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転生して最強魔王の力を手に入れたけど、スローライフに全振りでよくね?  作者: 平木明日香
第一章 世界征服ならぬスローライフへの第一歩
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第8話 自分の名前くらい、そろそろ知っておいたほうがいいと思う



 子どもたちに囲まれて、角の形や髪の手触りの違いをぼんやり感じながら頭を撫でていたとき、俺はふと、自分でも妙な違和感を抱いた。


 いや、違和感なんてものはこの世界へ来てから常に感じている。空が青いことには感動したし、魔王だと言われて山を消したし、妃が三十七人いると知って胃が痛くなったし、子どもに“父上”と呼ばれて予想外に胸が温かくなったし、魔族の教育が想像よりずっとサバイバル寄りだと知って心配性の人類感覚が全力で目を覚ました。魔王としての政務、黒曜大陸の複雑な社会構造、このへんだけでも人生の情報量としては十分に過剰摂取なのに、日替わりで常識の基準値が更新されていくような生活を送っている以上、もはや何が普通で何が異常なのかを判断する物差しそのものが役に立っていない状態だった。だから違和感の一つや二つ、いまさら珍しくもなんともない。


 そのうえでいま、胸のあたりへ引っかかってきたものは少し種類が違っていた。


 俺は俺自身のことを、まだ何も知らない。


 そう思ったのである。


 いや、雑に言えばわかっている。魔王だ。黒曜大陸を治める最強の生物らしい。配下からは陛下と呼ばれ、妃からはそれぞれの温度感で敬われ、子どもたちからは父上と呼ばれる。権力、武力、象徴性、その全部を兼ね備えたスーパー役職であることは十分に理解した。


 理解したんだけど、それはあくまで“社会的肩書き”の話なんだよな。


 問題はその男の“中身の来歴”が、俺のなかで完全に空白のままだということだ。


 ここ数日、鏡の前へは何度も立った。立つたびに自分の顔を確認した。前世の俺とは違う。髪の色も、目や肌の色も、輪郭も、何もかも違う。整いすぎていて逆に落ち着かない。いかにも“魔王です”とでも言いたげな威圧感が、何もしなくても薄く漂っている。たぶん笑顔のままでも、そこらの人類国家の役人なら三歩くらい後ずさるタイプの顔だ。


 それでも鏡は、外見しか教えてくれない。


 中身の説明書はついてこない。


 それに気づいたのは、子どもたちと別れて王城へ戻る途中のことだった。


 セラフィナが午後の予定について何やら説明してくれていたのだが、半分くらい聞き流しながら俺はふと思ったのである。


 そういえば、前任の名前ってなんて言うんだ。


 そこかよ、と思われるかもしれない。実際自分でも少し思った。いまさらそこか、と。でも本当にそう思ってしまったのだから仕方がない。周囲は全員俺を陛下とか父上とか閣下とか、そういう仰々しい尊称でしか呼ばない。立場的には正しいのだろう。正しいんだろうけれど、そのせいで俺はまだ一度も“自分の名前”を呼ばれたことがなかった。


 異世界転生して、魔王になって、子どもに父上と呼ばれ、妃に寝室へ来られ、政務に押し潰されそうになっているのに、自分の正式名称だけはまだ知らない。役所の書類にサインする時点で気づけという話ではある。あのときはあのときで、判子と署名の作法に気を取られていた。いや、サインしてる本人が自分のフルネームを把握していないってどういうことだよ。もう少し危機感を持て俺。


