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転生して最強魔王の力を手に入れたけど、スローライフに全振りでよくね?  作者: 平木明日香
第一章 世界征服ならぬスローライフへの第一歩
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第5話 妃一覧表と、いま俺が最も知りたくなかった現実について



 屋上庭園を出たあと、俺たちはしばらく無言で回廊を歩いた。


 正妃は俺の半歩後ろを静かについてきて、必要以上に話しかけてはこなかった。その距離感がありがたいのか、逆に落ち着かないのか、自分でもよくわからない。少なくとも、さっきの晩餐会みたいに左右前後から同時に会話を投げられる状況と比べれば、心拍数はだいぶまともだった。


 夜の城は静かで、魔導灯の淡い光が床へ細長く落ちている。遠くで警備の兵が交代している気配はあったし、どこか下の階では宴の名残らしい楽器の音も微かに聞こえたけれど、ここはもう別世界みたいだった。足音が響くたび、巨大な城のなかを小さな人間が歩いている感覚になる。いや、肉体的にはたぶん人間ではなく魔王なのだろうけれど、中身の庶民感覚がまだぜんぜんそのへんへ追いついていない。


 寝室の前へ着いたところで、正妃が立ち止まった。


「今宵は、少しはお休みになれそうですか」


 その問いはさりげなくて、けれど妙にまっすぐだった。


「……そうだな。少なくとも晩餐会のど真ん中で微笑み続けるよりは、だいぶ」


 俺がそう返すと、正妃はほんの少しだけ目元を和らげた。ほんの少しだ。本当に。たぶん、この人の表情筋は国宝級の精密機構で動いている。


「それは何よりですわ」


 それだけ言って、彼女は一礼する。


 さらりとした動きだった。こちらを困らせるようなことは何もせず、余韻だけを残して去っていく。いや、待て。そういえばこの人、結局まだ名前を聞いてないな。


 ここで俺は、かなり重要な事実へようやく気づいた。


 正妃。


 正妃って便利な呼び方だ。便利すぎる。ここまでずっと“正妃”という肩書きだけで会話が成立してしまっていたせいで、その人固有の名前を確認する機会を完全に逃している。いや、機会自体はあったのかもしれない。ただ、イベントの密度が高すぎて俺の脳がそこまで処理できていなかった。


 問題は、さすがに今さら「ところでお名前は?」とは聞けないことである。


 相手は正妃だ。城の空気を一瞬で塗り替え、妃たちの大群をひと目で制し、晩餐会の質まで決める女王感の塊みたいな人だ。その相手へ、記憶喪失を盾にしたとしても「名前忘れました」は危険な気がする。殺される、とまでは言わない。たぶん言わないけれど、俺の社会的寿命か何かがすごく削れる予感がある。最悪、内廷における信頼残高みたいなものが開始直後から赤字になる。


 正妃は何も知らないまま、静かに去っていった。


 寝室の扉が閉まり、俺はそこで深々と息を吐いた。


「……やばいな」


 部屋のなかに誰もいないことを確認してから、俺はようやく声に出した。やばい。かなりやばい。自分の妃の名前を知らない。しかも一人ではない。三十七人いる。三十七人いるらしい。もはや学園のクラス名簿でも厳しい人数だ。そこへ種族、派閥、過去の関係、子どもの有無、本人同士の力関係まで乗ってくるわけで、いまの俺が素で挑んで勝てる相手ではない。


 すぐにベルを鳴らし、侍従を呼び、セラフィナへ来てもらうよう伝えた。


 深夜にもかかわらず、宰相はものの数分で現れた。仕事のできる人間は移動まで速い。いや、もしかするとこの城で寝ている人がそもそも少ないのかもしれないけれど。


「お呼びでしょうか、陛下」


 相変わらず隙のない美貌と落ち着いた声音だった。晩餐会を経ても疲れた様子がほとんどない。鉄か。心が鉄なのか。いや、そうでもないのは今までの言動でなんとなくわかるものの、少なくとも業務用メンタルの耐久値は俺の十倍くらいありそうだ。


