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転生して最強魔王の力を手に入れたけど、スローライフに全振りでよくね?  作者: 平木明日香
第一章 世界征服ならぬスローライフへの第一歩
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第3話 正妃と晩餐会と、食事に対する価値観の断絶について



 会議室の空気が、さっきまでとは別の意味で重くなった。


 人類連合だの神殿国家だの大陸規模の対立だの、そういう世界の重さはいったん横へ置いておいても、妃殿下方が全員こちらへ向かっております、という報告には、それ単体で一つの災害予報に等しい威力がある。俺の立場からすると、知らない女性が複数まとめて押し寄せてくるというだけでも十分に身構える事態なのに、それが全員、前任の魔王と何らかの濃厚な関係性を持っていたらしい面々である。状況説明として意味がわからないし、意味がわかったところで困るというか。


「全員って、どこからどこまでを指すんだ」


 俺は努めて落ち着いた声を出した。声だけなら、たぶんかろうじて落ち着いていたと思う。内心はかなり騒がしい。もう少し正確に言うなら、目の前にない修羅場の気配だけで胃が先回りして痛んでいる。


 報告に来た侍女は、視線を泳がせることもなく答えた。


「正妃殿下を筆頭に、王城滞在中の方々と、先ほど到着された外宮所属の妃殿下方、ならびに側仕えの侍女団、護衛隊、付属楽団、献上班、随伴魔獣管理班にございます」


「最後のほう、どんどんおかしな単語が増えたな」


 随伴魔獣管理班って何だ。妃が移動するだけで管理班が必要な規模の魔獣がついてくるのか。移動式の宮廷か。いや、色々聞いてる限りこの世界の権威構造はだいぶ盛られていると理解したつもりだったが、俺の理解はまだ入口付近で立ち尽くしていたらしい。


 ヴァルトが妙に納得した顔でうなずく。


「当然の構成かと」


「当然が迷子だって何回言わせるんだ」


 グレイシアはなぜか嬉しそうだった。あの人戦でも騒動でも、とりあえず大きいイベント全般が好きなんじゃないか…?


「陛下のお目覚めであるぞ! 妃殿下方が黙っていられるはずもない! むしろよくこの時間まで抑えられていたものだ!」


「抑えてたんだ」


 セラフィナは一瞬だけ瞼を伏せた。その表情に、ささやかな疲労と諦めが見えた気がする。もしかするとこの人、妃たちを会議中まで足止めするために裏で相当な調整をしていたのかもしれない。もしそうなら、いま初めてこの人へ本気の同情が湧いてきた。魔王軍の宰相という肩書きは、世界征服より家庭内調整のほうが大変なのではないか。


「……陛下」


 セラフィナが俺へ視線を向ける。


「本来であれば、まずご休息をお取りいただいたのち、内廷との正式な対面儀礼を経るべき流れでした」


「うん、その“本来”がすごく優しそうに聞こえる」


「現実には、正妃殿下がご自らこちらへいらっしゃるとのことですので」


「本来って便利な言葉だなあ……」


 世界には守られるべき手順というものがある。たぶん、この場におけるそれもそうだったのだろう。ところが、正妃自らが動いた時点で、手順は一斉に端へ寄る。そんな力関係がにじむ言い方だった。


 会議室の外から、遠いざわめきが聞こえてきた。


 最初は、廊下を行き来する人数が増えた程度に思えた。耳を澄ませると、衣擦れの気配、靴音、甲高い笑い声、誰かが何かを指示する声、金属が触れ合う微かな音色、楽器らしき調べまで混ざっている。いや、待て。楽器って何だ。どうして妃の来訪に伴って生演奏が近づいてくるんだ。結婚式か。それとも王都名物の移動式祝祭パレードか。