 ひとまず、自分のことを知ろう。


 いや、中身は俺なんだけど、“俺がいま入っているこの魔王の人生”について知ろう、という意味である。かなりややこしいが、実際そうなのだから仕方がない。


 王城へ戻る道すがら、子どもたちは最後まで元気だった。


「父上、明日も来る?」


「予定が空いてたらな」


「じゃあ空けて!」


「権力の使い方が早いな」


「父上の権力でどうにかならないの?」


「その発想はちょっと危ないから、一回置いておこうか」


 こんな調子で、俺はなんとか“父親らしさらしきもの”を手探りしながら応対していた。完璧からはほど遠い。むしろだいぶ不格好だと思う。それでも子どもたちは嬉しそうだった。そこに救われる反面、ますます思う。ちゃんと知らないとまずい。前任がどういう父親だったのかの最低限の輪郭くらいは掴んでおかないと、この子たちの前で俺はいつか致命的な違和感を晒す気がする。


 部屋へ戻る前に、俺はセラフィナへ声をかけた。


「時間、取れるか」


 セラフィナはすぐに立ち止まり、こちらへ向き直った。


「はい。何についてでございましょう」


「俺自身についてだ」


 そう言った瞬間、宰相の瞳がほんのわずかに揺れたのがわかった。


 たぶん彼女は、俺がいずれそこへ踏み込むだろうと予想していたのだろう。むしろ遅いくらいかもしれない。妃一覧や子女一覧や大陸構造へ振り回されている間に後回しになっていただけで、本来は最優先で確認すべき事項だったのだ。


「名前も、経歴も、どうして魔王になったのかも、俺はほとんど知らない」


 俺はできるだけ率直に言った。


「ここまで来ると、さすがにまずい。政務をするにしても、日常を送るにしても、根本的なところが空っぽだとどこかで破綻する」


「……おっしゃる通りです」


 セラフィナは静かに頷いた。


「では、陛下の個人史に関する記録をお持ちいたします」


「頼む。できれば、一番詳しいやつ」


「承知いたしました。ただし」


 そこで彼女は少しだけ言い淀んだ。


「陛下ご自身の記録には、断片と伝承が多く含まれます。明確に確認されている事実と、長い時を経て付加された神話的解釈が混在していることは、あらかじめご承知ください」


「なるほど。魔王ともなると、生涯がそのまま英雄譚か怪談になるわけか」


「はい。そして陛下――いえ、ルルデス様ご自身が、ご自分について多くを語られる方ではありませんでした」


 ルルデス。


 その名前が、俺の胸へ落ちた。


 ルルデス。


 ああ、そうか。そういう名前なのか。


 音の響きは初めて聞くはずなのに、不思議と違和感が薄い。いや、自分の名前として馴染みがあるという意味ではない。ただ、“魔王陛下”という巨大すぎる概念にべったり貼りついた仮面の下から、ようやく一人の個人名が出てきた感じがした。


「ルルデス、か」


 思わず口にすると、セラフィナはごく自然に答えた。


「正式には、ルルデス・オルディナーク」


 さらに重厚になった。


 オルディナーク。いかにも歴史書の一ページ目へ載っていそうな名前である。俺の名前と似てるようで似てない。どこか音の芯に共通するものはあるのに、積み重なっている歴史の厚みがまるで違うせいで、同じ名前として並べるにはあまりにも格が違いすぎる気がした。


 俺はそれ以上その名前については踏み込まず、「……詳しく教えてくれ」とだけ言った。


「陛下について、でございますか」


「うん。魔王としての歴史でも、ルルデス・オルディナーク個人のことでもいい。とにかく根本から知っておきたい。知らないと、根本的に全部が危うい気がする」


 そこまで言うと、セラフィナは少しだけ考えるように視線を落とした。


「承知いたしました」


 返事は静かだった。


「資料もございますが、陛下御自身の歩みについては、文書化されていない部分も少なくありません。口伝や、当時を知る者の証言へ依る箇所もございます」


「じゃあなおさら、今のうちに聞いておきたいな」


「かしこまりました。では、王家記録室と内史書庫を使いましょう」


 内史書庫。


 いかにも秘密が詰まっていそうな場所だなと思ったが、実際その通りだったらしい。


 案内されたのは王城の奥まった区画で、普段の書庫よりさらに厳重な結界が張られた一帯だった。扉は黒い金属でできていて、表面には古い文字が刻まれている。前世なら生体認証と権限コードが必要そうな雰囲気だ。こちらの世界では、扉の前へ立ったセラフィナが静かに何かを唱え、彼女の手から流れた魔力が紋様へ触れたことで鈍い音を立てて開いた。


