表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

ゼチュール王国

君だけの呼び名

作者: 章槻雅希

いつも誤字報告有難うございます。ただ、一点だけお願いがあります。誤字報告は報告すればそのまま適用が可能です。が、誤字以外の情報があると一旦却下して修正しないといけません。なので、お心遣いかとは思いますが、誤字以外の情報(~ではないですか? ~だと思います、など)は書かないでくださると助かります。

 王立クログオブシーニャ学院の全ての授業が終わり、生徒たちが帰路についているその頃、貴族のみの学園には似つかわしくないバタバタと小走りに駆ける足音が馬車停まりに続く道に響いた。


「アーリャ様ぁ」


 背後から聞こえた甘ったるい声にアーリャ──アリスタルフ・ヴァシーリエヴィチ・フィリモーノは心の中で溜息をついた。そしてそんなことはおくびにも出さず、まるで愛おしい者を見るかのような表情で声の主を振り返った。


 そこにいるのは愛らしい容姿をした小柄で華奢な体躯の少女だった。領地では一番の美少女だと言われていると恥ずかしそうに、しかし自慢であることを隠しきれずに言ってきたことがある。それがヤーロフ男爵家令嬢カリーナ・パーヴロヴナ・ヤーロヴァという田舎の小領主の娘である彼女だった。


「どうしたんだい、カリーナ」


 優し気な笑顔を貼り付けてアリスタルフが問えば、先ほどまでの輝かんばかりの笑顔を曇らせて、カリーナは俯く。


「あのぉ……グラフィルカ様がぁ……」


 何を、とははっきりと言わない。けれど、背後から友人──カリーナに言わせれば取り巻き──たちと共に近づいてくる少女を怯えたようにチラチラと見る。如何にも何かありました、怯えていますと見え見えの態度だ。


「フィールシュカか」


 自分の許に来て立礼する少女にアリスタルフは声をかける。少女たちはその声を合図に顔を上げる。銀髪蒼瞳の凛とした美しい顔立ちの少女──アリスタルフの婚約者であるシェレメチェフ公爵令嬢グラフィラ・ドロフェエヴナ・シェレメチェヴァである。


「リスターシュカ殿下、執行部の会議がまもなく始まりますわ。執行部室へご一緒してもよろしいでしょうか」


 アリスタルフの腕に絡みついているカリーナを一瞥もせず、グラフィラはアリスタルフにのみ話しかける。この学院の生徒会執行部は王族と高位貴族、中位・下位貴族の成績優秀者で構成されている。王族と高位貴族は疑似的な統治を学ぶため、成績優秀者は将来の実務担当者として高位貴族と関係を結ぶためにそのような構成になっている。アリスタルフは将来大公位を授かり兄である次期国王を支える第二王子であるため、生徒会長として執行部に所属しているのだ。


「えー! アーリャ様ぁ。今日はカリーナと一緒に街のカフェに行く約束ですよぉ」


 王子と公爵令嬢という遥かに身分の高い者たち、しかも婚約者同士の会話に無遠慮にカリーナは割って入る。男爵家の娘の無礼さに周囲にいたアリスタルフの側近もグラフィラの友人も眉を顰める。アリスタルフが多少横暴さを持つ王子であればその場で首を刎ねられかねない無礼であり不敬だった。


 しかし、アリスタルフはそれを許した。不本意ながらも。


「ああ、そうだったね、カリーナ。そういうわけだから、フィールシュカとトーシャで進めておいてくれるかい」


 アリスタルフは自分の側近の一人ハレヴィンスキー公爵令息ハリトーンに告げると、カリーナを伴って踵を返し去っていった。


 その背を見送る側近と友人たちの反応は二つに分かれていた。穏やかに見送りつつも何処か気遣わし気な眼差しを向ける者と、王子の腕に殆ど平坦な胸を押し付けるように抱き着く無礼な娘と婚約者を蔑ろにする王子へ軽蔑の眼差しを向ける者とに。


 グラフィラや側近の高位貴族令息は前者であり、伯爵家(中位貴族)以下の友人や周囲の観衆は後者だった。高位貴族の子女と伯爵家以下の子女では知らされてる『暗黙の了解』が異なっているための反応だった。