 その疑問へ答えるように、会議室の大扉が外側からゆっくりと開かれた。


 俺は、そこでしばらく無言になった。


 理解が追いつかなかったからである。


 まず、色が多い。黒曜大陸の魔王城は基本的に黒、深紅、銀、せいぜい紫あたりが基調で、全体の印象としては「圧が強い巨大建築物」だった。そこへ今、信じられないほど多彩な色彩が雪崩れ込んできた。漆黒に金糸を散らしたドレス、深い青に星屑のような光を浮かべた外套、翡翠色の薄衣、真珠を編み込んだ髪飾り、血のように鮮やかな赤い絹、月光を溶かしたみたいな白、夜の海の底みたいな紺。布地も種々雑多で、艶やかなもの、薄く透けるもの、重厚な刺繍をびっしり縫い込んだもの、宝石と金属板でほとんど鎧と見分けがつかないものまである。


 その色の洪水のなかを、美しい女たちが次々と歩いてくる。


 長身の美女、小柄で愛らしい少女、妖艶な空気を纏う女、冷ややかな美貌の女、無邪気そうに笑っているのに眼だけが肉食獣のものをしている女、耳が長い者、角が生えている者、尻尾の先が揺れている者、翼を折りたたんだ者、腰から下が薄く霞んでいて本当に歩いているのか浮いているのかわからない者、首筋へ鱗めいた輝きを持つ者、肌そのものが淡く光っている者。女性のバリエーションが豊富すぎて、一つの生態系を見ている気分になる。


 しかも全員、絶妙に方向性が違う美しさをしていた。


 このあたりで、俺はようやく一つの結論へたどり着いた。


 前任、お前、相当ろくでもない奴だったんじゃないか。


 いや、人として魅力があって、その結果として多くの女性と縁を持った可能性がゼロとは言わない。言わないけれど、この光景を見る限り、偶然や成り行きだけでこうはならない。これだけ種族も気配も立場も異なる女性たちが一堂に会して、その全員が魔王と何らかの深い関係にありました、という事実は、もう一人の人格の善性とか誠実さとか以前に、行動範囲と手の早さを疑うべき案件である。


「……多いな」


 我ながら呆然とした感想だった。けれど、もっと気の利いたことを言える状況でもない。


 先頭近くにいた、薄い青銀の髪を長く垂らした女性が、扇を口元へ添えてくすりと笑った。


「まあ、お目覚め早々、そのように見つめられては困ってしまいますわ、陛下」


 困っているのはこっちである。というか、誰だ。いや、誰だといったところで、おそらくこの全員について俺は誰だ状態なのだが、いちいち尋ねていったら日が暮れるどころか季節が変わりそうだ。


 その後ろでは、猫のような耳を持つ少女がこちらへぶんぶん手を振っていたし、長い黒髪の鬼人めいた美女は無言で腕を組み、値踏みするようにこちらを見ている。白い角を持つ儚げな女は泣きそうな顔をしていたし、深緑の肌に金の瞳を持つ異形寄りの美女は、妙に堂々とした態度で従者に荷物を運ばせていた。何人かは互いへ露骨に牽制の視線を送り合っている。会議室の空気がさっきまで国際情勢で重かったとするなら、いまは内廷の湿度で重い。


 しかも、付き従っている面々まで濃い。


 侍女団は全員が一流の礼儀と戦闘能力を兼ね備えていそうだし、護衛たちは護衛と言うには物騒すぎる武装をしている。楽団までいる。楽団の奏でる音色が妙に荘厳で、歩くだけの妃たちを一種の神事みたいに演出しているのが腹立たしいほど似合っていた。さっきの侍女が告げた“大所帯”という表現は控えめすぎる。これはもう、ひとつの移動する権力圏である。


