第10話 飯が高いって、それもう平和の危機なんだよな
平和に暮らしたい。
その願いは、異世界へ転生してからというもの、何度も何度も俺の頭のなかへ浮かんできた。草原を見たときも、海を見たときも、王都の地図や黒曜大陸の講義を受けたときも、子どもたちに“父上”と呼ばれて、その愛らしさと危なっかしさへ同時に心を持っていかれたときも、結局のところ俺が欲しいものは変わっていない。
空があって、飯があって、風呂に入れて、静かに眠れて、子どもが安心して笑っていられること。
前世の俺にとって、そういうものは全部“贅沢品”だった。だからこそ今いるこの世界でそれが成立するなら、今度こそちゃんと守りたいと思っている。
思っているのだが、どうやら平和というものは、俺が願っただけで空から降ってくる種類のものではないらしい。
それどころか王都のど真ん中で、かなり地味で、かなり嫌な形で、すでに崩れ始めていた。
「……高いな」
俺は報告書へ目を落としたまま、率直すぎる感想を漏らした。
対面に座るセラフィナは頷く。
「はい。ここ二十日ほどで顕著になっております」
机の上へ広げられているのは、王都中央市場および周辺区画の食糧価格推移表だった。数字の羅列だけを見ても、そこに何が起きているのかはわかる。穀粉、乾燥豆、芋類、塩漬け肉、油脂、保存果実、淡水魚の干物、その全部が揃って上がっている。日ごとの上昇幅は品目によって違うが、全体として右肩上がりだ。じわじわというより、ここ数日で一段跳ねているものもある。
報告書には、王都下層居住区の食費負担増、配給待ち列の延長、簡易食堂の値上げ、貧民街周辺での小競り合い増加、盗難件数の上昇、商人ギルドへの苦情集中など、見るからによろしくない記載が並んでいた。
飯が高い。
たったそれだけの話のように見えるかもしれない。
でも前世で食糧が尽きる恐怖を知っている俺からすると、それは平和の土台が軋み始めた音に等しい。人間、腹が減ると余裕を失う。余裕を失うと、明日を信じる力がごっそり削れる。そこから先は早い。疑心暗鬼、買い溜め、奪い合い、暴力。終末世界の崩壊は、もっと大規模な災厄から始まったものだったけれど、日々の生活の手触りとしては、いつだって飯と水と寝床のところから世界が壊れていった。
「穀粉がここまで跳ねるのはまずいな」
俺がそう言うと、セラフィナは少しだけ目を細めた。
「ご注目になると思っておりました」
「そりゃなるだろ。主食が崩れるのはまずい」
「はい。副食や嗜好品であれば多少の高騰は吸収できますが、基礎食料がこの速度で上がりますと、王都の低所得層から先に生活が破綻し始めます」
言い方が容赦ないが、事実なのだろう。
隣に控えていたヴァルトが補足する。
「現在の王都は、中央直轄圏の政治・軍事中枢であると同時に、地方からの労働流入が非常に多い都市でもあります。日銭に近い形で暮らす者も少なくない。彼らにとって食糧価格の上昇は、そのまま明日の生活費の消失へ繋がります」
「……つまり、まだ完全に飢えてはいないが、“危険水域へ入る手前”ってことか」
「はい。極めて」
なるほどな。
完全な飢饉より手前。けれど放っておけば簡単に崩れる地点。政治家というか、為政者が一番見誤ってはいけないタイミングなのだろう。表面上はまだ街が回っていても、その裏で人の気持ちは静かに荒れ始めている。
俺はもう一度、価格表へ目を落とした。
「原因は、一つじゃないんだよな」
「はい」
セラフィナが別の資料を開いた。
「現時点で主因と見られるものは四つございます。まず、流通そのものの滞り。次いで、商人ギルドの買い占め。さらに、地方豪族による囲い込み。そして最後に、人間圏との緊張を背景とした輸入停滞です」