 中は静かだった。


 いや、静かという表現ですら少し違う。音が吸い込まれていくような、記録そのものが積もった空間特有の重みがある。本棚だけでなく、封印箱、巻物棚、魔導記録板、肖像、古地図、戦旗の断片、印章箱らしきものまで並んでいて、ここへ積まれた時間の層だけで一冊の歴史書になりそうだ。


「……すごいな」


 俺が素直に言うと、セラフィナは頷いた。


「王家と黒曜大陸に関する主要記録の保管区にございます」


「ここなら、たしかに“自分が何者か”も多少はわかりそうだ」


「はい。ただし陛下の前半生については、なお断片的です」


「前半生って言い方をするあたり、やっぱり長いんだな」


 魔王ルルデス・オルディナークは、数百年前から記録へ現れる存在らしい。俺の前世感覚で数百年と聞くと文明ごと変わっていておかしくない長さだが、この世界、あるいは魔族社会ではそこまで突飛ではないらしい。種族によって寿命の差が大きく、長命種も少なくない。とはいえ数百年単位の人生って、やっぱり感覚が追いつかないが。


 記録室の中央にある大卓へ、セラフィナはいくつかの資料を運ばせた。


 古びた革表紙の年代記、魔導記録板、簡易年表、古地図、そして一枚の肖像。肖像には若い男が描かれている。端正な顔立ち。鎧姿。色は褪せているが、柔らかな目元が印象的だ。


「……これが?」


 俺が訊くと、セラフィナはその肖像へ目を向けた。


「古王国グロウゼリア末期に描かれたとされる、若き日のルルデス・オルディナーク様です」


 俺は黙ってそれを見つめた。


 いまの俺の顔立ちと似ている部分はある。骨格や目の形の系統は近い。けれど、印象はずいぶん違った。こちらの肖像の男はもっと穏やかだ。目元に鋭さより優しさがある。魔王の肖像というより、どこか誠実な騎士のそれに見える。


「……魔王っぽくないな」


 素直にそう言った。


 セラフィナは静かに答える。


「当時のルルデス様は、まだ“魔王”ではありませんでしたので」


 そこから先は、ひとつの長い物語だった。


 魔王ルルデス・オルディナークは、もともと黒曜大陸を治める絶対王などではなかった。


 彼は数百年前、人間たちの国に仕える騎士団の一人として記録へ現れる。出自ははっきりしない。古い台帳には、黒曜大陸西部の辺境出身、あるいは流民の子、あるいは小規模な魔族集落で生まれたという複数の説が残っている。共通しているのは、彼が当時“魔族”として人間国家の下位に位置づけられていたことだ。


 その時代、魔族は今よりずっと弱い立場に置かれていたらしい。


 もちろん地域差はある。差はあるが、大きな人間国家の支配下では、多くの魔族は労働力か兵力として消費される存在だった。市民権は限定的。法の保護は薄い。職業選択の自由も狭い。魔力量の高さや身体能力の強さを都合よく使われる一方で、政治的発言権はほとんど持てない。便利な下位種族。そう言い換えても大きくは外れない扱いだったという。


 俺はその説明を聞きながら、胸の奥が冷えるのを感じていた。


 下位種族。


 便利な労働力。


 兵力としての消費。


 そういう単語の並びが、前世で見聞きしたあらゆる差別と切り捨ての構造へつながっていくのを、俺は知っている。最初は効率とか秩序とか統治とか、聞こえのいい言葉で始まる。そこからだんだん、人が人として扱われなくなっていく。