「頼みがある」


「なんなりと」


「妃たちの名前と顔と特徴がわかる一覧表を、できるだけ急ぎで作ってほしい」


 セラフィナの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


 あ、いまちょっとだけ察したな。


 さすがに宰相である。俺がなぜそんなものを欲しがるのか、説明されなくてもわかるらしい。記憶喪失扱いの現状からして、当然と言えば当然だ。


「……承知いたしました」


 返答は冷静だった。冷静だったのだが、その一拍の間に“それは必要ですね”と“今さらでございますか”の両方が含まれていた気がする。気のせいであってほしい。


「ただ、妃殿下方の人数が人数ですので、完全版の編纂には少々時間を要します」


「うん、そこはわかる。だから全部を完璧に、じゃなくていい。せめて関係が深そうな妃だけでも先に」


 言ってから思った。関係が深そうな妃って何だ。関係が浅い妃ってそもそも何なんだ。妃という時点でだいぶ深そうなんだよな。前任の人生、濃度がおかしい。


 セラフィナはその曖昧な要望をきちんと受け止め、少しだけ考えるように視線を落とした。


「かしこまりました。陛下との接触頻度、政治的重要性、内廷序列、血統継承との関わり、現在の発言力を基準として、優先度の高い方々からまとめます」


「うん、最後の二つが特に怖いな」


「子女との関係性も付記いたしますか」


「……そこもいる」


 いる、と答えた瞬間、心が少しだけ死んだ気がした。


 セラフィナは一礼して退室し、それから本当に急ピッチで資料を作らせたらしい。俺が湯を飲んで一息つき、窓際で夜風を吸っていたら、ほどなくして数人の侍女が分厚い紙束を抱えて戻ってきた。仕事が早すぎる。魔王軍の事務処理能力はどうなっているんだ。世界征服を目指す前にまず行政の効率だけで勝っているのではないか。


 紙束を受け取って、俺は机の前へ座った。


 そこに並んでいたのは、“妃一覧・暫定簡易版”とでも呼ぶべき書類だった。名前、種族、外見的特徴、居所、現在の立場、俺との間にあるとされる関係の概要、注意事項。簡易版のはずなのに、すでに本として売れそうな厚みがある。


「……レストランのメニュー表みたいだな」


 思わずそうこぼした。


 いや、メニュー表というより、コース料理が無限に続く店の別冊リストに近い。正妃から始まり、側妃、寵姫、外宮所属、同盟婚、儀礼契約、血盟扱い、保護対象からの昇格者、その他。その他って何だ。妃カテゴリにおけるその他、怖すぎるだろ。


 しかも、ところどころ注釈が付いている。


 “甘味を好む”“気が短い”“正妃と表向きは友好”“酒席での挑発に注意”“陛下から贈られた短剣を常時佩用”“お子様三名”“歌に関する話題を振ると機嫌が良い”“旧敵対勢力出身”“夜会では左列前方を好む”。なんだこの細かさ。情報の質が完全に接客マニュアルと諜報報告書の中間地点にある。


 裏メニュー的な内容まで添えられているのは何なんだ。


 いやありがたい。ありがたいんだけど、ありがたさの向こうに“これを把握しないと死ぬぞ”みたいな圧を感じる。命までは取られないと信じたいが、内廷での失言一つが城内政治へ波及しそうな雰囲気はすでに十分ある。


 俺はとりあえず、一番上から読み始めた。


「正妃……リリエス・ノクス・エルディア」


 あ、リリエスっていうのか。


 ようやく判明した名前に、変な安堵が広がった。正妃リリエス。うん、似合う。名前だけで夜と女王を同時に感じさせる。たぶん本人の前で口にしたら、それはそれで変な緊張をするんだろうけれど、知らないままでいるより百倍ましだ。


 そこへ付いている説明を読む。


 “夜魔貴種。現内廷最高位。王城西翼・紫晶宮常住。外見特徴、長身、黒紫から白銀へ移ろう長髪、赤紫の瞳、夜装を好む。冷静沈着、内廷掌握力極めて高い。陛下との間に第一子、第三子、第五子、ほか養育保護対象多数”