うわ、全部嫌なやつだ。
しかも一つひとつが独立ではなく、たぶん互いに悪影響を増幅し合っている。こういうとき、問題って綺麗に一列に並んではくれないんだよな。大体みんな手を繋いで地獄へ向かう。
「順番に説明してくれ」
俺がそう言うと、セラフィナは頷いた。
「まず流通の滞りですが、これは王都と周辺農村を結ぶ街道の一部で、輸送効率が落ちていることに起因します」
地図が卓上へ投影される。王都エルディアを中心に、放射状に延びる主要街道。そこへ赤い印がいくつも浮かび上がった。
「ここ半月、天候不順と小規模な崖崩れ、それから荷車用の橋梁損傷が重なり、北東街道と南南西街道の二系統で通行速度が落ちております」
「自然災害寄りの要因か」
「部分的には。ですが、単なる不運だけとも言い切れません」
ヴァルトが指を差す。
「補修の遅れです。通常であれば三日から五日で応急対応に入る箇所が、一部、異様に放置されております」
「それは、誰かが意図的に?」
「現時点で断定はできません。ただ、少なくとも“ある特定の富裕層”が現場判断を握っている可能性はあります」
嫌な言い方だな、と俺は思う。けれど本質的なのだろう。道路が一日詰まれば、そのしわ寄せは王都の市場へ来る。ところが現場の責任者や補修に関わる連中が王都の下層で飯が値上がりしている実感を持たないなら、優先度を下げることもありうる。
「次に、商人ギルドの買い占め」
その単語だけで、だいぶ空気が悪くなる。
魔王城に来てからまだ日が浅いが、商人ギルドという存在が大人しく善良なだけで成り立っている組織ではないことくらいは、話の雰囲気でなんとなくわかっていた。あの手の集まりはだいたい、秩序の一部であると同時に、抜け目なく利を取ることにも長けているものだ。
セラフィナは資料を一枚めくった。
「王都最大の流通管理組織である中央商人ギルドは、ここ十日ほどで乾燥穀物と塩漬け食材の在庫確保量を大きく増やしています」
「増やしてる、って言い方をすると聞こえはいいが」
「市場放出を絞っている、と言い換えても差し支えないでしょう」
やっぱりそうか。
ヴァルトが冷静な声で続ける。
「彼らの理屈としては、今後さらに人間圏との緊張が高まり、輸入が滞ることを見越した備蓄、という建前になります」
「建前」
「はい。実際には、希少化した局面で価格がさらに上がることを前提に、いまのうちに押さえていると見るのが妥当です」
つまり、先を見越した商売だ。商売としてはわからなくもないが、王都の空気が荒れているときにやられると心底たちが悪い。自分たちの倉庫へ山のように積んでおきながら、市場では“足りませんねえ、高いですねえ”とやるわけだろう。やってることが本当に嫌だ。
「合法なのか、それ」
俺が尋ねると、セラフィナは少し難しい顔をした。
「完全に違法と断じるのは難しいところです。備蓄の権利そのものは認められておりますし、非常時の在庫確保は本来必要な行為でもあります」
「でも限度ってものがある」
「はい。そこをどう線引きするかが、まさに政治問題にございます」
政治問題。便利な言葉だ。便利すぎる。つまり、法だけでは切れず、かといって放置もできない厄介事という意味なのだろう。
「地方豪族の囲い込みは?」
「こちらは、王都ほど表面化しておりませんが、長く響く可能性がございます」
投影地図の外縁部、王都から少し離れた農業地帯や中継都市に印がつく。
「地方豪族が、自領内の穀物と保存食を通常より多く囲い込んでおります。表向きの理由は“有事への備え”ですが、実際には中央の動向を見極めるための交渉材料として食糧を抱えている面が強い」