「ルルデス様は、現在より数百年前、当時黒曜大陸北東部を支配していた魔導大国グロウゼリアに仕える騎士団の一員であられました」


「……魔王じゃなくて、騎士だったのか」


「はい」


 意外だった。


 いや、意外でもないのかもしれない。魔王だって最初から魔王で生まれるとは限らない。どこかに始まりがある。あるのだろうけれど、俺は無意識のうちに“最初から圧倒的な存在だったのだろう”と想像していたらしい。


「当時のルルデス様は、穏やかなお人柄であったと記録されています」


「穏やか」


「はい。無用な争いを好まず、下々の者とも区別なく言葉を交わし、負傷兵や下位種の保護にも熱心であったと」


 その説明を聞いて、俺は少しだけ安堵した。


 なんというか、前任の人格が完全に自分と真逆ではなかったことに安心したのかもしれない。もちろん妃が三十七人いる時点で行動力の方向性にはだいぶ差があるだろうし、子どもの数も全然穏やかじゃない。ただ、その根っこに“争いを好まない”“下の者へ目を向ける”みたいな要素があるのなら、俺がこの体のなかで感じている違和感や草原や子どもたちへ向ける感情も、完全に異物というわけではないのかもしれない。


 セラフィナは話を続けた。


「グロウゼリアは当時、黒曜大陸でも有数の魔導国家であり、人間が支配階級の中心を占めていました」


 記録板に地図が浮かぶ。いまの黒曜大陸北東部へ、かつて大きな王都と幾つもの要塞都市が存在していたらしい。


「表向きは多種族を包摂する文明国家を自称しておりましたが、実際には種族ごとの階層区分が厳格で、魔族の多くは“便利で、耐久性があり、代替可能な労働力”として見なされていたようです」


「ルルデスもそういう扱いを受けてたのか?」


「はい」


「それで騎士団へ入れたのか」


「極めて稀な例だったようです。卓越した身体能力と魔力適性、加えて指揮能力を見込まれ、例外的に登用されたと記録されています。ただし、その地位は安定したものではなく、常に“使えるから置いておく”という前提つきだったとも」


 つまり、優秀だから使われる。でも同じ“人”としては見られていない。


 そういうことか。


 セラフィナはそこで一冊目の本を閉じ、二冊目を開いた。こちらは文字ばかりで、読むだけでも重そうな雰囲気がある。


「転機となったのは、大陸間戦争前後の混乱です」


 その単語は、すでに黒曜大陸講義のなかでも聞いていた。七大陸すべてが入り乱れたわけではないが、大きく三つほどの勢力圏が対立し、各文明圏がそのなかで連携と裏切りを繰り返した大戦争。結果として幾つもの国家が滅び、勢力図が大きく塗り替わった。


「当時、世界は大きく三つの陣営に分かれていたとされます。一つは人間中心の聖王同盟圏。一つは魔導技術と交易を基盤とする諸国家連合。そしてもう一つが、亜人・辺境部族・旧王権残党などを含む流動的な中間勢力群です」


「七大陸全部が綺麗に三つへ分かれたわけじゃなくて、その中に大小いろいろな国がくっついたり離れたりしてた、みたいな感じか」


「概ねその理解でよろしいかと」


 戦争が単純じゃないのはどこも同じらしい。


「グロウゼリアは当初、魔導技術と兵站に秀でた大国として一角を占めておりました。ところが戦況が長引くにつれ、人的・物的資源の消耗が激化し、とくに魔族を中心とする下位層へ負担が集中していきます」


 負担が集中する。


 その言い方も、前世の感覚に引っかかった。


「徴発、強制移送、前線投入、危険実験への動員、居住区再編……そうしたものが進むなかで、魔族に対する差別と排斥は次第に制度化されていったようです」


 制度化。


 つまり個々人の偏見や感情だけではなく、国家の仕組みとして“いらないものを排除する”流れが固まっていったのだろう。


「淘汰、ですね」


 セラフィナは淡々と言った。


 その一語が重かった。


「働ける者は使う。使えぬ者は切り捨てる。魔族であるというだけで婚姻、居住、移動、所有、信仰の自由を制限され、やがて“国を汚染する不安定因子”として、組織的な隔離と処分が始まったと記録されています」