 グラフィラたちと分かれたアリスタフルは腕にしがみつくカリーナを不快に思いつつも表面上は恋人の顔で、それでもカリーナに苦言を呈した。


「カリーナ、グラフィラのことをグラフィルカと呼んではいけない。シェレメチェフ公爵令嬢かシェレメチェヴァ様と呼ぶんだ。君はグラフィラの友人でも家族でもないんだからね」


「えー、でもぉ、取り巻きはそう呼んでますよぉ。だったらぁ、あたしがそう呼んでもいいと思うんだけどぉ」


 アリスタルフはカリーナの勝手な言い分に頭が痛くなりつつも、それでも訂正した。カリーナのためではない。フィールシュカやその大切な友人たちが不快な思いをしないためにである。


「グラフィルカは特に親しい友人たちだけが呼べる名だよ。君は違うだろう。男爵令嬢が公爵令嬢の名前を勝手に呼んだら不敬罪に問われることもあるんだ。グラフィラの温情に感謝しないとね」


「はぁい」


 カリーナは不満げに返事をする。王国は身分制度に厳しい。男爵令嬢でしかない自分が公爵令嬢のグラフィラに目を付けられたら拙いことは一応カリーナも判っているのだ。だが、どうにでもなるとも思っていた。


(あたしはアーリャの最愛だし~。将来はアーリャの奥さんになって王妃になるんだからグラフィラなんかより身分上になるし~。なんだかんだ言ってもアーリャはあたしのこと優先してくれるから、アイツが文句言ってきても大丈夫!)


 そんな都合のいいことをカリーナは考えていた。王太子はアリスタルフの兄でアリスタルフが王になることはないことにも気付いていない。王子様だから将来の王様! と平民の幼児のような認識しかないのだ。


 折角最終学年の1年間だけとはいえ王立クログオブシーニャ学院に通えるのだ。そこでこの愛らしい容姿の自分に相応しい、美しくて格好良くて身分の高いお金持ちの婚約者を捕まえるのだ。そう決意してカリーナはこの学園で過ごしている。


 王立クログオブシーニャ学院は国内の貴族の子女が13歳から16歳の社交界デビューまで学ぶための学院である。卒業祝賀会が彼らの社交界デビューとなる。つまりこの学院は貴族の子女が社交を学ぶための学院であり、所謂学問と呼ばれるものを学ぶ場ではない。学問は初等・中等教育は各家庭で、高等教育は国立翰林院で17歳から19歳の3年間で学ぶことになる。


 社交を学ぶための学院であるから、当然身分には厳しい。国外の王侯貴族との交流を持ち外交を担うこともある王族と高位貴族(公爵家と侯爵家)、高位貴族の補佐をする中位貴族(伯爵家)と高位貴族の臣下である下位貴族(子爵家と男爵家)、小さな領地経営のみしか行えない下位貴族(子爵家と男爵家)でクラスは分かれる。当然カリキュラムも異なる。


 とはいえ、学院は小さな社交場であり、プレ社交界でもある。大人の社交界では同席することのない高位貴族と下位貴族が接することの出来る稀少な機会でもある。


 そうすると、一部のお花畑な夢見る夢子ちゃんは、非現実的な自分に都合のいい夢を見たりするのだ。そう、カリーナのように。


 カリーナは王国の北部のド田舎に小さな領地を持つ男爵家の末っ子だ。領地は村が5つほどの小さなもので、人間よりも家畜のほうが多いような長閑な領地だった。そこで末っ子長女として生まれ、兄たちとは歳が離れていることもあり、盛大に甘やかされ可愛がられて育った。王城で下級官吏をしている次兄から王都で人気のロマンス小説を送ってもらい、いつかきっと私だけの素適な王子様が迎えに来てくれるわと夢見ていた。


 カリーナは確かに可愛らしい容姿をしている。ふわふわと波打つストロベリーブロンドの髪は肩を覆う長さで、鮮やかな若葉色の瞳はくりくりとして大きく、小さくツンと上を向いた鼻も艶やかな唇も愛らしい。小柄で華奢な体は女性的魅力には乏しいが庇護欲をそそる。間違いなく、領地では一番の美少女だ。