「食い物を政治カードにしてるわけか」
「率直に申し上げれば、その通りです」
俺は思わずため息をついた。
もちろん、彼らにとっては自領を守るのが先なのだろう。王都へ全部流して自分たちが空になるわけにはいかない、という理屈もあるはずだ。あるのだが、中央の不安定さへ付け込んで“値を吊り上げる好機”“発言力を増す機会”と見ている連中が混ざっていそうなのも簡単に想像できる。
「最後に、人間圏との緊張による輸入停滞」
ここで空気がさらに重くなる。外事府関連の話は、だいたい笑い話にならない。
「南東海域の航路で、ここ一月、検問と臨検が増えております。直接の戦端が開かれているわけではありません。けれど聖環大陸寄りの港湾勢力と、人類連合側の巡回艦が、魔族領へ入る船へ過剰な圧力をかけている」
「露骨だな」
「露骨に見えぬよう露骨にしております」
ヴァルトの言い方が嫌に上手い。たしかにそうなのだろう。“戦争はしていません”“交易妨害の意図はありません”“安全確認です”という顔をしながら、実際には流れを細らせる。国際関係ってそういう陰湿さがある。
「輸入に頼ってた品目もあったのか」
「はい。とくに王都の上層向け嗜好品や、一部保存技術を用いた乾物類、塩、薬草加工品などは外からの比率が高うございます」
「上層向け嗜好品なら、まあ贅沢品として後回しにもできる。でも塩や保存系は生活直撃だな」
「その通りです」
俺は椅子へ背中を預け、しばらく天井を見た。
なるほど、始まりとしては最悪に近い。
流通が物理的に滞る。
商人ギルドが買い占める。
地方豪族が囲い込む。
外からの流れも細る。
個々には“理屈がある”のがまた厄介だ。全部が純粋な悪意で動いているならまだやりやすい。悪いやつをしばけばいい。でも現実はそう単純じゃない。備えとしての備蓄、地元優先、輸送路の損傷、外交的圧力。どれも、言葉だけ取り出せば一定の正しさを持つ。だからこそ人を苦しめながら正当化される。
「王都の民は、どのくらい不安定になってる?」
俺が尋ねると、セラフィナは新しい資料を差し出した。
「まだ暴動の段階ではございません」
「まだ、か」
「はい。ただし、市場や配給所周辺での口論、横取り、小規模な乱闘、盗難未遂は増えております。簡易食堂では一部の品が夕刻を待たずに売り切れ、下層区では“もっと上で抱え込んでいる者がいる”という噂も広まっている」
「噂、ね」
「食卓へ直結する不満は、広がるのが早うございます」
本当にそうだと思う。
終末世界でもそうだった。配給が一日遅れるだけで、人は管理側を疑う。疑うだけで済めばまだいい。誰かが隠しているんじゃないか、強いやつが独占しているんじゃないか、自分だけ損しているんじゃないか。そういう感情は、たいてい理屈より先に燃え上がるものだ。
「……王都、見に行けるか」
自分でも、ほとんど反射でそう言っていた。
セラフィナとヴァルトが同時にこちらを見る。
「陛下が、でございますか」
「うん」
俺は机の上の数字と地図を指で軽く叩いた。
「こういうのって、資料だけ見てても限界あるだろ。もちろん数字は大事だ。でも飯の値段が上がってるときの空気って、現場へ行かないとわからない」
セラフィナは少し黙った。その沈黙は反対というより、リスク計算に見えた。
「公的な視察としてですか」
「いや、その形だとたぶん見えるものが変わる」
王都の街へ魔王陛下が正式視察で現れたら、それだけで全部が整えられる。いいところだけ見せる準備が入るし、民衆も本音を飲み込む。もちろん公的視察に意味がないわけではない。でも、いま俺が知りたいのはそういう整えられた表面じゃない。
「可能なら、もう少し自然に見たい」