 俺はしばらく言葉を失った。


 種族としての淘汰。


 それは制度と偏見と恐怖が混ざり合った末の排除だったのだろう。今日はこの共同体が消えた。明日はあの集住区が消えた。公文書の上では再配置や浄化や整理といった言葉で処理されるが、実際には人がいなくなる。そういう現実が月日を追うごとに積み重なっていく。


「ルルデス様は、その渦中で、騎士団所属のまま魔族保護へ動かれたと伝えられています」


 記録板へ、新たな挿絵が浮かんだ。焼け落ちた街、逃げる人々、その先導に立つ一人の騎士。剣を持っているが、それは敵を斬るためというより逃げる者を守るような姿勢だった。


「正式な命令に背き、魔族居住区の一部住民を逃がしたという記録がございます。そこから先は、もはやグロウゼリアに留まることは不可能となりました」


「反逆者扱いか」


「はい。人間国家にとっては裏切り者、魔族にとっては最後の盾。そのような立場となったようです」


 最後の盾。


 その響きに、俺は前世の自分を少しだけ思い出した。最後の人類、なんて呼ばれ方は好きではなかったけれど、滅びへ向かう世界で“残ってしまった者”へ背負わされる役割の重さは、少しだけわかる気がした。


「……それで、国を出たのか」


「はい」


 三冊目の本が開かれる。そこには、いままでよりさらに断片的な記録が並んでいた。日誌の写し、歌、地図の余白に書かれた証言、民話のような文章。正史というより、失われた人々がそれぞれの場所で残した“語り”の集積みたいな本だった。


「グロウゼリア陥落後、ルルデス様は生き残った魔族たちを率い、黒曜大陸各地を転々としたとされます。明確な軍ではありません。亡命者の群れであり、難民であり、時に傭兵であり、時に開拓民でもあった」


 読んでいるだけで胸が詰まる感じがした。


 国を失い、居場所を失い、逃げながら生きる。前世とは形が違っても、痛みの質にはどこか似たものがある。


「最初の十数年は、文字通り生存のための旅だったようです。安全な土地を探し、追手を避け、食糧を確保し、弱い者を守りながら移動する日々」


「きついな……」


「ええ。多くが命を落としたとも」


 セラフィナの声音は静かだ。静かだからこそ、余計に重い。


「それでもルルデス様は、ただ逃げるだけでは終わられなかった。各地で散り散りになっていた魔族共同体を拾い上げ、交渉し、時に戦い、時に労働を請け負い、小さな集落を守り、少しずつ“定住できる場所”を増やしていかれたようです」


 戦って勝つだけではない。


 暮らしを作る。


 守る。


 繋げる。


 そのあたりの積み重ねが、今の黒曜大陸へつながっているのだろう。


「ここが、おそらくもっとも重要な点です」


 セラフィナが、古地図の一部を指した。


「ルルデス様が求めておられたのは、単なる王権ではなく、“魔族たちの楽園”であったと、多くの記録が示しています」


 楽園。


 その言葉を聞いた瞬間、俺は妙な既視感に襲われた。


 草原を見て感動した自分。空が青いだけで胸がいっぱいになった自分。静かに暮らしたい、平和な日常が欲しい、と思っている自分。その願いと“魔族たちの楽園”という言葉が、どこかで重なったのだ。


「……楽園、か」


「はい。魔族であることを理由に追われず、奪われず、誰かの下位種として扱われず、子らが怯えずに眠れる土地。その理想が、ルルデス様を旅へ駆り立てたと考えられています」