「ちょっと待って」


 読みながら頭が追いつかない。“ほか養育保護対象多数”の一文で急に人間関係のスケールが歪んだ。しかも第一子、第三子、第五子って、番号の振り方がすでに業務っぽい。いやまあ、大家族で順番管理が必要なのはわかるんだけど、実際に一覧として見ると破壊力がある。


 俺は次をめくる。


「側妃……ミレイナ・アスフォデル。夢魔上位種。外見特徴、蒼銀髪、白肌、青金の瞳、香を好む……子女二名」


 次。


「側妃……グレナダ・バルドロア。鬼人王族傍流。長身、黒髪、紅眼、武を重んず……子女四名」


 次。


「寵姫……フェルル・ミルクレア。猫妖精種。小柄、蜂蜜色の巻き毛、琥珀の瞳、甘味ならびに抱擁を好む……子女一名」


「抱擁を好む、は情報として必要なのか……?」


 いや、必要なんだろうな。前任にとっては。俺にとっては心の準備が必要になるだけなのだが。


 さらに次。


「契約妃……シュラ・メルカディア。海妖姫。青緑の長髪、耳鰭状装飾、潮の香りあり……政治的同盟色強し、子女なし」


 ようやく子どもの記載がない人も出たと思ったら、今度は“政治的同盟色強し”が来る。妃ってなんだ。結婚ってなんだ。人間の人生観へ問いかけてくる一覧表だなこれ。


 セラフィナは俺が読みやすいよう、どうやら優先度順に並べてくれたらしい。つまりここへ書かれている面々は、関係が深いか影響が大きいか、その両方かだ。関係の浅い妃ってそもそもなんだよという話ではあるが、資料を見る限り、魔族の婚姻観や血盟の感覚は俺の想像を軽々と飛び越えている。


 人間の文化的な常識で言えば、正妃がいて、側妃がいて、それだけでも十分複雑だ。そのうえ血盟や保護や契約が重なり、種族ごとに婚姻の意味が違い、寿命の感覚も繁殖観も家族観もずれているなら、俺の前世知識だけで理解できるはずがない。


 何枚かめくったところで、俺はとうとう衝撃の中心へ行き当たった。


 資料の別紙に“王家血統一覧・簡略版”と書かれている。


 いやな予感しかしない。


 ページを開いた俺は、そのまましばらく固まった。


「……数十人、いるのかよ」


 思わず声が抜けた。


 子どもが。


 俺の、いや正確には前任の魔王の子どもが、数十人いるらしい。数十人。三人とか五人とかの話ではない。紙面の上にずらずらと並んだ名前を見ていると、名門校の入学名簿かなにかに見えてくる。第一子、第二子、第三子、第四子。途中からもう数字が記号化してくる。俺の頭のほうが現実逃避を始めたのかもしれない。


 一番大きい子は、すでに十歳を迎えているらしい。


 十歳。


 十年だぞ。


 十年って、前世の終末世界なら一区切りどころか、環境次第でひとつの時代が終わってもおかしくない長さだ。そのあいだ前任は何をしていたんだ。戦争して、支配して、妃と関係を持って、子どもを作って、城を運営して、世界征服も考えていたのか。マルチタスク能力が異常すぎる。


「……前任の俺、心は悲しくないんか?」


 誰にともなく呟いた。


 いや、心は悲しくない、という表現も妙だな。悲しいとか悲しくないとか以前に、この人数と関係性をどう処理していたのかがわからない。人間の感覚で考えると、もっとこう、一人ひとりへ向き合うとか、家庭の空気とか、情緒とか、そのへんが大事故を起こしそうなのに、魔族社会では別の仕組みがあるのかもしれない。そうでなければこんな構造、早々に爆発するだろ。


 いや、爆発してないとも限らないな。外からまだ見えていないだけで、内廷は常に小規模な火種を抱えている可能性が高い。セラフィナが“派閥力学”とか“影響圏”とか自然に言っていた時点で、すでにただの大家族ではない。


 俺は資料を読み進めながら、だんだん笑えてきた。


 笑うしかないとも言う。


 人類としての教養しか持たない男が、魔族王家の婚姻・血統・内廷構造を理解しろと言われても、いきなり対応できるわけがない。これが普通です、と言われても全然わからない。わからないどころか、理解しようとする途中で価値観の地面が抜ける。


