第9話 世界征服とかいう物騒ワードの中身を、そろそろちゃんと確認しておきたい
◇ ◇ ◇
……はあ。
マジでやること多すぎてやばくね?
心の底からそう思ったのは、その日の午後、俺の机の上へ新たに積まれた書類の山が午前中の“最低限”よりも明らかに高くなっていることに気づいた瞬間だった。いや、増えるだろうなとは思っていた。魔王城だし。大陸の中枢だし。妃も子どもも配下も多いし、外には人間圏との緊張やら大陸間の思惑やらが渦巻いている。何も問題が起きない日のほうが珍しいのかもしれない。頭では理解している。
理解はしているのだが、それと心が納得するかは別問題である。
「どうして午前中より増えてるんだ……」
俺が書類の束を見つめながら呟くと、セラフィナは実に穏やかな顔で答えた。
「午後になったからでございます」
「説明としては合ってる気がするのに何もわからないな」
「午前のうちに上がった報告が、午後の決裁待ちへ回ってきておりますので」
「業務フローの理屈はわかる。でも感情が追いつかない」
セラフィナは特に笑いもしなかった。笑っていいのか迷っているのか、本気でそれが当然だと思っているのか、その両方かもしれない。この宰相、本当に感情の表へ出し方が絶妙なんだよな。冷たいわけではないのだが、魔王城の実務に対する適応力が高すぎて、こちらの常識的な疲労感がたまに幼児の駄々みたいに見えてくるのが困る。
机の端には、王都の住区再編に関する概略案、南部沿岸部の交易記録、王家子弟の教育方針見直しについての補足資料、内廷予算の調整表、各妃の居所と随伴人員の最新更新表、さらに“陛下の今後一週間の公務候補案”という、見ただけで寝込みたくなる名前の紙まで置かれていた。
なんなんだろうな、この世界。
草原の上で青空を見上げて、「今度こそ平和にのんびり暮らしたい」と思っていた数日前の俺にこの机の現状を見せたら、たぶんその場で転生を一回断ろうとする気がする。断れないんだけど。すでに来ちゃってるんだけど。
しかも困ることに、やるべきことの大半が“やったほうがいい内容”なのだ。王都の住環境が悪いなら改善したい。食糧や流通に偏りがあるなら見直したい。子どもたちが二十メートル級の獣を相手に教育されているなら、その安全管理を考えたい。全部方向性としては俺の望む“平和でまともな暮らし”につながっている。つながっているからこそ投げ出しにくいという悪循環である。
「陛下」
セラフィナが一枚の報告書を差し出してくる。
「こちらは西部工業圏よりの追加分です」
「うん」
「こちらは内廷局から」
「うん」
「こちらは外事府より参考資料として」
「うん……」
返事がだんだん虚ろになる。前世でも書類仕事がゼロだったわけではない。終末世界だって、配給記録や機器管理表や避難区画の更新ログくらいはあった。ただ、それらはもっとこう、命綱に直結した最低限の現実だった。こっちの書類は命綱にも直結しているうえに、文化と政治と家族と軍と経済が全部混線している。しかも一つ一つの項目が単独で完結してくれればまだいいものを、どこかしら別の書類と繋がっていて、下手に一箇所いじれば芋づる式に影響が波及する構造になっているせいで、軽い気持ちで目を通すことすら許されない。
俺はひとまず一番上の紙へ目を通し、途中でそっと置いた。
「なあ」
「はい」
「俺、本当に今これ全部やる必要あるか?」
「全部ではございません」
少し希望が見えた。
「本日中にお目通しいただきたいのは、そのうち三割ほどです」
希望が消えた。
「三割でも多いな」
「残りは明日以降へ振り分けられます」
「明日以降の俺がかわいそうになってきた」
「未来の陛下へおかれましては、きっとお喜びになります」
「絶対ならない」
こういう軽口を挟まないと、たぶん心が乾く。セラフィナもそこはある程度わかっているのかもしれない。会話が無駄だとは切らないし、必要があれば付き合ってくれる。付き合ったうえで書類は減らしてくれないけれど。
しばらく黙々と報告書を読んでいたが、頭のどこかではずっと別のことが引っかかっていた。
ルルデス・オルディナーク。
先日知ったその名と、その人生の断片。人間の国に仕える騎士だった青年。穏やかな性格。魔族の保護。グロウゼリアの崩壊。逃亡と旅。楽園を探す道のり。黒曜大陸の統一。
そこまで聞くとたしかに壮大な人生だなと思う。魔族の長として背負ってきたものの重さも、俺みたいなたかだか二十数年の人生しか持たない一般庶民にはとても測りきれない。その積み重ねの先にどんな選択があったとしても、軽々しく否定できるようなものではないのだろうと理解はしているし、むしろ安易に断じるほうが無責任ですらあるのだと思う。