 子らが怯えずに眠れる土地。


 それはすごくいいなと思った。


 すごく、わかるなとも。


「旅の途中で、いま王家を支える多くの氏族や家系がルルデス様へ合流しています。妃殿下方の一部も、もとはその過程で結ばれた血盟や保護の関係に起源がございます」


「……ああ」


 ここでようやく、妃が多いことの意味が単なる女たらしでは説明しきれないと実感できた。


 もちろん全員が政治婚だけではないだろうし、個人的な関係や感情も多分にあったのだろう。けれどそれ以前に、“散り散りだった魔族共同体を繋ぐための血縁と同盟”として婚姻が機能していたなら、数が多いことそのものは、この世界ではそこまで異常ではないのかもしれない。


 いや、それでも多いけどな。そこは譲れない。


「やがてルルデス様は、黒曜大陸西方の旧要塞群を拠点として勢力を固め、各地の被差別集団や敗残兵、放浪氏族、研究者集団まで糾合し、一つの自治圏を作り上げていきます」


 地図の上に、いまの黒曜大陸西部あたりが淡く光る。火山と荒野と旧要塞地帯。決して楽園の始まりに見える場所ではない。だからこそ、他のどこにも居場所のない者たちがそこへ集まったのだろう。


「そこから数十年をかけ、徐々に北部高地圏、中央平野圏へ影響力を広げ、最終的には黒曜大陸全域の支配権を確立した」


「急に覇道っぽい話になるな」


「過程はかなり血生臭かったようですが、根底の理念は一貫していたとされます」


 セラフィナは少しだけ間を置いてから言った。


「“追われる者が、追われずに済む土地を作る”」


 俺は、黙った。


 何を言えばいいのかわからなかった。


 魔王ルルデス・オルディナーク。人間国家の騎士だった男。穏やかで、下の者へ優しかった男。種族淘汰のなかで魔族を守り、故国を捨て、難民とともに旅をして、少しずつ共同体を大きくし、最後には一大勢力を築き上げた男。


 それは確かに、伝説になるだろうと思う。


 同時に、どれだけ優しい理想から始まったとしても、そこへ至る過程で血と戦いが積み上がったことも想像できた。楽園を作るために、誰かの城を奪い、誰かの支配権を砕き、誰かを追い払わなければならない場面もあっただろう。理想と現実は、いつだって綺麗には重ならないから。


「……今のルルデスが、ああいう感じなのは」


 俺は言葉を探しながら言った。


「昔の穏やかな騎士から、旅と戦いのなかで変わっていったってことか」


 セラフィナは、すぐには答えなかった。


「変わった、という言い方もできましょう」


 やがて彼女は静かに言う。


「けれど私個人の見解を申し上げるなら、失われたのではなく、深く沈んでいったのだと思います」


「深く沈む」


「はい。優しさや穏やかさが消えたのではなく、それだけでは民を守れぬと知り、表へ出さなくなった。そう見えておりました」


 その言葉は、予想以上に胸へ残った。


 前任の人生をなぞるつもりはない。なぞれるとも思わない。けれどもしその根底に“平和に暮らせる場所を作りたい”という願いが本当にあったのなら、俺がいま抱いている感覚も、完全に見当違いではないのかもしれない。