 家族や使用人に蝶よ花よと愛でられたカリーナは自己肯定感が強く、私は誰からも愛されるお姫様だと思って育った。そしてそのまま王都の学院へと入学することになった。但し、あまり裕福ではないヤーロフ男爵家では3年間王都の学院に通わせることは出来なかったので、最終学年の1年間だけ通うことになった。地方貴族や下位貴族には最後の1年だけ通わせる家も少なくないので特別なことではなかった。学院側でも1年間しか通えない学生用のカリキュラムも用意しているくらいだ。


 そして、カリーナはその学院で彼女にとっては運命の出会いを果たす。相手にとってもある意味運命の出会いではあったが。


「ね、そんなことより、あたし、髪飾りが欲しいなぁ。グラフィラ様……シェレメチェヴァ様がしてたの素敵だった。綺麗な緑の宝石ついてて、金色に輝いてて。ああいうの、あたしも欲しい!」


 べったりと腕に抱き着き、はしたないお強請(ねだ)りをするカリーナにうんざりとしながらも、これは切っ掛けになるとアリスタルフは一瞬だけ背後に視線を向けた。なお、カリーナが素敵だといった髪飾りは昨年の誕生日にアリスタルフが贈ったものだ。金髪碧眼の自分の色に合わせて。因みにお返しの今年の自分の誕生日には銀地に蒼玉をあしらったポニーフックが贈られており、カリーナと関わる以前は毎日のように自分の長い髪を纏めるのに使っていた。


「そうか。でも、カリーナも素敵なアクセサリーをたくさん持っているよね。この髪飾りも綺麗だし」


 とても男爵家で賄えるとは思えない、大粒のルビーを中心に小粒とはいえいくつものダイヤモンドも配されている。宝石の質はさほど良くないとはいえ男爵位には贅沢な品だ。カリーナの実家ヤーロフ男爵家はどちらかといえば貧しい領地のはずだが、ここ最近妙に羽振りがいい。


「あー、お兄様たちが買ってくれるの。ヴァロイ兄様とトゥリーティ兄様とチェティリー兄様は王都にいるから。皆あたしのことすっごく可愛がってるから、色々買ってくれるんだー」


 カリーナには4人の兄がおり、長男のスターシンは領地で父男爵の補佐、次男ヴァロイは王城の下級官吏、三男のトゥリーティは国軍の下級兵士、四男のチェティリーは王都の大商会の手代だ。これまでの会話から、カリーナは3人の兄がとても優秀だと思っているようだが、実際のところは然程大きな仕事を任されることもなく、給料分の仕事が出来ているか微妙なところのようだ。つまり、有力貴族や軍人、商人との繋がりは皆無だ。


 では何故カリーナは3人の兄を有能だと思っているのか。当然兄たちが見栄を張っているというのもあるが、3人はその職能の割には羽振りがいいのである。ほぼ平民となっている彼らが溺愛する妹に男爵家相応のドレスや宝飾品を贈れる程度には金回りがいい。しかし、彼らの実際の給与では妹に贈り物をする余裕などないはずだった。その証拠に彼らは適齢期を過ぎても結婚できず、家賃の安い官舎や使用人寮で暮らしている。


 アリスタルフは表面上は笑みを浮かべ、カリーナの話を聞いている。時折挟む相槌にカリーナはアリスタルフが自分に興味を持ちもっと知りたいのだと思い、領地のことや兄たちのことをペラペラと話す。尤も、高価なドレスやアクセサリーといった贈り物をしてもらいたいという欲もあり、カリーナとしては巧妙に、アリスタルフからは見え見えなお強請(ねだ)りをしていく。尤もカリーナがアリスタルフに侍るようになって2か月、一度も贈り物を貰ったことはないのだが。








 グラフィラが王都別邸(タウンハウス)の中庭で午後のお茶を楽しんでいると、先触れもなく来客があった。本来先触れのない相手はどんな身分であれ屋敷内に通されることはないのだが、ここ2か月ほどの彼は例外だ。