それでもどうしても引っかかる点が一つあった。
世界征服である。
いや、言葉が強すぎるだろうと。
魔族の楽園を作りたい。魔族が魔族のまま生きられる場所を確保したい。そこまではわかる。わかるし、むしろその願い自体は俺の平和志向とだいぶ近いところにある気もする。けれどその先でなぜ“世界征服”なんて発想へ至るのかが、いまだにしっくりこなかった。
それなりに深い考えがないと、そんな計画を立てようとは思わないはずだ。
支配欲だけで動くには大きすぎる。言葉の規模が。世界だぞ、世界。畑や住環境の改善とはわけが違う。大陸一つをまとめるだけでも頭が痛いのに、そのさらに外まで視野を広げて“全部こちらの手へ”という発想になるには、相当な理由がいる。
俺は報告書から顔を上げた。
「なあ、セラフィナ」
彼女はすぐに反応した。
「はい」
「なんで俺……っていうか、ルルデスって、世界征服なんてしようと思ったんだ?」
不意に聞いてしまった、という表現が近いかもしれない。順番を踏んで丁寧に訊ねるつもりだったわけではない。書類の山に埋もれ、ルルデスの人生を少し知り、そのうえでどうしてもそこだけが引っかかって気づいたら口から出ていた。
セラフィナはすぐには答えなかった。
ほんの少し、困ったような顔をした。
それが珍しくて、俺は思わずまじまじと彼女を見てしまった。この人でもそういう表情をするんだな、と。宰相として有能で、たいていのことには即答できて、俺の雑な願いすら大陸規模の計画へ翻訳してしまうこの人が、“答えにくい質問をされた”顔をしている。
「難しい問いでございます」
やがて彼女は静かに言った。
「そうだろうな」
「明確な答えを、私が持っているとは申し上げられません」
「本人じゃないから、ってことか」
「はい。けれど、陛下……ルルデス様が、よく口にしておられたことならございます」
そう言って彼女は一枚の書類を閉じ、手元で指を組んだ。これはつまり、いまからする話は“実務報告”ではなく、“個人的な記憶を含む証言”に近いものなのだろう。
俺は姿勢を少し正した。
「聞きたい」
セラフィナは窓の外へちらりと目を向け、それから話し始めた。
「ルルデス様は、もともと人間と敵対することを望んでおられませんでした」
その一言は、予想していたよりずっとまっすぐに胸へ入ってきた。
「魔族が迫害され、追われ、居場所を失った後もなお、最後まで“共に生きる道”を探しておられたと私は考えております」
「やっぱり、そうだったのか」
「はい。少なくとも、私が知る限りでは」
セラフィナの声は静かだ。静かなぶん、その内容が余計に重く感じる。
「ルルデス様はよく、“魔族が魔族として生きられるだけの時間を作らねばならない”とおっしゃっていました」
「時間」
「はい。場所だけでは足りない、と」
その表現が気になった。
「場所だけじゃ足りないっていうのは?」
「たとえ一時の安住の地を得たとしても、明日には奪われるかもしれない。来年には排斥されるかもしれない。十年後には次の世代がまた追われるかもしれない。そうであれば、それは真の意味での楽園ではない。魔族が魔族であることを理由に否定されず、どこにいても生きる権利を持てるだけの“時間”を世界の中へ確保しなければならない、と」
その発想は、妙に納得できた。
場所を守るだけでは足りない。追われない未来まで含めて作らないと、平和とは言えない。前世の俺が欲しかった“明日が続く世界”という願いとも、どこか似ている。
「そのためには、人間たちと共に生きる術を見つける必要がある、とも」
セラフィナは続ける。
「魔族の側がただ隠れて生き延びるだけでは、いずれ限界が来る。種族としての価値と意味を、世の中へ示さなければならない。恐れられるだけでも、利用されるだけでも駄目だと」
「価値と意味、か」
「はい。魔族が何を作れるのか。何を守れるのか。何を支えられるのか。なぜ生きるに値するのか。それを示す努力を、長く続けておられたように思います」
そこまで聞くと、ルルデスの姿がますます単純な魔王像から遠ざかっていく。
世界征服を企む巨悪というより、むしろ世界へ居場所を交渉し続けた人間に近い。もちろんその交渉の過程で武力も使っただろうし、実際に黒曜大陸を統一した以上、敵を倒し、従わせ、血を流したことは否定できないだろう。それでもその出発点が“共生の道を探すこと”だったというのは、プロセスとしてはかなり重要だ。
