第1話 晴れた空の下で
空が、まだ残っている。
そんなことを思った時点で、俺の頭もだいぶ終わっていたのだろうと思う。普通なら、崩れ落ちる高層区画の残骸が視界いっぱいに迫ってきている状況で最初に気にするべきは、自分の足がまだ動くかとか、退避用シャフトがどこにあるかとか、もう少し生存率に寄った現実的な項目であるべきだ。ところが、そのときの俺は、赤黒く濁った大気の裂け目からかろうじて覗いた鈍い光を見上げながら、ああ、空ってまだ消えきってなかったんだな、などと間抜けな感想を抱いていた。
第三次世界災害。
人類が、いつからその呼び名を使い始めたのかは知らない。世界が三回も壊れる前提で名称を付けるあたり、だいぶやけくそが入っていた気もする。ともかく、都市を覆っていた防壁は何重にも焼き切られ、地下生活区に残っていた電力網は昨日の時点で半分死に、食糧配給は先週から完全に止まり、今日にいたっては上層から落ちてきた何か巨大なもののせいで中央居住棟そのものが傾いた。最後の人類だとか、生き残りだとか、そういう仰々しい呼び方をされる立場にいた俺としては、ここで格好よく「この世界の明日を託す」みたいな一言でも決めて散るのが物語としては美しいのかもしれない。しかし残念ながら、俺はそんな大層な器でも度量の持ち主でもなかった。
腹は減るし、喉は焼けるし、眠いし、もう何年もちゃんとした風呂なんて入っていないし、土の匂いがする場所で横になって、草の上で昼寝をして、きれいな水で顔を洗ってみたいと、そんなことばかり考えていた。世界の存続を願っていないわけではない。むしろ、俺みたいなものでも願わずにはいられなかった。どこかの誰かでいいから、生きていてくれ。明日の朝が来る世界で、普通に朝飯の心配ができる人間が一人でも残っていてくれ。そういう祈りみたいなものが胸の底に沈んでいたからこそ、崩落音と警報の狂った合唱のなかで、俺は最後まで前を見ようとしていたのだと思う。
見たところで、前方二十メートル先の通路が爆ぜて光の柱になったら、どうにもならないんだけどな。
「……あっ、これ無理だわ」
自分でも拍子抜けするほど素直な声が出た。英雄の最期には程遠い。世界の終わりに添えるには、あまりにも生活感がある。
視界が白く塗り潰される直前、俺は一つだけ、妙にしつこく頭に浮かんだことがあった。
次に生まれることがあるなら、青い空のある世界がいい。
木があって、海があって、風が吹いて、遠くまで見える場所がいい。
争いも災害も、できるだけ勘弁してもらって、静かで、のんびりしていて、明日も明後日もたぶん続くんだろうなと思える、そんな世界がいい。
最後の瞬間に人類全体の未来ではなく自分の理想の隠居先みたいなものを願うあたり、我ながらスケールが小さい。けれど、死ぬ直前に出てくる本音なんて、案外そんなものなのかもしれない。
そこで、意識は切れた。
きれいさっぱり、電源を落としたみたいに。
痛みも、音も、熱も、全部なくなって、気づけば俺は柔らかいものの上に寝ていた。
最初に頬へ触れた感触は、土でもなければ冷たい金属床でもなく、もっと細くて、もっと頼りなくて、けれど信じられないほど心地いいものだった。くすぐったい。乾いていない。鼻先に青臭い匂いが届く。草だ。草の匂いがする。俺の知っている人工培養藻の薄い臭気とはまるで違う、本当に生きている植物の匂いがする。
「……え?」
ゆっくり目を開けた俺の視界いっぱいに飛び込んできたのは、青だった。
いや、青と言っても、塗料の名前みたいな平面的な色ではない。どこまでも深くて、なのに軽くて、雲が白く流れていて、見上げているだけで胸の奥に風が入ってくるような、そんな青である。俺はしばらくのあいだ、まばたきも忘れてその色を見ていた。目が焼けるような強い光なのに、不思議と痛くない。眩しいのに、逃げたくない。むしろ、ずっと見ていたい。
「空、青っ……」
口からこぼれた感想がそれだけというのはあまりに語彙が貧弱すぎるものの、仕方がない。青空に対する免疫がなかったのだから許してほしい。終末世界生まれの男に、いきなり雲一つない晴天を浴びせるのは刺激が強すぎる。初めて高級料理を口にした庶民が「うまっ」しか言えなくなる現象とだいたい同じだと思う。
上体を起こすと、草原が広がっていた。