「フィールシュカ!」


 やって来たのはアリスタルフである。何処か疲れたような表情でグラフィラに抱き着く。


「まぁ、リスターシュカ様、お疲れでいらっしゃいますわね」


 滅多にない婚約者からの抱擁にグラフィラは婚約者の精神的疲労を感じ取る。


「ああ、でも、漸く終わった! これであの不愉快な阿婆擦れとは関わらずに済む」


 一頻り婚約者に癒されると、アリスタルフは勧められるままカウチに腰かけた。婚約者というよりも親密な恋人の距離でグラフィラの腰を抱いて横に座らせる。物心ついた時には婚約していた政略によって結ばれた婚約者ではあるが、2人は実に仲睦まじい相思相愛の恋人でもある。王族のアリスタルフが格式張った場でなければ愛称を呼ぶのを許すほどに。本当は殿下という敬称すら付けなくていいと言ったのだが、そこは婚約者とはいえ臣下だからとグラフィラが主張したので、人前では敬称付きだ。


「ヤーロフ男爵家の3人の息子はそれぞれ捕縛されたよ。本人たちにその気はなかったとはいえ、国家反逆罪になりかねないものだったからね。3人は処刑、男爵家は取り潰しになる。男爵家そのものは全く関わっていなかったけれど、3人のバカ息子の罪が重いから、仕方がない」


 溜息交じりにアリスタルフは言う。それを労うようにグラフィラは彼に寄り添った。


 今回の発端は国家機密とは言わないまでも他国に知られたらちょっと嫌だなぁという程度の微妙な情報の漏洩が発覚したことだ。外交の場で外交官がちょっと恥ずかしい思いをする程度のことではあるが、積み重なれば『ちょっとした恥』などとは言っていられない。その他にも各貴族家のちょっとした醜聞なども他国に漏れていた。


 一つ一つの情報は大したことではない。しかし、塵も積もればなんとやらである。それを重く見た王太子の指示で調査が行われ、末端にいたのがヤーロフ男爵家の三兄弟だった。背後関係を調べる間にアリスタルフに課されたのがカリーナの相手である。カリーナが情報を持っているとは思えないが、三兄弟への人質の意味もあった。或いは三兄弟が妹が王子の寵愛を受けていると思い図に乗ることも期待された。


 妹が王族にがっちり捕まっている意味も判らず、人質などと思いもよらず、妹の恋愛脳内お花畑な話を信じ込んだ三兄弟は調子に乗ってしまった。元々相手側が巧妙で尻尾を掴ませなかっただけで、三兄弟はただ知ったことをべらべらと喋っただけではあるが。


 三兄弟の背後に国内の貴族や軍人、商家の影がないことが判明し、捜査機関は三人の捕縛に動いた。そして、単に金に困っていた商人の四男に他国の間諜が王城内・軍部・貴族家の面白可笑しい醜聞を買うと持ちかけていたことが判った。四男は王城に勤める次男と軍部に所属する三男と共に見聞きしたことを間諜に伝えていたに過ぎない。


 ただ、その間諜からの指示(三兄弟は助言だと思っていた)により上司に取り入り、高位貴族との繋がりを持ち、より重要な情報を得ようと考えていたらしい。なお、その他国の間諜には間一髪逃げられてしまった。ここからは外交担当の腕の見せ所になる。


 指揮を執っていた王太子は『随分迂遠な策を取ったな』と笑っていたが、高度な情報に接する高位貴族や高官は契約魔法によってガチガチの守秘義務に縛られているため、下位貴族を使って何処までならば情報を抜けるのかを探ってもいたのだろう。


「カリーナさんはどうなりますの?」


「彼女は離縁した母と一緒に母の実家の男爵家に戻って、伯父夫婦の養子となったよ。学院卒業までは貴族としての身分を保ち、その後は彼女次第だそうだ」


 間抜けな三兄弟の被害者でもある実家には多少の温情措置が取られ、取り潰し前に離縁が認められ、男爵夫人と娘のカリーナは母方に引き取られた。尤も母親はすぐに付き合いのある伯爵家へメイドとして奉公に出ることになり、カリーナは伯父夫婦の養子となった。伯父夫婦には娘がいなかったこともあり、伯父たちの家に都合のいいところへの嫁出し要員といったところだろう。なお、父と長兄は平民となった後、新たな領主のもとで領政官となるらしい。