そう言うと、ヴァルトが少しだけ興味深そうな顔をした。
「変装のご希望でしょうか」
「言い方が面白いな。たしかにそうなるのか」
「面白くはなく、実務的な選択肢かと」
実務で変装が選択肢に入る魔王城、やっぱりだいぶおかしいな。
セラフィナは慎重に口を開いた。
「陛下のお考えは理解できます。ですが、安全上の懸念はございます」
「王都の中でもか?」
「王都の中だからこそです。飢え、不安、噂、価格高騰。そのいずれも、人の目と口を荒くします。そこへ陛下が不用意に近づかれるのは望ましくない」
その忠告はもっともだった。しかも俺の場合、“不用意”の規模が普通と違う。魔王ボディなので、逆上した誰か一人へ刺される心配は薄いのかもしれないが、問題はそこじゃない。こちらが正体を隠していても、何かの拍子に力が漏れれば大騒ぎだし、正体がばれた場合の混乱は市場全体を吹き飛ばす可能性すらある。比喩でなく。
「とはいえ」
セラフィナは少し考えたのち、言葉を継いだ。
「完全に否定する気もございません」
「お」
「生活基盤を立て直すおつもりである以上、陛下が民の暮らしを実見なさること自体は有益です。ただし、段取りと護衛は必要です」
「護衛は目立たない形で頼む」
「その“目立たない”の基準を詰める必要がございますね」
「だよな……」
俺は額を押さえた。
やっぱり、やることが増える。
王都の食糧価格高騰を知った結果が、すぐさま“魔王の潜入視察計画”に繋がるの、だいぶ本末転倒っぽさもある。でも現場を見たいのは本音だ。数字だけでは、人の顔色まではわからない。
「それで、対応策の叩き台は?」
俺が尋ねると、ヴァルトが数枚の紙を前へ出した。
「短期、中期、長期に分けて案を作っております」
仕事が早い。いや、早すぎる。俺がまだ“これはやばいな”と感じている段階で、もう叩き台があるのは本当にありがたいし、同時に魔王城の実務能力が怖くもある。
短期案はこうだった。
王都直轄の備蓄庫から限定放出を行い、基礎食料の価格を一時的に下げる。市場への供給量を増やして買い占めの効果を薄める。並行して、主要街道の応急補修を最優先で進める。さらに商人ギルドへ対し、備蓄状況の報告義務と緊急時放出要請を出す。
中期案は、地方から王都への輸送契約見直し、囲い込み傾向の強い豪族との交渉、輸送護衛の再編成、海路代替ルートの開拓。
長期案は、王都周辺の生産力底上げ、市場依存の偏り是正、保管倉庫の公的管理強化、輸入に頼りすぎている品目の代替開発。
「……書いてあることはわかる。わかるんだけど」
俺は紙を見ながら唸った。
「短期案の時点で、商人ギルドと豪族と街道管理の全部に喧嘩売ってないかこれ」
「売っております」
ヴァルトがあっさり言う。
「いや、もう少し遠慮がほしいな」
「遠慮していては、先に民の食卓が折れます」
そこを言われると弱い。
セラフィナも続く。
「ただし、正面から“貴様らが悪い”と行くべきではございません。商人ギルドには“市場安定化への協力”という名目を、地方豪族には“王都混乱が長引けば地方経済にも悪影響が出る”という理で迫るべきでしょう」
「つまり、面子を潰さずに締めるわけか」
「はい。可能な限りは」
政治だなあ、としみじみ思う。
単純に悪者を見つけて叩くよりずっと難しい。難しいし、いちいち言葉選びが要る。でもそのへんを雑にやると、あとで余計な禍根になるのだろう。
「王都の民衆向けには何かあるか」
「まだ具体化はこれからですが、配給所と簡易食堂の安定供給を最優先にすべきです」
セラフィナが答える。