左右を見ても草原。振り返っても草原。遠くには木々の連なりが見え、そのさらに向こうには陽光を反射してきらきらと光る何かが広がっている。湖かと思ったが、風に乗って運ばれてきた匂いが塩気を含んでいたので、たぶん海だ。海。映像記録で何度も見たことはあった。昔の地球には、こういうものがあったらしいと、教本の隅に載っていた。画面越しでなく、自分の目で、こんなふうに見る日が来るとは思っていなかった。
思わず立ち上がって、ふらふらと歩いた。歩きながら、何度も足元を見た。靴の下で草が撓む。踏んだところから青い匂いが立つ。風が吹けば、背丈の低い草が一斉に揺れて、波みたいにうねる。耳を澄ませると、ざわ、と葉が擦れる音がして、その向こうで鳥の鳴き声まで聞こえる。
鳥だ。
本当にいたんだ、あれ。
図鑑でしか知らないやつが、今、普通に鳴いてる。
笑ってしまった。笑うしかなかった。死んでからのほうが世界が豊かって、なんなんだよ。俺の人生、前世の待遇ひどくないか。いやまあ、文句を言う先もたぶんないんだけど、あるなら言いたい。もっと早くこっち寄りの世界に来たかった。
「すげえ……すげえな……」
俺はもう、完全に観光客だった。いや、観光客のほうがまだ落ち着いている。初めて遊園地に連れてこられた子どもが、あっちも見たいこっちも見たいと首を振りまくっている状態に近い。空気を吸うだけで楽しい。風を浴びるだけで笑えてくる。いっそ草の上に寝転がって、今日一日を「空が青かった」という理由だけで満足して終えてもいいくらいだった。
そのときだった。
「陛下」
後ろから声がした。
やけに近い。
しかも、妙に敬語である。
旅の案内人にしては仰々しいし、俺の人生経験を総動員しても、草原のど真ん中で初対面の相手へ向かって「陛下」と呼びかけるシチュエーションに心当たりがない。嫌な予感というより、予感にすらならない意味不明さが背筋を這い上がってきて、俺はぎこちなく振り返った。
そこには、何人もの男女が立っていた。
最初に目についたのは、一番前にいた銀髪の女性だ。腰まで流れる髪は日差しを受けてほとんど白く見え、整いすぎた顔立ちは彫刻みたいに隙がない。黒を基調にした衣装は軍服にも礼装にも見え、胸元や袖に入った銀の刺繍がいちいち上品で、平伏している姿勢なのに威圧感が消えていない。なんというか、会社にいたら絶対に逆らいたくないタイプの美人である。
その隣には、褐色の肌に赤い瞳を持つ大柄な女が腕を組み、いまにも「おお、陛下!」と叫びそうな顔でこちらを見ていた。いや、顔がいいな。怖いけど、顔がいい。さらに後方には、片眼鏡をかけた痩身の男、筋骨隆々の老執事っぽい男、角のある少女、翼のようなものを背中にたたんだ青年までいる。統一感はない。ないのに、全員から「そのへんの雑魚ではありません」という圧がひしひし伝わってくる。
そしてその面々が、なぜか全員俺に向かって片膝をついていた。
「お目覚めを、お待ちしておりました」
銀髪の女性が深く頭を下げる。
「魔王陛下」
いや、ちょっと待って。
情報量の暴力で脳が追いつかない。
まず、陛下って誰。魔王って誰。お前たちは誰。ここはどこ。俺は死んだはず。死んだあとに青空観光ツアーへ連れていかれる可能性もゼロではないにせよ、その場合の出迎えが美男美女の軍勢で、しかも肩書きが魔王というのは、天国と地獄の人事がだいぶ混線していないか。
「……その、ええと」
こういうとき、落ち着いて状況を確認するのが大事だとわかっていても、目の前の絵面が強すぎる。俺はとりあえず、自分の胸元を指さした。
「俺?」
銀髪の女性は、わずかに眉を寄せた。心底不思議そうな顔である。
「もちろんでございます、陛下」
「魔王の?」
「この七大陸が一つ、黒曜大陸全域を統べる絶対王にして、万魔の主たる、ただ一人の陛下であらせられます」
説明が壮大すぎて、逆に一個も入ってこない。
黒曜大陸。万魔の主。絶対王。肩書きの一つくらい俺にも選ばせてほしい。多い。情報が多い。もっと「村長です」くらいのサイズ感で来てくれたら、俺も応答のしようがあったんだけど。
「……人違いじゃなくて?」
「あり得ません」
即答だった。情け容赦がない。
褐色の大柄な女が、感極まった様子で拳を握り締める。
「やはり長き眠りの影響で記憶が……! ご安心ください陛下! 我らが必ずや、再び覇道への道を――」
「待って待って、その覇道って単語、今この空気でさらっと出すの怖いから」
思わず素で止めた。口にした途端、自分の声が妙に通ったことに気づく。腹の底から響いたというか、空気に勝手に重みが乗ったというか、普段の自分の声ではない感じがした。すると、配下らしき面々はぴたりと動きを止め、さらに頭を垂れた。
え、何。俺、今なんかした?