「ちなみに」


 俺はふと思い出した疑問を口にした。


「ルルデスって、普段から自分の名前で呼ばれなかったのか」


 セラフィナは少しだけ首を傾ける。


「ごく近しい方々や、古くからの同胞はお呼びすることもございました。ただ、公の場ではほとんど“陛下”にございます」


「やっぱりそうか」


 だから俺は、この世界へ来てから名前へ触れる機会を失っていたのだ。


「ご不快でしたか」


「不快っていうか、単純に自分の名前を知らないまま過ごしてるのが変な感じでな」


 俺がそう言うと、セラフィナはほんの少しだけ目を伏せた。


「……では、改めて申し上げます」


 彼女は、まっすぐこちらを見た。


「あなた様は、ルルデス・オルディナーク。黒曜大陸の主にして、万魔の守護者。追われる者たちが最後に辿り着くべき安寧の地を夢見て、その礎を築かれたお方です」


 壮大すぎる。


 いや、話の流れとしては正しいのだろう。正しいのだろうけれど、中身が庶民寄りの俺としては荷が重い。荷が重いのに、変に逃げる気にもなれなかった。


 俺はしばらく黙って、それから小さく息をついた。


「……名前だけでも、覚えた気がする」


「はい」


「ルルデス、か」


「はい」


「陛下とかそんなのじゃなくて、呼び捨てのままじゃ駄目か?」


 軽口のつもりで言ったのだが、セラフィナは意外にも真面目な顔で考え込んだ。


「陛下としてのご指示であれば、可能かと」


「いや、そこまで制度化しなくていい」


 自分で言っておいてなんだが、さすがに面倒そうだ。わざわざ正式通達なんて出された日には、廊下ですれ違うたびに全員が微妙に緊張した顔で「ル、ルルデス様……いえ、ルルデス……?」みたいな不慣れすぎる発声練習を始めかねないし、そんな地獄みたいな光景はさすがに見たくない。


 閲覧室を出るころには、頭のなかがかなり重くなっていた。


 情報量のせいもある。歴史の重さのせいもある。けれどそれだけではない。前任をただの“面倒な既得権益の塊”みたいに思っていた部分が、少しだけ恥ずかしくなったのだ。妃が多いし子どもも多いし食文化は攻撃的だし、正直つっこみどころも山ほどある。それでも、ルルデス・オルディナークという男が最初からただの暴君だったわけではないということ。むしろ出発点は穏やかで、ちゃんと仲間たちを守る側の人間だったということ。


 その人生の果てが、いまの魔王なのだ。


 城の廊下を歩きながら、俺は窓の外を見た。


 遠くに見える街並み。そのさらに先の森と山。子どもたちが訓練していた外縁の土地。旅を続ける難民の群れ。追われる者たちの楽園。いろいろな断片が頭のなかで重なる。


 平和に暮らしたい、という俺の願いは小さいようでいて、案外、魔王ルルデスの始まりとも繋がっているのかもしれない。


 もちろん、だからといって世界征服思想へ共感する気はまったくない。そこは断固として違う。俺が欲しいのは畑と温かい飯と静かな夜だ。世界は広すぎるし、楽園を作るにしても、もう少し平和的なやり方があるならそっちを選びたい。


 でも、少なくともわかったことがある。


 この城で、この大陸で、俺が相手にしているのはただの肩書きではない。数百年分の歴史と、守られたかった人々の願いと、戦いながら積み上げられた共同体だ。


 それを何も知らずに“面倒だな”だけで済ませるのは、ちょっと違う。


 いや、面倒なのは事実なんだけど。


 事実なんだけど、その面倒くささの奥に、ちゃんと理由があるのだと知った。


 部屋へ戻る手前で、ふと壁の鏡へ自分の姿が映った。


 白い髪。紅い目。整いすぎた顔。魔王ボディ。そこにいるのは、たしかにルルデス・オルディナークという名で呼ばれてきた男の肉体だ。


「……ルルデス、ねえ」


 鏡の中の自分へ向かって呟く。


 まだ馴染まない。まだ借り物みたいだ。けれど今朝までよりは、少しだけ他人じゃなくなった気がする。


 そこへ、タイミングよく扉の向こうからフェルルの声が聞こえた。


「陛下ー! 本日のおやつの候補を持ってきましたのー!」


 さらに別方向から、子どもたちの声。


「父上ー! きょうの獲物、丸焼きにしたらめちゃくちゃ美味しかった!」


 俺は思わず額へ手を当てた。


 感傷に浸る暇を、この城はほんとうにくれないらしい。


 それでも、少しだけ笑ってしまった。


 ルルデス・オルディナーク。追われる者たちの楽園を夢見た男。いまその肉体のなかにいる俺は、相変わらず畑と普通の飯と睡眠を求めているだけの元終末人類だ。


 けれどもしかするとその願いは、思っていたよりずっとこの城と、この大陸の根っこに近いところへ繋がっているのかもしれない。


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