「飢えは、まず弱いところから表面化いたします。日銭で暮らす者、子どもの多い家、老いた者、職を不安定にしている者。彼らの口へ確実に食が入ると見せることが、民衆不安の広がりを抑える第一手です」
「“見せる”も大事なんだな」
「はい。実際に供給することは当然として、それが行き渡っていると視認できることも重要です」
視認。
それもまた現実だ。足りていても、足りているように見えなければ人は不安を募らせる。逆に完全には足りなくても、“向こうが何か動いている”と感じられるだけで暴発を遅らせることもある。前世で何度か、そういう危うい均衡を見た。
「陛下」
セラフィナが静かに言う。
「これは、始まりに過ぎぬかもしれません」
その言い方に、俺は顔を上げた。
「というと?」
「今回の食糧高騰が、単なる一時的な市場の乱れで終わるならまだよいのです。ですが、もし背後に“王都の生活基盤を揺らし、中央の信用を削る意図”が混ざっているとすれば、今後も同種の動きが続く可能性がございます」
なるほどな、と俺は思う。
買い占め、囲い込み、輸送遅延。どれも単発でも起こりうる。でも、それが一斉に重なっているなら、偶然だけではないかもしれない。誰かが得をする構図がある。中央の統制力が弱ったほうがいい人間。王都の不満が膨らんだほうが交渉で優位に立てる勢力。そういう連中は、たぶん一人や二人ではない。
「……嫌なイベントの始まりとしては満点だな」
俺が呟くと、ヴァルトがほとんど同意するように頷いた。
「まことに」
まったく嬉しくない満点である。
そこで、扉の外から控えめなノックが入った。侍従が一礼して告げる。
「失礼いたします。王都市場区の担当監察官が、緊急の口頭報告を求めております」
ほら来た。
こういうとき、事件って“まず資料で全貌を把握してから落ち着いて対処しましょう”みたいな都合のいい進み方をしてくれない。現場は待ってくれない。向こうは向こうで悪化していく。対応の遅れそのものがコストになるんだ。
「入れてくれ」
俺が言うと、侍従が扉を開いた。
入ってきたのは、黒い外套をまとった痩身の男だった。顔色は悪く、姿勢こそ崩していないものの、明らかに慌てて走ってきた気配がある。市場区監察官、という肩書きにしてはずいぶん現場叩き上げっぽい雰囲気だ。
「お目通りを賜り、恐悦に存じます」
彼は膝を折りかけたが、セラフィナがすぐに制した。
「簡潔に」
「はっ」
男は顔を上げた。
「本日午後、中央第三市場にて、穀粉価格の再引き上げが通知されました。これに対し、下層区からの買い手が一斉に抗議し、商人ギルド側の荷役人と衝突。現在は治安隊が間に入っておりますが、周辺の食堂と露店にも人が流れ、混乱が拡大しております」
俺は眉をひそめた。
「負傷者は?」
「現時点で重傷者はおりません。ですが、店が二軒壊され、物資の奪い合いが一部で発生しております」
早いな。
まだ暴動ではない。まだだ。でも、火種はもう燃えている。
「第三市場か」
セラフィナが小さく呟く。
「そこは、庶民層の基礎食糧流通の要ではなかったか」
「はい。ゆえに反応も早く……」
監察官の声には、現場の焦りが滲んでいた。
俺は席を立った。
「セラフィナ」
「はい」
「短期案のうち、すぐ動かせるものを切り出せ」
「備蓄の限定放出、配給所の増設指示、第三市場周辺への簡易炊き出し、応急補修班の優先再配置が候補です」
「やれる順にやろう。まず“今日の飯が消えない”ことを見せたい」
「承知いたしました」
セラフィナは一歩も引かずに即答した。すぐ横でヴァルトが別の文官へ指示を飛ばし始める。人が動く音。紙が走る音。空気が一気に実務へ寄る。
そのなかで俺は、ふと自分の心拍数が上がっていることに気づいた。
怖いのかもしれない。
