
ある大臣が言った。
「公爵閣下。最近、人間らしくなりましたな」
すると公爵は真顔で答えた。
「心臓を入れたので」
周囲は沈黙した。
だが公爵だけは本気だった。
その日の夜。
リリアーヌはその話を聞いて大笑いした。
「公爵様、変な人」
「そうでしょうか」
「ええ」
「ですが」
公爵は彼女を抱き寄せた。
「あなたも、かなり変です」
「失礼ね」
「普通の令嬢は、地下室で心臓に話しかけません」
「普通の公爵は、心臓を摘出しないわ」
しばらく沈黙。
そして二人は同時に笑った。
暖炉の火が揺れている。
外では雪が降っていた。
静かな夜だった。
公爵はふと思った。
もし昔の自分なら、この時間を無駄だと判断しただろう。
利益もない。
効率もない。
合理性もない。
だが。
リリアーヌが笑っている。
それだけで胸が温かかった。
非効率。
極めて非合理。
しかし。
人生には、そういうものが必要なのかもしれない。
彼はそう結論づけた。
すると。
「公爵様」
「なんです?」
「今、また研究みたいな顔してた」
「いけませんか」
「ふふ。別に」
リリアーヌは笑い、彼の胸に耳を当てた。
どくん。
どくん。
心臓が鳴っている。
ちゃんと。
人間らしく。
そして公爵は、少し困った顔で彼女の髪を撫でた。
恋とは不思議なものだ。
心臓を捨てた男ですら。
最後には、そこへ戻ってくるのだから。