「では、学院にはまだ通われるのですね。色々と大変でしょうから、気に掛けておきますわ」


「ああ、そうしてくれると有難いよ。優しいねフィールシュカは」


 そう言って恋人たちは微笑みあう。だが、二人とも解っている。『気に掛ける』というのは別に保護するという意味ではないのだと。








 王城では準国家反逆罪に当たる犯罪の後始末に追われていたが、学院は変わりなく運営されていた。数家の下位貴族のごたごたはあったが、学院全体は普段と変わらぬ時が流れていた。


 そんなごたごたがあった家の代表格であるヤーロフ男爵家のカリーナはシゾフ男爵令嬢カリーナとして変わらず学院に在籍していた。兄たちの逮捕を受けて数日休んだものの、漸く養父となった伯父から許可が下り学院へとやってきたのだ。


 学院に戻ってこれまでどおりに過ごせると思っていた。概ねそうではあった。ただ、唯一変わったことがある。愛しいアーリャに会えなくなったのだ。早く会って慰めてほしい。溺愛してくれていた三人の兄を失ったのだ。可哀想なあたしをアーリャは甘く優しく慰めてくれるはずだ。そんな都合のいい夢をカリーナは見ていたのに。


 これまではアリスタルフがカリーナの教室に頻繁に訪れてくれて、昼食を共にし放課後には一緒に出掛けた。なのに、今日はアリスタルフは昼休みになるまで一度もカリーナを訪れてくれない。登校時に馬車停まりで待っていて、顔を合わせたのだから、カリーナが復学したことは知っているはずだ。いや、考えれば朝から可笑しかった。アリスタルフは政略で結ばれた不本意で嫌っている婚約者(グラフィラ)と同じ馬車で登校してきた。これまでならカリーナの姿を見れば柔らかな笑みを浮かべて授業が始まるまでの僅かな時間もカフェテリアで過ごしてくれた。なのに、今日はカリーナに気付いたはずなのに声もかけてくれず婚約者と去ってしまった。


 きっと嫉妬深い婚約者が身分に物を言わせてあたしのアーリャを縛りつけてるんだとカリーナは思い込んだ。アーリャを取り戻さなきゃと、昼休みになるとカリーナはいつも共に過ごした中庭のガゼボへと向かった。しかし、そこにアリスタルフはいなかった。いつもならここで待っていてくれたのに。


 カリーナは次に食堂へと向かった。そして、テラス席にアリスタルフを見つけた。今まで見たどの微笑みよりも優しい表情でアリスタルフはそこにいた。有り得ないことにグラフィラが同席している。不本意で嫌っている婚約者に何故そんな笑顔を見せるのかカリーナは理解できず、二人の元へと突撃した。


 護衛も担っている級友のアブディエフ侯爵令息ボリスラーフがカリーナを止めようとしたが、それを片手をあげてアリスタルフが制する。


「何やら私に話があるようだからね。まぁ、事情も事情だし、今日は大目にみてやろう」


 護衛対象にそう言われてしまえばボリスラーフとしても従うしかない。しかし、直ぐに動けるように警戒は解かず、アリスタルフに了解の意を示した。


「なんで! どうして!? アーリャ様、どうしてそんなヤツと一緒にいるの!」


 カリーナの言葉に、アリスタルフは不思議そうに首を傾げる。


「どうしてって、婚約者なんだから当然だろう? これまで時間が取れなかったからね。これからは今まで通り共に過ごすことが出来るようになっただけだよ」


 カリーナが休んでいる間も二人は常に共に過ごしていた。その光景に高位貴族の生徒は漸く任務が終わったのだと理解し、下位貴族の生徒は不思議がりつつもカリーナが飽きられたのだろうと判断した。なお、高位貴族の生徒は何の任務だったのかは知らされていないが、捕縛された三人とカリーナの関係から凡その想像はついていた。