 その中心を、空気が自然に割れた。


 誰も明確に「道を開けろ」と言ったわけではない。なのに、女たちも侍女たちも護衛も、まるで初めからそう決まっていたみたいに左右へ流れ、その中央に一本の道ができる。


 そこを、一人の女が歩いてきた。


 正妃。


 たぶん、と頭のなかで推測するまでもなく、この場にいる誰もがそう理解する存在感だった。


 長い髪は根元から深い闇色で、先へいくにつれて月光を溶かしたような白紫へと変わっている。照明を受けるたびに淡く色を変えるその髪が、歩みに合わせて静かに揺れた。瞳は妖しい赤紫を宿し、温度の低い美貌のなかに、見ているだけでこちらの姿勢を正したくなる圧がある。頬の線も顎の形も、冷たく整った美しさの極致みたいな造作で、そこへほんの少しだけ艶やかな色気が乗っているものだから、近寄りがたいのに目が離せない。


 衣装は黒を基調としていた。


 光沢を抑えた深い黒のドレスが身体へ吸い付くように沿い、その上から星屑を散らしたみたいな刺繍入りの長い外套が流れている。肩口には闇色の羽毛めいた飾りが付き、裾には紫と青の光が揺れて、まるで夜空そのものをまとっているようだった。胸元から首筋にかけては過剰にならない程度の宝飾があしらわれていて、豪奢なのに品を損ねていない。脚線の一部が大胆に覗く意匠なのに、下品さへ転ばず、むしろ“見せているのはこちらであって、お前が見ていいかは別問題だ”と言わんばかりの女王感がある。


 悪役令嬢っぽい、という言葉で片づけるには本物すぎた。


 こっちが転生者でなければ、「あ、たぶんこの人が宮廷を半分握ってる」と一目で察するレベルの完成度である。いや、たぶん半分どころではない。俺が寝ている間、この城の何割かは普通にこの人の意志で動いていたのではないか。


 正妃は会議卓の手前で立ち止まり、優雅に一礼した。


「陛下」


 声まで美しかった。落ち着いていて、よく通って、耳に残る。声だけで部屋の主導権を半分奪える人間がいるのかと感心してしまう。


「お目覚めを、長らくお待ち申し上げておりました」


 俺は一拍遅れてうなずいた。うまく返事をする自信がなかったからだ。ここで気の利いた言葉を返せる男なら、たぶん妃が三十七人いても統率できる。俺には無理だ。


「……ああ、その、待たせた」


 何を言ってるんだ俺は、と自分で思った。俺のせいで寝ていたわけでもないし、相手を待たせていた記憶もない。ただ、状況が状況なので、そういう曖昧な返ししか出てこなかったのである。


 正妃はほんのわずかに唇を緩めた。


「ええ、本当に」


 たったそれだけの言葉に、長い時間と複雑な感情が折り畳まれている気がした。怖い。いや、怖いというだけでは雑だな。美しいし、品位もあるし、明らかに頭も切れる。そういう人から向けられる感情が読み切れないのが怖いのである。


 セラフィナが一歩前へ出る。


「正妃殿下、会議の最中にございます」


「承知しております」


 正妃は視線だけで周囲の妃たちを制した。ざわめきが一瞬で静まる。その動きに無駄がない。


「それでも、陛下が目覚められたこの夜、晩餐の席を設けぬわけにはまいりません。すでに大広間の準備は整っております」


 晩餐会。


 俺の頭のなかで、その単語はとても平和的な響きを持っていた。豪華な食事、落ち着いた会話、多少の気疲れはあるにせよ、少なくとも国際情勢の報告や内廷の大混雑よりはまだましに思える。食事は大事だ。前世でろくなものを食べてこなかった人間として、その価値は痛いほどわかる。ちゃんとした飯を食うことは、たいていの問題へ立ち向かう気力を回復させてくれる。


 そういう意味では、晩餐会そのものは悪くない。


 悪くないのだが。


 目の前の正妃が、壮麗な衣装と部下たちを引き連れたまま、会議の空気を当然のように上書きしていく様子を見ると、どうしても胸の奥に小さな警鐘が鳴る。これは単なる食事会では済まないのではないか、と。けれど、ここで「いや、今日はやめておきます」と言えるほど俺は豪胆ではないし、何より正妃と妃たち全員が目を輝かせるようにこちらを見ている状況で断った場合、別方向の修羅場が発生する未来が簡単に想像できた。