 そもそも理解しなくてもいいのか。


 その疑問も浮かぶ。いや、よくはないんだろうな。俺がこの立場にいる以上、逃げ切れない。逃げ切れないのはわかる。それでも、理解にかかる時間くらいはくれてもよくないか。世界も内廷も全部、俺へ即応を求めすぎなんだよ。


 気づけば、紙の束は机いっぱいに広がっていた。


 俺は椅子から立ち上がり、窓際へ歩いた。頭が熱い。夜風を浴びないと情報で溺れそうだ。外はまだ暗く、王都の明かりが遠くに連なっている。あの光のひとつひとつにも、誰かの暮らしがあるのだろう。そう思うと落ち着く一方で、資料へ書かれていた“王家子弟”の文字が頭をよぎってまた落ち着かなくなる。


「理解しなくてもいい、は無理か……」


 独り言が漏れる。


 理解できないからといって放置していい類の問題ではない。妃の名前を覚え、子どもの存在を把握し、少なくとも大事故だけは避けなければならない。なんだこの人生。異世界スローライフを志望していたはずなのに、実態は家庭と政治と大陸情勢の三重苦ではないか。


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「陛下」


 この声は、もうだいぶ聞き慣れてきた。リリエスだ。


 俺は反射的に姿勢を正した。名前を知ったからといって平常心でいられるわけではない。むしろリリエスという固有名が入ったことで、正妃の存在感がさらに具体化してしまった感すらある。


「入ってくれ」


 扉が開く。


 部屋へ入ってきたリリエスは、晩餐会のときとは衣装が変わっていた。さっきまでの、夜と星と権威をそのまま縫い上げたみたいな壮麗な礼装ではない。もっと軽く、もっと近い。黒を基調としつつ、布の重なりが柔らかく、肌の見え方もわずかに増えている。長い髪はほどかれ、肩から背へ流れていて、そのせいで女王というより、一人の女としての気配が強くなっていた。


 いや、待て。ちょっと待て。


 その変化を視認した瞬間、俺のなかの危機管理センサーが妙な方向へ作動した。


 リリエスは静かに歩み寄ってきて、机の上へ広がった資料へ視線を落とした。そこに並ぶ妃一覧、子女一覧、関係図。非常に見られたくなかったものを見られている気がする。いや、資料自体は彼女も当然知っている内容なのだろうけれど、俺がそれを必死に確認している構図がだいぶ情けない。


「熱心ですのね」


「……生きるために必要だと思って」


「大げさではなくて?」


「わりと真面目に」


 俺がそう返すと、リリエスはまた、あのわずかな笑みを浮かべた。見下すでもなく、嘲るでもなく、ただ面白がっているような、観察しているような笑みだ。


 彼女はそのまま俺のそばまで来て、すっと手を差し出した。


 白い指先。滑らかな動き。呼吸まで整っている。


 そして、俺の手を取った。


 びくっとなったのは、たぶん仕方ないと思う。


 だって、相手は正妃である。魔王の正妃である。内廷の頂点で、女王感が服を着て歩いているような人だ。そんな相手が、深夜に、衣装を変えて、寝室へ来て、わざわざこっちの手を引いてくる。これはもう、文脈としてかなり強い。強すぎる。


「リ、リリエス?」


 名前を呼べたことに、まず自分で驚いた。偉いぞ俺。いまそこを間違えなかっただけでも今日は合格点ではないか。


 リリエスは目を細める。


「はい、陛下」


 その返事の声色が、やけに柔らかい。


 そして彼女は、恍惚とすら呼べそうな静かな熱を瞳へ宿しながら、こちらを見上げた。視線が強い。逃げ場がない。しかも美人すぎる。心の準備ができていない人間へそれを向けるのはだいぶ危険だと思う。


 俺の手を引いたまま、リリエスはゆっくり言う。


「私の方は、いつでも準備万端ですわ」


 ……。


 …………いや、え?