「そんなのおかしい! だって、アーリャ様はそいつのこと嫌いでしょう!? あたしのこと溺愛してくれてるじゃない! それにそいつはあたしに嫉妬して苛めるような醜い女なのよ!」


 カリーナは自分の見た都合のいい夢のままにアリスタルフに主張する。尤もこれまでアリスタルフがカリーナに対して好意を示す言葉は一言も告げていない。役割柄勘違いするような言葉は掛けていたが、恋愛的な好意を示す言葉は一切告げていないのだ。行動では誤解させるようなこともしたが、それでも精々腕を組まれて振り払わない程度のことだ。


「ああ、以前から言っていたね。フィールシュカに苛められているって。なんだっけ、教科書を破られたとか、水を掛けられたとか、閉じ込められたとか、階段から突き落とされたとか」


 カリーナはアリスタルフの気を引くためにありもしない苛めをでっち上げて彼に告げていた。そうすると彼は『私の婚約者が済まないね』と言ってはお詫びにとデートしてくれたのだ。


「そうよ! そいつはあたしを嫉妬で苛めたの! 酷いでしょう? ねぇ、アーリャ様、そんなヤツから離れてあたしと一緒に」


「酷いのは君だよ、シゾフ男爵令嬢」


 これまでカリーナが聞いたこともないような冷たい声でアリスタルフは言った。護衛のボリスラーフもグラフィラの友人で護衛のストゥーリン伯爵令嬢ザミーラもカリーナの無礼さに眉を顰めている。グラフィラだけが穏やかな笑みを浮かべたまま、二人のやり取りを見ていた。


「フィールシュカが君を虐めたというけれど、公爵家の彼女が君を排除したいというならそんな温い手は使わないよ。児戯にも等しい苛めをしたとか、しかもしかもそれが自分や関係者の仕業と解るようにやるとか、高位貴族の令嬢はそんな愚かなことはしない。だって、効果ないじゃないか」


 淡々とアリスタルフは告げる。正直なところカリーナの讒言を聞くたびに(はらわた)が煮えくり返りカリーナを無礼打ちしたくなったほどだった。


「寧ろ君が私に告げ口していたんだ。彼女にとっては悪手でしかないよね。君のほうが得をしてるんじゃないか。フィールシュカの評判を下げて私に近づけき慰めてもらえるのだから」


 確かに一年制課程のクラスではクラスメイトは同情してくれた。他のクラスの下位貴族も同情し、負けないでと声をかけてくれたこともある。けれど、高位貴族からは余計に無視されるようになった。


「フィールシュカが本当に君を邪魔だと思えば、君を見て眉を顰め溜息をつくだけでいい。それだけで子から話を聞いた寄子や分家が動く。そうして君の家は潰されるか、君は原因不明の病にかかって病死するか、うっかり町に一人で出て誘拐されて死体になるか。フィールシュカが関係ないところで、君は消される」


 貴族社会とはそういうものだ。特に高位貴族は。下位貴族に馬鹿にされて放置するわけがない。そんなことをすれば社交界で侮られ、下手をすれば家は衰退する。


「まぁ、その前に王家が君を消すけど。王家と公爵家の契約に男爵家如きが文句をつけるのだから当然だよね。私だって大切なフィールシュカを侮辱されて頭に来てるし」


 アリスタルフはこれまでの鬱憤を晴らすように言わなくてもいいことを言ってしまう。それほどまでにカリーナと過ごすせいでグラフィラと過ごせなかった時間は彼にとって精神的苦痛満載だったのだ。


 そこまで言われてもなお、カリーナは納得しなかった。自分はアーリャの最愛なのだと思い込みたかった。


「だって、アーリャ様はあたしに特別な名で呼ばせてくれたわ! 他の誰も呼ばない名前!」


 世界で唯一自分しか呼ばない名前をくれた。『君にだけ呼ばせる名だよ』そう言ってくれたではないか。


「特別な名ならフィールシュカもそうだね。彼女には愛称を呼んでもらってる。だが君は違う」


 しかし、アリスタルフの返答は冷たいものだった。


「ねぇ、何故、高位貴族ほど君を放置していたか解るかい? 彼らは理解していたんだよ。私が本当に君を寵愛しているわけではないということが。寧ろ君を嫌悪しながらも傍に置く理由があるということがね」


