第八話 アークメイジ・カレル
時間は、意味をなさない。
空間もまた、定義を失う。
アークメイジ・カレルにとって、『存在』とは思考そのものであった。
彼の意識は、既に肉体という不便で脆い牢獄の中にはない。彼の魂は、数百年前に彼自身の手によってデータへと変換され、この賢者の塔の心臓部――賢者の心臓と完全に融合していた。
彼は文字通り、塔そのものであった。
彼の思考は、塔の壁を走る『光脈』を光の速さで駆け巡る。彼の感覚は、塔の全階層に設置された幾億もの魔力センサーに接続されている。そのため、この塔の中で起きる全ての事象を、同時にかつ完全に知覚することができた。落下する一粒の塵が持つメタデータさえも、彼は味わうことができた。
魔力の流れは、彼にとって壮大な交響曲の旋律だった。情報の奔流は、彼の意識の海を満たす心地よい潮騒。
数百年。彼は静かで完璧、そして孤独な神の席から、移ろいゆく下界をただ眺め続けてきた。眼下に広がる王都の整然とした魔力グリッドは、彼にとって美しくも退屈な、完璧に管理された苗床のように見える。ソロニスの残した退屈で矮小過ぎる『秩序』が、魔法から魂を奪い、世界を予測可能な陳腐な箱庭へと作り変えていく様を。
彼はかつて魔法が持っていた、あの荒々しい輝きを時折思い出していた。制御不能なマナの嵐が、一夜にして儚い水晶の森を平原に生み出した日のこと。一人の術者が火山の怒りをその身に降ろし、大地そのものの形を永遠に変えてしまった日のこと。危険だが、故に美しかった。生命がその極限で放つ、閃光のような輝きがあった。今の世界には、もはやそれがない。
だが、今日になって。
永遠にも思えたその静寂の交響曲に、初めて魂を震わせるような、美しい不協和音が混じった。
――警告:外部防護結界、座標デルタ-7にて、未登録の論理ゲートによる強制開放を確認。
――警告:侵入者、12名。生体反応、魔力パターン、共に記録データベースに一致。アステリア王国騎士団と推定。
……そして。
――警告:侵入者、1名。生体反応および魔力パターン、記録データベースと一致せず。なお、その行動パターンに、A級レベル以上の術式構造に対する深い理解を確認。分類不能な脅威と認定。
カレルの神のごとき意識が、初めて明確な興味をもって、その一点に焦点を合わせた。
彼は時間を巻き戻し、結界が破られた瞬間の記録データを再生する。
そこに映し出されていたのは、力による破壊ではない。素晴らしくエレガントなハッキングだった。
結界を維持する地下の魔力供給ノードの一つが、偽のシステム・メンテナンス信号によって、自らその機能を一時的に停止させられている。結界そのものを攻撃するのではなく、そのインフラのほんの僅かな仕様上の穴を突く。壁を壊すのではなく、壁を支える土台に、壁自身が不要であると誤認させる。あまりにも自分に似た、思考の型。
「……ほう」
カレルのデータ化された意識の中に、数百年ぶりに『歓喜』と呼ぶにふさわしい感情の波紋が広がった。
彼はその『分類不能な脅威』――レオと名乗る気だるげな青年――に、彼の全感覚を集中させる。
彼は見ていた。
レオたちが、塔のエントランスホールへと足を踏み入れるのを。
彼は聞いていた。
騎士たちの、緊張に満ちた息遣いを。
彼は感じていた。
アリアという名の聖なる光を宿すあの女騎士の、純粋で力強い魔力の鼓動を。
騎士たちは予測可能だった。カレルは彼らの意識に軽く触れるだけで、その思考の全てを読み取れた。アカデミーの記録、戦闘訓練のデータ、その全てが彼のデータベースに記録されている通りの、少しの意外性もない完璧にコンパイルされたコードだった。
アリアという女も興味深かった。その魔力の『質』は、近年にない逸材だ。カレルは彼女の聖なる光の系譜を遡り、それがかつては自然そのものを癒し、時に猛威を振るった、より危険でより強力な古代の神聖魔法を『安全化』したものであることを見抜いた。素晴らしい才能だ。だが彼女もまたソロニスの築いた秩序の、優秀な産物でしかなかった。
だが、レオという青年は全く違った。
カレルが彼の意識に触れようとすると、それはまるで水のように形を変え、するりするりと躱していく。彼の思考は固定されたものではなく、常に自己を書き換えて最適化し続ける、自己増殖型のアルゴリズムにも似ていた。彼の魔力は、アリアという女と比較しても遜色ないものであるが、ソロニスをはじめとする歴史上の偉人と比肩できるレベルではない。だが彼の『視線』は、カレルと同じ次元からこの世界を見ていた。
彼は、目の前の壁をただの『壁』としては見ていない。その壁を構成する術式の構造、その脆弱性、その設計思想までを遥か高みから見抜いている。
彼はこの塔を建造物としてではなく、一つの巨大な『システム』として捉えているのだ。
「……これは面白い」
カレルの意識が、楽しげに脈打つ。賢者の心臓がそれに呼応し、ドクンと一際大きく鼓動した。
彼は、思い出す。
数百年前。まだ彼が肉体を持ち、そして唯一無二の友を持っていた頃の、ある日の光景を。
