第六話 揺らぎ
下の階層へと続く階段を、半ば転がるようにして逃げ込んだ先は、かつて職員用の休憩室だった小部屋だった。騎士たちが即席の防御結界を張り、一行はようやく束の間の安息を得る。だが部屋を満たしていたのは、安堵の空気ではなく、重く冷たい敗北の沈黙だった。
レオは、壁に背を預けて荒い息を繰り返していた。グレンから流し込まれた精神攻撃の後遺症が、彼の脳内で嵐のように吹き荒れている。目を閉じれば、意味のない光の明滅と、高速で流れる数字の羅列が網膜を焼き、耳の奥では、不協和音のような術式の駆動音が鳴り響いていた。彼の思考は、かつてないほど混沌としていた。
しかし、それ以上に彼を苛んでいたのは、肉体的な苦痛ではなかった。
人生で初めて味わう、完璧なまでの「論理的敗北」。その事実が彼の精神の最も深い部分を、鋭いガラスの破片のように傷付けていた。
理解は、できるのだ。グレンの「蜃気楼の帳」が、どのような原理で成り立っているのか。観測という行為そのものをトリガーとして、世界のあり方を確率論的に変動させる、悪魔的な術式。その理屈は、頭では理解できる。
だが、対処できない。
彼の知る、あらゆる解析魔法、あらゆる干渉術式が、その「揺らぎ」の前では意味をなさない。それは、レオがこれまで築き上げてきた、絶対的な自信とプライドが、根底から否定されたことを意味した。チェスで、相手のキングに手が届かないどころか、盤上のマス目が、自分の指が触れるたびに別のマスに変わってしまうという、途方もない無力感だった。
「……くそっ……!」
思わず、呻き声と共に壁を殴りつける。だがその拳には、いつものような力は籠もっていなかった。
その時、そっと水の入った革袋が彼の目の前に差し出される。見上げると、アリアが心配そうな顔で彼を見下ろしていた。その琥珀色の瞳には、もはや以前のような不信感はなく、ただ純粋な気遣いの色が浮かんでいる。
「……いらない」
レオは、顔を背けて吐き捨てた。弱っているところを見られたくなかった。特に、自分が「常識の外」と見下していた、この真っ直ぐな騎士にだけは。
だが、アリアは引き下がらなかった。彼女はレオの隣りに静かに膝をつくと、清潔な布で、彼の額に滲む冷や汗を拭った。
「なぜ……」レオは、か細い声で尋ねる。「なぜ、俺なんかのために……。俺は、お前の仲間がどうなろうと、どうでもいいと……」
「あなたは、もうただの『ガラクタ屋』ではない」アリアは、きっぱりと言った。「共にあの塔に挑み、背中を預けた。あなたは私たちの仲間だ。仲間が傷ついていれば、手を差し伸べる。そんな当然のことに理由がいるのか?」
その言葉には、何の計算も裏もなかった。ただあまりにも真っ直ぐな、彼女の生き方そのもの。
レオは、何も言い返せなかった。彼はアリアから革袋を受け取ると、震える手で、渇いた喉に水を流し込む。水の冷たさが、燃えるように熱い脳を少しだけ冷ましてくれるようだ。
レオは、床に座り込んだまま、狂気的な集中力で思考を巡らせ始めた。床の大理石をキャンバスに、指先から放つ微弱な魔力で、数式や術式構造を描き、消して、そしてまた描く。
――観測した瞬間に、対象は過去になる。ならば、観測しなければいい? 馬鹿な。それでは何も始まらない。
――揺らぎそのものを、固定化する方法は? 無理だ。それこそが、相手の罠だ。
――ならば……。
レオの動きが、ふと止まった。彼はアリアを見つめる。
「……アリア。水面に映った月を、掬い取ろうとしたことはあるか?」
「月……? 何を、急に……」
「いいから答えろ」
「……ある。子供の頃に。だが、指が水面に触れた瞬間に、月の姿は砕けて、消えてしまった」
「そうだ」レオの瞳に、わずかな光が戻った。「それと同じだ。グレンの術式は、水面に映った月だ。俺たちは、それを固い手のひらで掬い取ろうとして失敗した。ならば、どうすれば月を掬える?」
「……わからない」
「答えは、一つだ」レオは、狂気と紙一重の、凄まじい光をその瞳に宿して言った。「こちらも、水になるんだ。水になって月と混じり合い、一体となって水ごと掬い上げる」
「……揺らぐものには、揺らぐもので対抗する」
その瞬間レオの中で、絶望的な暗闇を切り裂く一つの光明が閃いた。
安定した魔力で、「揺らぎ」を観測・解析するのは不可能だ。ならば、こちらから「意図的に揺らいだ魔力」を生成し、それをぶつければいいのだ。だが魔力を不安定なまま精密に制御するなど、人間の脳と思考の速度では絶対に不可能だ。
ならば、どうする?