 脳が理解を拒否した。


 準備万端。何の。いや、文脈。文脈だよ。いまの状況で“準備万端”が意味するところなんて、だいたい一つしかないだろう。深夜。寝室。軽装の正妃。手を取られている。恍惚とした視線。準備万端。


 これってもしかして。


 いや、もしかしなくても。


「――って、これ、もしかして“誘われてる”ってやつか!?」


 内心で全力の絶叫が上がった。


 声に出していない。出していないはずだ。たぶん。少なくとも口は動いていなかったと思う。でも心は完全に叫んでいた。さっきまで妃一覧表で“抱擁を好む”だの“夜会では左列前方を好む”だのを読まされていた人間へ、この展開は処理能力の上限を超える。


 童貞だぞ、こっちは。


 さっきまでその事実を真面目に悩んでいたばかりだぞ。


 妃が三十七人いる現実すらまだ消化していないのに、そのトップがいままさに最短距離で距離を詰めてきている。前任ならここで優雅に受け止めたのかもしれない。残念ながら俺は前任ではない。心拍数がうるさいし、思考が散るし、冷静な顔を保つだけで精一杯だ。


 それなのに、リリエスは俺の動揺を面白がるでもなく、ただ静かにこちらを見ている。


 そのせいで余計に逃げ場がない。


「……陛下?」


 名前を呼ばれる。


 至近距離で。


 正妃リリエスに。


 これはたぶん、人生で一度も訓練されない状況だ。


 俺は喉を鳴らし、どうにか言葉を探した。探したのだが、こういうとき、人間の語彙って本当に頼りにならない。


「その、準備って、何の」


 我ながら情けない確認である。けれど確認しないわけにもいかない。万が一、万が一だが、俺の勘違いという可能性もゼロではない。たとえば休息の準備とか、書類整理の準備とか、今後の相談に乗る覚悟とか、そういう高潔な意味かもしれない。いや高潔って何だ。深夜に寝室で手を握りながらする会話ではない気がする。


 リリエスは、ほんの少しだけ首を傾けた。


「お忘れですの?」


 その台詞が危険信号を鳴らす。


 忘れている。間違いなく忘れている。というか中身が違うので知らない。だがそれを言えるわけがない。言ったら事態がどこへ転ぶかわからないし、転んだ先がもっと危険な可能性もある。


 リリエスの指が、俺の手の甲をなぞるように動いた。


「ご安心くださいませ。私は、陛下のお望みであれば、いつでも」


 そこで彼女は言葉を切った。


 切ったくせに、意味だけは濃く残る。絶対わざとだろこれ。わざとじゃなかったとしても強すぎる。会話の余白で相手を追い込む技術が高い。


 俺の脳内では、妃一覧表、子女一覧、屋上庭園での会話、晩餐会、前任のやりたい放題っぷり、童貞という重大な個人事情、そのすべてが高速で衝突して火花を散らしていた。


 どうする。


 どうする俺。


 ここで変な返しをすると何かが始まる気がする。始まったら困る。いや、困るだけではないのかもしれないが、少なくともいまの精神状態で突入していいイベントでは絶対にない。


 俺は内心で半泣きになりながら、かろうじて一つの結論へすがった。


 逃げるな。逃げるな、でも踏み込むな。曖昧に受け流せ。いつものやつだ。たぶんこの城ではそれが一番被害が少ない。


「……今日は、いろいろありすぎてな」


 絞り出した声は、自分でも驚くくらい掠れていた。


「頭の整理が追いついてない」


 半分本音だ。いや、九割くらい本音かもしれない。世界情勢も家族構成も食文化も正妃の距離感も、何一つ整理しきれていない。


 リリエスは俺を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 長い沈黙ではなかったと思う。けれど、俺の心拍数が全力で仕事をしているせいで、体感時間が伸びる。やがて彼女は、ふっとまつげを伏せ、手の力を少しだけ緩めた。


「……そうですわね」


 助かったのか、まだ助かっていないのか、判断がつかない声音だった。


 それでも少なくとも、今夜この場で何かが不可逆に進行する気配は少し薄れた。俺は内心で全力の感謝を天井か星空か何かへ捧げた。ありがとう。誰でもいい。少しだけ猶予ができた。


 ただし、その猶予の先にもっと厄介な何かが待っている可能性については、いま考えないことにした。


 考えたら、その場で倒れる自信があったからだ。


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