 俺は、口を開いて、閉じて、もう一度開いた。


「……その、うん」


 情けない。ものすごく情けない返事だ。もう少し王らしく、堂々と「案内せよ」くらい言えたらよかったのに、現実にはこうである。うん、って何だ。幼児か。


 それでも正妃は何一つ顔に出さなかった。


「承りました」


 おそらく、彼女のなかでは俺の返事は肯定として処理されたのだろう。実際、俺も否定していないので間違いではない。間違いではないのだが、内心としてはかなりたじろいでいる。


 こうして俺は、半ば流されるように、半ば自分で覚悟を決めるようにして、壮大すぎる晩餐会へ参加することになった。


 会場へ向かう道中も、普通ではなかった。


 妃たちが多い。とにかく多い。しかも全員がそれぞれ違う方向から話しかけてくるので、会話の密度がひどいことになる。


「陛下、お身体にお変わりはありませんこと?」


「陛下、目覚めてすぐに会議なんて酷うございますわ」


「陛下、わたくし、新作の香油を調えてまいりましたの」


「陛下、もしや私のこと、お忘れになってはいませんよね?」


「陛下、お腹は空いていますか? 今日は特別なお料理がたくさん並びますの!」


 最後の一言だけは、なぜか俺の背筋へ小さな冷たさを落とした。特別なお料理。豪華な晩餐会なのだから、そりゃ特別なのだろう。なのに、今この城で“特別”と呼ばれるものが俺の常識と一致している保証が、どこにもない。


 大広間は、晩餐会の名にふさわしく、いや、ふさわしすぎるほど華やかだった。


 天井からは巨大な魔導灯が幾重にも吊られ、青、紫、銀の光が水面のように揺れている。壁際には背の高い燭台と、幻想的な花を咲かせる植物が並び、床には黒い鏡面が広がって、そのうえを歩く人影や光が淡く映り込む。高い位置の窓には細かな装飾ガラスがはめ込まれていて、そこを透ける夜の闇さえ演出の一部になっていた。長い食卓は白銀と黒曜石で組まれ、宝石を散らしたような食器が整然と並んでいる。楽団の奏でる音色は荘厳なのにどこか妖しく、宴というより夢の底へ誘うための舞台装置みたいだ。


 正直、景色だけならうっとりするほど美しかった。


 魔王城の宴と聞いて想像していた“荒々しく豪快で酒臭い”みたいなものとは全然違う。洗練されている。豪華で、妖艶で、上品ですらある。正妃の趣味か、あるいは魔族上流階級の感性がこうなのか、少なくとも空間演出としては文句のつけようがない。


 ところが。


 食卓へ目を向けたところで、俺は静かに絶句した。


 料理が、ひどい。


 味の話ではない。まだ食べていないからそこは不明だ。見た目が、壊滅的にひどい。


 中央に鎮座している巨大な肉塊は、どう見ても“丸焼き”の範疇に収まらない。原型を留めているのか留めていないのか判断に困る巨大生物の胴体が、黒く照り輝くソースを塗りたくられ、口らしき部分を無理やり開いた形で固定されている。そこへ赤い果実や香草が飾られているのだが、飾り付け程度で隠せる残虐性ではない。別の大皿には、目玉がごろごろ浮いた半透明の煮込み。隣には、何本もの脚が絡み合ったまま焼かれている何か。宝石のように美しいグラスへ注がれている液体は、色だけ見れば高級な葡萄酒めいているのに、とろみが不穏すぎる。銀盆の上には、小さな甲殻類らしきものが丸ごと飴掛けされ、口を開けたまま並んでいる。


 なんというか、全体的に“食材を食べやすくしました”ではなく、“生き物へ最大限の威圧感を残したまま、これから食う側の勝利を演出しました”みたいな方向性で統一されている。