「じゃあどうして結局、人間と敵対する形になったんだ?」
それが一番知りたかった。
セラフィナはわずかに眉を寄せる。
「そこが、私にも断言できぬ部分です」
「……わからないのか」
「はい」
彼女は素直にそう言った。
「いくつもの理由が重なっているのだと思います。裏切り。交渉の失敗。人間側の政治的都合。過去の虐殺への報復を望む者たちの声。黒曜大陸内での強硬派の台頭。あるいは、ルルデス様ご自身のなかで、何か決定的に諦められたものがあったのかもしれません」
そのどれもが、ありそうだった。
長い時間をかけて理想を追い、何度も手を伸ばし、そのたびに踏みにじられれば人は変わる。変わるか、あるいは最初から抱いていた優しさを深く沈めて、より大きな何かへ賭けるのかもしれない。
「ただ、一つだけ」
セラフィナが言う。
「確信を持って申し上げられることがございます」
俺は彼女を見る。
「ルルデス様は、単に世界を手に入れたいから戦の準備を整えておられるのではない、ということです」
その言葉は、予想していたよりもずっと真剣な響きを帯びていた。
「その先にある未来へ、一縷の望みを託しておられるように私には見えておりました」
一縷の望み。
その表現に、俺はしばらく黙った。
世界征服という大仰な言葉の先に、望みがある。しかもそれは単なる支配欲の達成ではない。もっと別の、未来に関わる何か。
「具体的には、どんな未来だと思う?」
俺が尋ねると、セラフィナは少し考え込んだ。
「……人間たちが、もはや魔族を追えぬ世界」
「力でねじ伏せるってことか」
「それも一部でしょう。けれど、それだけでは終わらぬはずです」
彼女はゆっくりと言葉を選ぶ。
「ルルデス様は、“勝つ”ことそのものには、さほど価値を置いておられないように見えたことがございます。勝った後、何を作るか。何を残すか。そこへ意識が向いておられた」
「……それ、俺も少しわかる気がするな」
ぽつりと本音が出た。
人に勝つとか、支配するとか、それ自体はそんなに魅力的じゃない。魅力的じゃないというより、前世の俺からすると“そこまでやって何が残るんだ”という感覚のほうが強かった。生きるために必要なのは平穏に暮らせる基盤だ。青空の下で風を浴びて、温かい飯を食って、子どもたちが安心して笑っていられること。ルルデスが言う“一縷の望み”も、もしかするとその延長線上にあるのかもしれない。
もちろん、そこへ至る手段が“世界征服”なのかという点は、いまだにだいぶ怪しいと思っているが。もっと穏当なやり方があるならそっちを選びたい。……ただ、この世界の歴史と構造を聞けば聞くほど、“穏当なやり方”がどれほど簡単に踏みにじられるかもわかってくるけど。
難しい。
本当に難しい。
セラフィナはさらに、ルルデスが時折口にしていたという言葉をいくつか教えてくれた。
“誰かの許しのもとにある平穏は、平穏ではない”。
“共生は願うものではなく、成立させるものだ”。
“魔族が必要とされるのではなく、魔族であることを否定されない世界を作らねばならぬ”。
そのどれもが、すぐに飲み込めるほど軽い言葉ではなかった。長い時間追われ、拒まれ、交渉し、守ろうとしてきた者の重さがあった。
「……ルルデスって、思ってたよりずっと面倒くさい理想主義者だったんだな」
俺が半ば呆れたように言うと、セラフィナはほんの少しだけ、笑ったように見えた。
「はい」
即答だった。
「非常に」
「そこ即答するんだ」
「ええ。途方もなく大きな理想を抱き、そのために現実を一つずつ積み上げていくお方でした」
「それってすごいんだろうけど、一緒に働く側は大変そうだな」
「大変でした」
また即答だった。そこには妙な親しみがあって、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
やっぱりこの宰相、ルルデスへ忠誠を誓ってはいても、盲目的ではないのだろう。理想の大きさと現実の面倒くささ、その両方を見てきた者の言い方だった。
俺は椅子の背へ寄りかかり、天井を見上げた。
魔王ルルデス・オルディナーク。帝国の騎士だった男。魔族の保護者。旅の先導者。黒曜大陸の統一者。理想主義者。世界征服を準備する魔王。
その輪郭は、話を聞くほど単純ではなくなっていく。