銀髪の女性が、感動すらにじませた表情で言う。
「失礼いたしました。お目覚め直後であられるにもかかわらず、その一声だけで我らを戒めるとは……やはり陛下に衰えなどありません」
いや、あるよ。常識人としての胃の強さがもうだいぶ削られてるよ。
「とにかく落ち着こう。俺も状況がよくわかってない。ここはどこで、お前たちは誰で、なんで俺がその……魔王、なんだ?」
問いかけながら、自分の両手を見下ろした。
前世の俺より、少し大きい。指は長く、皮膚は驚くほど傷一つない。袖口から覗く腕には無駄な脂肪がなく、それでいて細すぎる感じもしない。顔は確認していないので何とも言えないものの、少なくとも肉体が変わっていることだけは確かだった。
片眼鏡の男が一歩進み出る。いかにも参謀役らしい、理屈で殴ってきそうな雰囲気の男である。
「この地は魔王領中央、王都エルディア外縁の聖眠の草原にございます。あなた様は三年三ヶ月三日にわたり、魂の再編と権能安定化のため眠りについておられました」
「知らない単語が多いな」
「承知しております。記憶の混濁は想定内です」
想定しないでほしい。こっちは本当に何も知らないんだ。
「我らは陛下の側近にして直臣でございます。こちらは宰相セラフィナ、こちらは第一軍団長グレイシア、私は軍務総監ヴァルト、後方の者どもも皆、陛下のためだけに在る者です」
紹介された銀髪がセラフィナ、褐色美女がグレイシア、片眼鏡がヴァルトというらしい。後方の老執事や角少女たちも改めて頭を下げる。統率が取れすぎていて、ちょっと怖い。
「……俺、そんなに偉いの?」
口にしてから、我ながら間抜けな質問だと思った。魔王陛下とまで呼ばれておいて、そんなに偉いの、はない。ところが、グレイシアは胸を張って誇らしげにうなずいた。
「偉いどころではありません! 陛下は最強です!」
雑な説明ありがとう。子どもに人気のヒーロー紹介みたいでわかりやすい。
「最強って、何に対して?」
「全てにです!」
「範囲が広いな」
俺が困惑した声を漏らすと、セラフィナがごく自然な所作で掌を開き、草原の彼方に見える山脈の一角を示した。
「もしご不安でしたら、少量の魔力を解放なさってくださいませ。ご自身の感覚を取り戻されれば、言葉で説明するより早く理解できるかと」
「少量って、どのくらい」
「本当にごくわずかで結構です。陛下にとっての一滴で、常人の生涯を百巡した総量に匹敵いたしますので」
比喩がすでにおかしい。
とはいえ、言われてみれば、体の内側に奇妙な熱のようなものがあった。熱というより、巨大な何かが静かに渦巻いている感覚に近い。胸の奥、腹の底、骨の髄、血の流れ、その全部に黒い光が溶けているような、説明しようとすると余計に意味がわからなくなる感覚だ。意識を向けると、それは反応した。待っていましたと言わんばかりに。
「えっ、ちょっと怖いなこれ」
「ご安心を。陛下のお力は絶対でございます」
安心材料としては最悪である。絶対って言葉、暴走したら止まらない響きがあるだろ。
俺は一度深呼吸して、草原の向こう、できるだけ何もなさそうな山の上へ視線を据えた。少しだけ。ほんの少しだけ、体の中のそれを押し出してみる。前世で機械の出力を絞るときみたいに、慎重に、慎重に、つまむくらいのつもりで。
世界が揺れた。
いや、俺の感覚が揺れたのかもしれない。空気が震え、耳の奥がきんと鳴り、視界の端が黒く染まる。遠くの山へ向かって見えない何かが走った気がした。その直後、山の上半分が音もなく消えた。
本当に、消えた。
爆発ではない。崩落でもない。切断とも違う。そこにあった巨大な質量だけが、最初から存在しなかったかのように抜け落ちて、切り取られた断面だけが白煙を上げている。数秒遅れて轟音がやってきて、地面がうねり、草原が波打った。空へ飛び立った鳥の群れが黒い点になって散っていく。
俺は口を開けたまま固まった。
「…………え?」
かろうじて出たのが、その一音だった。