 残虐性の限りを尽くしたフルコースである。


「……えっ」


 声が漏れた。


 その一音だけで、周囲の視線が俺へ集まる。しまった。リアクションが早かった。


 猫耳の妃らしき少女が、きらきらした目で言う。


「陛下のために、特級の食材を集めましたの!」


 俺は食材の定義について議論したくなった。俺の知る食材は、もう少しこう、切ったり煮たり焼いたりした結果として“元が何かを忘れさせる努力”が含まれているものだったはずだ。こちらの世界の上流料理は逆らしい。元が何で、どれほど強くて、どれほど恐ろしくて、そしていま皿の上にあるかを全力で主張してくる。


 正妃が俺の表情を観察していた。


「お口に合うものがあるとよいのですが」


 言葉は穏やかだ。穏やかなのに、逃げ道は一切感じられない。ここで「ちょっとこの目玉の煮込みは遠慮したいですね」と言ったら、魔王の好みの調査が始まり、場合によっては料理長の首が飛ぶところまで想像できてしまう。いや、そこまで物騒でないと信じたい。信じたいが、この城にいると何でも大事に発展しそうなのが困る。


 俺は慎重に椅子へ座った。


 正妃が俺の隣、その反対側へセラフィナ、少し離れた位置へ有力な妃たちが並ぶ。席次だけでも情報量が多い。誰がどこに座るかで派閥と力関係が透けて見えそうで、下手に目を泳がせることもできない。


 給仕が始まる。


 最初に置かれた前菜らしき一皿を見て、俺は本気で判断に迷った。花びらのように美しく並べられているのは薄切りの肉……なのだろうか。半透明で紫がかっていて、ところどころに金粉が散り、中央にはぷるぷるした黒いゼリー状のものが鎮座している。美しいには美しいが、見た目が完全に“高級食材化した危険生物の一部”である。


「陛下」


 正妃が静かに俺を見る。


「どうぞ」


 どうぞ、と言われても。


 俺は前世において、食事で迷う余裕なんてほとんど持てなかった。食べられるものを食べる。それが基本だった。そんな人間がいま、最高級の食器に盛られた謎の高級ゲテモノと向き合っている。運命の振れ幅が大きすぎる。


 意を決して、フォークの先でほんの少しだけ切り分け、口へ運んだ。


 ……味は、悪くなかった。


 むしろ驚くほど上品で、香りも複雑で、舌触りも滑らかだ。たぶん高級料理としては正解なのだろう。だからこそ余計に困る。見た目が完全に俺の警戒心を刺激してくるくせに、口へ入れるとちゃんとうまい。料理人の技量が高いのか、魔族の味覚基準が異様にハードモードなのか、その両方か。


「いかがですか」


 正妃の問いに、俺はしばらく言葉を探した。


「……見た目ほどは、攻撃的じゃないな」


 すると、広間のあちこちで小さな笑いが起きた。あ、これウケるんだ。意外だった。もっと真面目に美食を語る文化かと思っていた。


 猫耳の少女が嬉しそうに身を乗り出す。


「まあ! 陛下ったら、相変わらず比喩がお上手!」


 いや、比喩ではなく率直な感想なんだが。


 その後も料理は次々と運ばれてきた。どれもこれも、見た目の第一印象が食欲へ喧嘩を売っている。巨大な骨付き肉、まだ火の通りきっていないように見える内臓煮込み、殻ごと裂いた海魔の蒸し物、牙を残したまま焼き上げた何かの頭部、漆黒のスープに赤い油が浮き、その底で触手らしきものが揺れる鍋。豪華である。手が込んでいる。明らかに高級食材だ。それでも、食卓全体から漂う“食う側の圧倒的捕食者感”がすごい。


 俺はようやく、この城における食文化の根本を理解した。


 ここでは、食事は栄養補給や楽しみであると同時に、強者の証明なのだ。


 どれほど危険で、どれほど凶悪な生物であっても、皿の上へ載せて平然と食う。そういう文化圏の料理なのだろう。合理性はわかる。わかるけれど、俺が求めている健全ライフとはだいぶ遠い。もっとこう、野菜の煮込みとか、焼き立てのパンとか、あったかいスープとか、そういう方向を期待していた。