前世の俺なら、もっと簡単な敵役だと思っていたかもしれない。権力を欲しがる強者、世界を手に入れたがる暴君、そういうわかりやすい図式のほうが頭へ入りやすいからだ。けれど実際は、そのどれだけでもなかった。
世界征服という言葉の後ろに、居場所を奪われた種族の未来がぶら下がっている。
そう考えると、軽々しく否定も肯定もできない。
「なあ」
俺はもう一度セラフィナへ尋ねた。
「お前は、どう思ってる?」
「何についてでしょう」
「ルルデスのやろうとしてたこと。世界征服でも、共生でも、その先の未来でもいい」
セラフィナは少し長く黙った。
その沈黙は、答えを避けているというより、自分の中で何をどこまで言うかを整理しているように見えた。
「私は」
やがて彼女は、静かに口を開く。
「ルルデス様が望まれた未来そのものは、間違っていないと思っております」
「未来そのものは」
「はい。魔族が魔族であることを理由に追われず、虐げられず、人間とも他種族とも、必要以上に奪い合わずに済む世界。それ自体は、願うに値する」
「じゃあ、手段のほうは?」
「そこは……」
彼女はほんの少しだけ視線を伏せた。
「長い年月と多くの死を経て、ルルデス様ご自身の中でも、当初の理想と現実的な選択が複雑に絡み合ってしまったのではないかと」
やっぱりそうか、と思う。
理想だけでは守れない。現実だけでは未来がない。そのあいだで積み重なったものが、いまの魔王城と黒曜大陸なのだろう。
そして俺は今、その途中へ投げ込まれている。
なんというか、だいぶ難易度が高いな。
「……正直、荷が重いな」
本音が漏れた。
「わかるよ。ルルデスが何を見てきたのか、何を守ろうとしたのか、少しはわかる気がする。でも、それをそのまま受け継げるかって言われると、自信は全然ない」
セラフィナは俺の言葉を黙って聞いていた。
「俺は元々の記憶がまだ蘇ってないし、この身体に刻まれてるはずの判断基準や価値観だって、いまの俺にはまだ借り物みたいな感覚でしか掴めてない…」
そこまで言って、俺は一度息を吐いた。
「でも、少なくとも“平和に暮らせる未来がほしい”ってところだけは、わりと本気でわかる」
セラフィナの目が、少しだけ揺れた気がした。
「それが畑とか飯とか睡眠とか、そういう形で出てくるのが今の俺らしいのかもしれないけどな」
自分で言って、少し笑ってしまう。壮大な理想の末端が畑と飯と睡眠なの、だいぶ生活感がある。けれど、生活が成り立たない平和なんてただの看板だ。前世でそれを嫌というほど知っている。
セラフィナはゆっくり頷いた。
「陛下らしい、と思います」
「……それ、昔のおれらしいって意味か、今のおれらしいって意味か、どっちだ」
「両方かもしれません」
ずるい答えだなと思った。でも、否定もできない。
しばらく部屋は静かだった。外では王都の音が遠くに聞こえ、窓から差し込む光が書類の端を照らしている。現実は何も止まっていない。報告書は机の上に積まれたままだし、妃や子どもや配下や人間圏との問題も、そのまま待っている。感傷や思索だけで解決することは何一つない。
それでも今この瞬間だけは、少しだけ足場ができた気がした。
世界征服という単語の裏にあるもの。
ルルデスが本当に欲しかったのが、ただの支配ではなくその先の未来だったかもしれないということ。
そこが見えただけでも、前よりはだいぶ違う。
「……よし」
俺は机の上の書類を引き寄せた。
「じゃあ、少なくとも今の俺にできる範囲で、その“未来”に繋がりそうなところからやるか」
セラフィナが目を細める。
「具体的には」
「まず住環境。食糧。子どもの安全。睡眠の確保」
「最後の項目だけ、陛下ご自身の願望が前面に出ておりますが」
「大事だろ。睡眠はすべての判断の土台だぞ」
「反論いたしかねます」
そこは素直に認めるんだな。
なんだかおかしくなって、俺は少しだけ笑った。セラフィナもほんのわずかに口元を和らげた気がする。気のせいではないと思いたい。
世界は広い。問題は多い。ルルデスが本当に何を考えていたか、そのすべてを知ることはたぶんできない。本人にしかわからないことだってある。あるけれど、少なくとも一つだけ確かなのは、あの魔王がたんに世界を欲しがっていたわけではない、ということだ。
その先にある未来へ、一縷の望みを託していた。
なら俺は俺のやり方で、その望みの輪郭くらいは探っていけばいい。
世界征服は、まだぜんぜん納得していないけどな。
そこだけはしっかり心の中で付け加えながら、俺は王都住区の改善案と書かれた紙へ、ようやく本腰を入れて目を通し始めた。