 思いがけないことを言われてカリーナは何も言えなかった。そういえば自分に対して身分を弁えろとか五月蠅く言ってきたのは伯爵位以下の令嬢たちだった。学院は王族・高位貴族(公爵家・侯爵家)と中位貴族(伯爵家と一部の子爵家)と下位貴族(子爵家と男爵家)でクラスが分かれている。制服はないもののクラスが一目で判るようにブローチをつける。だから、自分に文句をつけてきたのは伯爵位以下だと貴族家に詳しくないカリーナでも理解できた。


 そうしてアリスタルフが説明したのはカリーナが全く知らない、王族と高位貴族の暗黙の了解だった。


 この国の王侯貴族には名前ごとに愛称と略称がある。愛称は家族や配偶者・婚約者・恋人といった者が呼ぶ名で、略称は友人が呼ぶ名だ。アリスタルフがグラフィラを『フィールシュカ』と呼ぶのは愛称であり、友人たちが『グラフィルカ』と呼ぶのは略称だ。グラフィラがアリスタルフを『リスターシュカ』と呼ぶのは愛称で、アリスタルフの家族は『アリスターシェニカ』と呼んでいることから、彼女だけに許された愛称である。


 そして略称の中には隔称と言われるものがある。これは王族と高位貴族が持つもので、恋愛的に擦り寄ってくる距離なし異性に呼ばせる名だ。そういう恋愛脳お花畑は勝手に愛称を呼ぼうとするので、『君だけの特別な名前』として隔称を与えるのだ。そうすることで周囲は一方的に言い寄られていて迷惑しているのだと理解する。或いは内密の役目で侍らせているのだと理解するのである。


 そう、『アーリャ』は隔称なのだ。だから、高位貴族ほどカリーナをいない者として扱った。グラフィラは嫉妬すらしなかった。


「そんな……」


 初めから相手にされていなかった。それどころか嫌悪されていたと知って、カリーナはへなへなと(くずお)れた。


「今後は私たちに関わらず、男爵家の娘として相応しい行動をするように。卒業まであと数か月だが、クラスメイトと確りと交流して、卒業後の社交に役立てるとよい」


 最後に王子として告げ、アリスタルフはグラフィラをエスコートして去って行った。








 ゼチュール王国は後に通称『絶許法』で有名になる国だが、それと共に複雑な名前の変化を持つ国でもある。前世の記憶持ちによればロシア語と同じだということだ。姓は男性と女性で語尾が変わり、ミドルネームは父を示す名が入る。これも男性形と女性形がある。更に複雑なのは略称と愛称だ。中にはどう変化したらその略称になるのだというものもあるし、略称のほうが長い名前もある。


 三年前に退位した前王が『絶許法』を制定すると同時に『隔称』を定めた。多種にわたる略称と愛称を利用し、恋愛脳お花畑による距離なし接近への対処と密命遂行、婚約者との関係悪化防止を同時に成立させるために定めたのである。


 因みに王族・公爵家・侯爵家では隔称情報は共有される。高位貴族用の貴族名鑑に略称・愛称・隔称が記載されるのだ。略称や愛称は数種類あるため、それを一つ(愛称は家族用・恋人用の二つ)を記載しておく。そうしないと誰のことを言っているのか判らなくなってしまうという、複雑な名前体系を持つゆえの策でもあった。


 更に因みに政略結婚が殆どの王国において愛称呼びを許可することは愛の告白と同等の意味を持ち、互いに愛称で呼び合う婚約者に割り込もうとする者は軽蔑の対象となるのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
絶許の国でしたか。 カリーナのお花畑具合に震える。もはや近づく人間皆花粉症になる程の咲き乱れぶり。 こんな妹に貢ぐ三兄弟は貧乏でなくても横領してなくても嫁のきてはないと思う。
この王子がカリーナ嬢に名前を呼ばせる度に、彼が「このクソ女」と思ってることを高位貴族達には周知してたってことか。 これは伯爵令嬢、令息クラスの人の立ち位置が試されるなぁ。 侯爵令嬢が伯爵家に嫁入りした…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