配下たちのほうを見れば、全員が恍惚とした顔で頭を垂れている。喜んでいる。感動している。いや、そんな場合か。山がなくなったぞ。俺のうっかりで地形が変わったぞ。これ、平和な暮らしとか言ってる場合なのか。畑を耕そうとして大陸ごと削る未来がちらついたんだけど。
「待って、今の、ほんのちょっとだよな?」
「はい」
セラフィナが微笑む。やめて、その穏やかな顔で肯定しないでほしい。
「ほんのちょっとで山が消えたんだけど」
「さすが陛下でございます」
「褒めてる場合じゃないんだよなあ!」
思わず頭を抱えた。草原の上で。青空の下で。夢みたいにきれいな世界へ来たと思ったら、開始一時間もしないうちに景観を一つ破壊してしまった男の気持ちがわかる人は、たぶんこの世に俺しかいない。
グレイシアが感極まった声を張り上げる。
「お目覚め直後にもかかわらず、この威容! 人類どもが震え上がる日も近い――」
「近づけなくていい! 震え上がらせなくていい!」
俺は反射的に叫んだ。もう本音しか出てこない。
「俺は静かに暮らしたいんだよ! 人類がどうとか、覇道がどうとか、そんな物騒な話は後回しにしてくれ。というか後回しどころか、できれば永久に棚上げしたい。見ただろ、この世界。空が青くて、風が気持ちよくて、海まであるんだぞ。そんな場所でわざわざ戦争なんかしたくないだろ普通!」
熱弁してから、はっとした。
配下たちが、またしても深く沈黙していた。
嫌な予感がした。さっきと同じ種類の、いや、もっと濃い種類のやつだ。
ヴァルトが片眼鏡を押し上げ、感嘆を隠しきれない声音でつぶやく。
「なるほど……景観、環境、資源、そのすべてを支配構造に組み込むおつもりか。戦火で焼かず、利用価値を最大化したうえで掌握する長期戦略……」
「違う違う違う、全然違う」
セラフィナが胸に手を当て、うっとりした顔で続ける。
「空と海の価値にまで言及なさるとは、やはり陛下は視座が違います。領土を奪うのではなく、世界そのものを完成させるおつもりなのですね」
「完成させない。俺の理想の別荘地みたいな話をしてるだけだから」
グレイシアが拳を震わせる。
「戦わずして敵の戦意を喪失させる大義の確立……! 美しい……!」
「どこがだよ」
もうだめだ。会話が成立していない。俺が「昼寝したい」と言ったら「覇者の休息」とか解釈される流れだ、これ。面倒くさいなんてレベルじゃない。前世の廃棄物処理マニュアルのほうがまだ素直に読めた。
それでも、草原を渡る風は気持ちよかった。
頭の痛い現実が目の前に積まれていても、青空の価値まで下がるわけではない。むしろ、こんな世界だからこそ、余計に思う。壊したくない。壊されたくない。もう、あんな終わり方は見たくない。
なら、やることは一つだ。
世界征服ではない。戦争でもない。少なくとも俺の方針としては、断じて違う。
まずは、静かに暮らせる環境を整える。
食事。住まい。風呂。畑。睡眠。安全。平穏。
人が生きるのに必要なものを、今度こそちゃんと揃える。
その結果として、周囲が勝手に何を勘違いしようと、俺が目指すものだけは決めておけばいい。
「……よし」
俺は顔を上げた。
「とりあえず城へ案内してくれ。話はそれからだ。確認したいことが山ほどあるし、食事の内容も見直したい。寝床もちゃんとしたいし、生活環境も整える。畑が作れる土地があるなら見たい。争いの準備なんかより、まず日常だ。わかったな?」
一拍の沈黙のあと、配下たちはほとんど同時に頭を垂れた。
「「「御意」」」
やけに声が揃っていて怖い。
セラフィナが顔を上げ、その紫の瞳をまっすぐ俺へ向ける。
「陛下がついに、長き戦略の第一歩を」
「違う」
「民と兵の基盤たる生活圏の再編を」
「違うって」
「すぐに手配いたします。なお、王城にはすでにお目覚めを聞きつけた方々が集まりつつあります」
「方々?」
「妃殿下方です」
俺は固まった。
「……今、なんて?」
「妃殿下方にございます」
風が吹いた。草原が揺れた。鳥が鳴いた。空は相変わらず青くて、海は遠くで光っていて、世界はとても美しい。
その美しさとはまったく関係のないところで、俺の新しい人生は、どうやらとんでもなく面倒な方向へ走り出していたらしい。