前世で“飯が足りない空気”がどうなるかを知っているから。王都の市場が荒れ始めたと聞くだけで、あの頃のざらついた感覚が少し蘇る。並ぶ人々の険しい顔、遅れる配給、広がる噂、弱い者から削れていく暮らし。もう見たくないな、と本気で思う。
だからこそ、座っているだけではいられなかった。
「……俺も行く」
気づいたらそう言っていた。
セラフィナの動きが止まる。ヴァルトもこちらを見る。監察官は目を見開いた。
「陛下」
セラフィナの声は低かった。
「お気持ちは理解いたしますが」
「理解してるなら、わかるだろ。こういうのは、数字のうちに止めなきゃまずい」
「それと陛下ご自身が現場へ赴くべきかは別問題です」
「別問題なのはわかる」
わかる。わかるんだけど、それでも行きたいと思った。いや、“行きたい”というより“見ておきたい”に近い。机の上で価格表を見て、対策案をなぞって、それで終わらせるには、飯の問題ってもっと生々しいから。
「正式に顔を出すつもりはない」
俺は言葉を選んだ。
「混乱の真ん中へ魔王が出たら余計に面倒になる。そこはわかってる。でも、少なくとも近いところまでは見たい」
セラフィナは黙ったまま、俺を見ていた。
その沈黙が長い。たぶん、反対したいのだろう。宰相としては当然だ。治安の荒れた市場へ、正体を隠しているとはいえ魔王を近づけるのは常識的に考えて悪手だ。しかも相手はただの暴徒ではなく、背後に商人ギルドや地方勢力の思惑が絡んでいる可能性まである。
それでも、彼女は最終的にゆっくりと言った。
「では、条件をつけます」
「聞こう」
「陛下単独では動かれないこと。護衛は最低限、しかし確実に。正体露見の危険が生じた場合、即時撤収。現場介入は原則として監察官と治安隊に委ね、陛下は観察を優先すること」
「……監察官と治安隊に委ねる、までは守る努力をする」
「努力ではなく、守ってくださいませ」
そこは本気の声だった。
俺は少しだけ笑って、ごまかしではなく頷いた。
「わかった」
たぶん完全には納得していないのだろう。それでもセラフィナはこれ以上反対せず、すぐに指示の方向を切り替えた。
「ヴァルト、表向きは備蓄庫視察の準備を。護衛は影班より二名、監察局との連携役一名。陛下の外見調整は簡易で構いませんが、威圧感だけは確実に落としてください」
「承知」
威圧感だけは確実に落としてください、っていう注文もなかなかすごいなと思う。俺ってそんなに威圧感あるのか。いや、魔王だしあるんだろうけど、本人の感覚が庶民寄りだからそのへんの自覚が薄い。
監察官が退室したあと、俺は短く息を吐いた。
王都の食糧価格高騰。原因は流通の滞り、商人ギルドの買い占め、地方豪族の囲い込み、人間圏との緊張による輸入停滞。その全部が絡み合い、いま市場ではもう小さな衝突が起き始めている。
これはまだ始まりに過ぎないのだろう。
けれど始まりだからこそ、ここで何をするかが大きい。
俺は机の上の価格表をもう一度見た。数字はただの数字だ。けれどその向こうには、今日の飯代を計算して頭を抱える誰かがいる。列に並んで、買えるかどうかを気にしている誰かがいる。子どもへ食わせる分を確保したくて、値上がりに舌打ちしている誰かがいる。
それを想像すると、どうしても座ったままではいられなかった。
平和って、青空の綺麗さだけじゃできないんだよな。
飯が買えて、今日も食べられると思えること。
その当たり前が崩れた瞬間から、世界は少しずつ荒れていく。
なら、ここは見過ごせない。
見過ごしたくない。
そんなふうに思いながら、俺はこれから向かうことになる王都第三市場の名を頭のなかで静かに繰り返した。