 実際に見渡せば、野菜は添え物程度しかない。彩りのために散らされた香草や果実はある。あるけれど、主役は常に“強かった何かの死体”である。いや言い方は悪いが、見た目としてはそうなのだから仕方がない。


 俺は、ふと正妃を見た。


 彼女は優雅な所作でグラスを傾け、何事もない顔でその独特な料理を口にしている。美しい。恐ろしく美しい。こんな悪夢みたいなメニューを相手にしてなお一幅の絵として成立するのは反則ではないか。


「……あの」


 俺は恐る恐る声をかけた。


「正妃、でいいのか」


「はい、陛下」


「この晩餐、ものすごく立派なんだけど、その……普段からこういう感じなのか」


 正妃は少しだけ考えるように睫毛を伏せた。


「今宵は陛下のお目覚めを祝う特別の献立ですので、通常よりも格式を重んじております」


 格式。


 なるほど、格式か。


 この世界の格式、だいぶ命の尊厳へ強めに踏み込むな。


「普段は、もう少し、こう……穏やかな料理もあるのか」


「もちろんございます」


 その答えに、俺は胸のなかで小さく希望の火を灯した。


「たとえば」


「生きたまま供する鮮血貝、毒腺の処理を誤れば客から倒れる幻蛇の酒蒸し、火加減ひとつで自壊する深海魔茸の炙りなどは、比較的軽い品として人気です」


 希望の火が秒速で消えた。


 軽いって何だ。軽いの定義が遠い。俺の求める軽食は、そのへんの畑で採れた根菜スープとか、焼いた魚とか、その程度のものである。生きたまま供する鮮血貝は軽食のカテゴリへ入らない。絶対にだ。


 おそらく、俺の顔にすべて出ていたのだろう。セラフィナが咳払いを一つして、正妃へ向き直る。


「陛下は長き眠りからお目覚めになったばかりです。胃腸への負担を考慮した献立も、今後は検討が必要かと」


 救いの手だ。いま初めて宰相が天使に見えた。いや、魔族だからたぶん天使ではないんだけど、俺の気持ちのうえではかなり近い。


 正妃はセラフィナを見、それから再び俺へ視線を戻した。


 そして、ごくわずかに、ほんとうにわずかに表情を柔らげた。


「……そうですね。陛下のお口に合うものを、改めて整えましょう」


 その言い方には、単なる気遣い以上のものがあった。試しているのか、探っているのか、あるいは本当に前と違う何かを感じ取っているのか。俺にはまだわからない。わからないけれど、少なくともこの人は、見た目の女王感だけでなく、相手の反応をきちんと拾うだけの知性を持っている。


 それは良い知らせでもあり、下手なごまかしが通じないという意味では悪い知らせでもある。


 宴は華やかに続き、妃たちはそれぞれの形で俺へ話しかけ、笑い、探り、時に牽制し合った。会場は美しく、音楽は甘く、灯りは幻想的で、料理は相変わらず俺の感性へ強烈な挑戦状を叩きつけてくる。こんなにも豪奢で、こんなにも異様な晩餐会を、前世の俺はきっと一生想像もしなかっただろう。


 そして俺は、その食卓を前に、心の底から静かに決意していた。


 この城の食生活、絶対に改善しよう。


 世界征服とか大陸戦略とか、そのへんも確かに面倒だ。妃たちの大所帯もかなり面倒だ。けれど、毎日の飯がこの方向性で固定されているとしたら、俺の理想のスローライフは始まる前から消化不良で終わる。


 青空の下で畑を作って、まともな野菜を育てて、温かい汁物と普通の肉料理とちゃんとしたパンを食う。


 いまやその願いは、俺にとって平和の象徴であると同時に、この魔王城へ対する具体的な反乱計画の第一歩になりつつあった。


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