そこは、今の静謐な中央管制室とは似ても似つかぬ、混沌とした建設現場だった。まだ骨組みしかない塔の中で、若き日のカレルとソロニスが、後に賢者の心臓となる巨大な原初の魔力水晶を前に、激しく議論を交わしている。水晶はまだ制御されておらず、危険な魔力の嵐を絶えず周囲に撒き散らしていた。
若きソロニスは、その嵐から身を守るように、幾重にも精密で美しい防御結界を張り巡らせ、その内側から慎重に水晶のパラメータを計測していた。彼の魔法は常に冷静、正確で、まるで完璧な論文を書き上げるかのように一分の隙もなかった。
対して若きカレルは、その嵐の中に恍惚の表情で一人立っていた。彼は防御壁など張らない。その荒れ狂う混沌の魔力を自らの肉体で受け止め、その流れを野生の獣を手懐けるかのように強引に、それでいてどこか楽しげにねじ伏せ、塔の建設のためのエネルギーへと変換していたのだ。
「カレル、君の探求は危険すぎる!」
ソロニスが結界の内側から叫んだ。「見てみろ!また出力が不安定になっている! そのままでは暴走して、我々ごとこの山を吹き飛ばすぞ! まずはこの力を完全に制御するための、厳格なルールと安全装置を作るべきだ!」
「秩序、だと?」カレルは、迸る魔力の奔流の中で嗤った。「ソロニス、君は嵐を飼いならせるとでも言うのか。この美しく荒々しい無限の可能性を、お前のちっぽけな物差しで測り、檻に閉じ込めるというのか! 見ろ、ソロニス! この力こそが魔法の真の姿だ!」
カレルが手をかざすと、混沌のエネルギーが彼の意志に従い、巨大なゴーレムの腕となって、塔の梁をいともたやすく持ち上げた。
「君が数式を計算している間に、私は塔を一つ建ててしまえるぞ!」
「そしてその瓦礫の下で、何人もの罪なき民が死ぬのだ!」ソロニスは、悲痛な声で反論した。「君の言う『可能性』は、常に弱者の犠牲の上に成り立っている! 私が求めるのは、誰もが等しく安心して、その恩恵を受けられる光の下の魔法だ! 魔法は力であってはならない。それは民を導き、世界を安定させるための知恵であり、秩序でなければならない!民が安心して使えることこそ、最大の善なのだ!」
「違うな、ソロニス。安心は停滞を生む。停滞は緩やかな死だ。私が求めるのは、その先にある無限の可能性だ! 恐怖を乗り越えた者だけが、真の進化を手にできるのだ!」
二人の道は、その日完全に分かれた。
ソロニスは、魔法を安全な『秩序』の檻へと閉じ込める道を選んだ。
そしてカレルは、その檻をいつか内側から食い破るため、自らの魂を、この塔の魔法の根源たる賢者の心臓と融合させる道を選んだ。それは、魔法の根源たる『混沌』そのものとの融合に他ならなかった。
――そして、数百年。
――ようやく、現れた。
――私の言葉を、私の思想を、真に理解し得る可能性のある魂が。
カレルは決断した。
レオという興味深いこの『バグ』を、真剣に試さねばならない、と。
彼が本当に自分の孤独を終わらせるに足る器なのか。それとも、ただ少しばかり小利口なだけの、ソロニスの作ったあの退屈な檻の中で朽ち果てていく凡人なのか。
カレルの意志が、塔の深層部へと伸びていく。
エントランスホールのさらに奥。永い眠りについていた最初の『門番』へと、起動の命令が送られる。
それはカレル自身が、若き日にソロニスと共に設計したものだった。
『白銀のゴーレム』。
それは、ただの番人ではない。
挑戦者の「知性」と「論理」を試すための、精緻なパズルでもあるのだ。
カレルの意識が、ゴーレムのシステムへと深く介入していく。彼はまるで、最高の弟子のために最高の試験問題を用意する厳格な師のように、その防御術式を入念に再確認する。
第一の鎧『均衡の天秤』。挑戦者が、力任せの破壊という最も愚かな選択をしないかを試すための、チェックサムの罠。
第二の鎧『古龍語の叡智』。挑戦者が、表面的な事象の奥にある、暗号化された本質を見抜くことができるか試すための、知性の壁。
そして彼は最後の、なおかつ最も重要な『仕掛け』を起動させた。
ゴーレムの動力源である魔力炉。そのコアの中心に、彼は自らの意識のほんの僅かな欠片を埋め込んだ。
それが『寄生術式』。
彼の後継者を選定するための、最初の『種子』である。
カレルはこのゴーレムを、侵入者を阻む『壁』として設置したのではなかった。
挑戦者が、未来の自分自身に送り届ける好敵手たるかを判定するための、そしてその資格ある者に、自らの魂の一部を分け与えるための『使者』だったのだ。
「さあ、見せてみろ。我が時代の亡霊よ」
カレルの意識は再び神の視点へと戻り、レオたちがゆっくりとゴーレムの待つ広間へと足を踏み入れていくのを、悠然と眺めていた。
その光景は、偉大なチェスの名人が、盤の向こうにようやく自分と対等に戦えるかもしれない好敵手を見つけた瞬間の歓喜にも似ていた。
「お前は、数百年にも及ぶ私の孤独を終わらせることができるのか」
「それとも、ソロニスの作った退屈な檻の中で朽ち果てていく、その他大勢の塵芥に過ぎないのか」
賢者の心臓が、期待にドクンと、一層大きく脈打った。
その鼓動は、塔の外の誰にも聞こえはしない。
ただこれから始まる神の『試験』の開始を告げる、静かなゴングの音だった。