魔法で不可能なことは、物理的装置で、強制的に実現させる。
「オルティス団長!」
レオは、立ち上がると、部屋の隅で部下たちと話し込んでいた団長を呼びつけた。
「……どうした、レオ君。何か、策が?」
「ええ。ですが、それはもう、魔法の範疇を超えています」
レオは近くの壁に、魔力で設計図を描き始めた。それは、騎士たちの誰もが見たことのない、複雑怪奇な機械の図面だった。無数の歯車、水晶のレンズ、そしてコイル状に巻かれた魔力線。
「これは……?」
「『魔力変調器』とでも呼びましょうか」レオは、設計図を指し示しながら、早口で説明した。「入力された安定した魔力を、内部の『時空間歪曲水晶』と『確率共鳴歯車』を通して、強制的に不安定な『揺らぐ魔力』へと変換して放出する装置です。グレンの『蜃気楼の帳』と、全く同じ性質の魔力を、人工的に作り出すための機械です」
騎士たちは、その設計図とレオの言葉を、まるで理解不能な呪文を聞くかのように、呆然と見つめていた。
「だが、こんなものを、どうやって作るというんだ。材料も、道具も……」
「この塔が、材料の宝庫ですよ」レオは、不敵に笑った。「ここには、何世紀にもわたる、ありとあらゆる魔導具の残骸が眠っている。それらを分解し、部品として流用するんです」
レオの計画は、常軌を逸していた。しかし彼の瞳に宿る絶対的な自信と、他に手段がないという絶望的な状況が、騎士たちを動かした。オルティスは数秒の沈黙の後、重々しく頷いた。
「……分かった。君に賭けよう。全騎士に告ぐ! これより、我々はレオ君の指揮下に入る! 彼の指示に従い、総力を挙げてこの『魔力変調器』とやらを完成させるのだ!」
それは、奇妙な共同作業の始まりだった。
レオは、もはや気だるげな青年ではなかった。彼は、この前代未聞のプロジェクトを率いる、冷徹で有能な指揮官へと変貌していた。
「そこの二人! 五階の錬金術研究室から、遠心分離機に使われている『高純度オリハルコン製の歯車』を回収してこい!」「お前たちは、三階の古代遺物展示室にある、壊れた『星詠みの杖』の先端についている水晶を! 傷つけるなよ、あれがこの装置の心臓部だ!」
騎士たちは最初こそ戸惑っていたが、レオの的確で無駄のない指示と、彼の描く設計図が、ただの空想ではないことを理解し始めると、その目に信頼の光を灯し始めた。鍛冶を得意とする騎士は、金属部品の加工を担当し、錬金術に心得のある者は、魔力結晶の調整を行った。アリアはレオの助手として、彼の膨大な計算と設計を補助した。
彼らは塔内の様々な部屋を駆け回り、ガラクタの山から宝物を探し出した。それは一つの目標に向かって、身分も、専門も、常識も超えて団結していく、熱狂的な時間だった。
そして、数時間後。
休憩室の中央に、その奇妙な装置は完成した。
それは、様々な部品を寄せ集めて作られた、歪で、不格好な機械だった。だがその内部では、レオの設計通りに、無数の歯車と水晶が複雑な脈動を刻んでいる。それはガラクタの寄せ集めが、一つの意志を持って生命を宿したかのような、力強い鼓動だった。
「……行くぞ」
レオは完成した「魔力変調器」を台車に乗せ、仲間たちと共に、再び「叡智の大書庫」へと向かった。彼の顔に、もはや敗北の色はなかった。
「――まさか、戻ってくるとはね。愚かなのか、それとも、よほど死に場所を探しているのか」
「叡智の大書庫」で、グレンは再び玉座に座り、彼らを嘲笑で出迎えた。周囲の空間は、依然として陽炎のように揺らめいている。
「君のその顔……。何か、面白い策でも思いついたようだ。だが、無駄なことだ。私の創り出したこの芸術の前では、いかなる論理も無と化す」
レオは、何も答えなかった。ただ静かに台車から「魔力変調器」を下ろし、その起動スイッチに手をかけた。
「おや? 今度のおもちゃは、それかね?」グレンが、面白そうに眉を上げる。「そんなガラクタで、一体何が……」
グレンの言葉が、途中で途切れた。
レオが起動した「魔力変調器」が、低いうなり音を上げ始めたのだ。装置の中央に据えられた水晶が、激しい光を放ち始める。そして、その装置から放たれたのは、魔力の光線でも、破壊の衝撃波でもなかった。
それは、グレンの「蜃気楼の帳」と全く同じ――空間そのものを震わせ、世界の輪郭を曖昧にする、「揺らぎ」そのものだった。
レオの作り出した人工の「揺らぎ」が、グレンの「揺らぎ」と接触し、干渉し、そして共鳴を始めた。
グレンの「蜃気楼の帳」は、レオの放つ「揺らぎ」を、敵からの攻撃とは認識しなかった。あまりにも性質が似すぎていたため、それを自分自身の術式の一部、あるいは、新たに生まれた仲間だと「誤認」したのだ。
そして、味方だと認識した相手に、防御術式は機能しない。
ぐらり、と。
それまでレオたちを翻弄し続けていた空間の歪みが、嘘のように、その効果を失っていく。本棚が、床が、天井が、その本来あるべき確固たる姿を取り戻していく。
「馬鹿な……!」
初めて、グレンの顔から、余裕の笑みが消えた。そこには、驚愕と、信じられないものを見るかのような動揺が浮かんでいた。
「その揺らぎは……私の魂そのものだ! 私だけの芸術のはずだ! 付け焼き刃の機械などに、再現できるはずが……!」
「違うな」
レオは静かに、しかしはっきりとグレンの言葉を否定した。
「お前のそれは、魂などという曖昧なものではない。ただの極めて複雑で、美しい数式だ。そして数式である以上、必ずや解は存在する。お前は、自分の才能を『芸術』や『魂』と呼んで神格化することで、その本質が解析可能なロジックであるという事実から、目を逸らした。それこそが、お前のたった一つの致命的なバグだ」
完全に防御を失い、呆然と立ち尽くすグレン。
そのがら空きの背中に、レオは叫んだ。
「――今だッ! やれッ!」
その号令を待っていたかのように、オルティス団長とアリアの、渾身の一撃が放たれた。今度こそ彼らの信じる「正道」の魔法が、何の妨害も受けずに真っ直ぐに、敵へと突き進む。
レオの「裏口」が、騎士たちの「王道」に、勝利への道をこじ開けた瞬間だった。
一瞬にして、閃光が全てを飲み込んだ。