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第五話 敗北

 白銀のゴーレムが永遠の彫像と化したエントランスホールは、奇妙な静寂に包まれていた。先ほどまでの死闘が嘘のように、今はただ、騎士たちの荒い息遣いと、床に転がったゴーレムの腕が放つ微かな魔力の残滓だけが、戦いの痕跡を留めていた。


 騎士たちのレオに対する視線は、もはや侮蔑や不信の色を失っていた。代わりに宿っているのは、理解不能な奇跡を目の当たりにしたかのような畏怖と、そして僅かな戸惑いだった。彼らが生涯をかけて磨き上げてきた剣技と魔法が通用しなかった相手を、この気だるげな青年は、まるで盤上の駒を動かすように、ただ「論理」だけで沈黙させたのだ。


「……君は、一体何者なんだ」


 沈黙を破ったのは、オルティス団長だった。その声には、もはやレオを試すような響きはなく、純粋な問いかけだけがあった。


「ただのガラクタ屋ですよ」レオはゴーレムから視線を外し、こともなげに答えた。「それに、仕事はまだ終わっていません。先を急ぎましょう」


 彼は、何事もなかったかのように歩き出そうとする。だがその腕を、アリアがそっと掴んだ。


「待ってくれ」

 彼女の琥珀色の瞳は、真剣な光を宿していた。

「なぜ、あんなことができたんだ? あなたの魔法は、私たちの知るものと一体何が違う?」

 それは、この場にいる騎士全員の疑問でもあった。


 レオは、自分の腕を掴むアリアの手に一瞥をくれると、面倒くさそうにではあるが、ごまかすことなく答えた。

「違うところなどない。使う魔力も、その根源となる世界のルールも、あなた方と同じものです。ただ、使い方が違うだけだ」

 彼は、騎士たちを見回して言った。

「あなた方は、教えられたルールの上で、いかに速く、力強く、正確に戦うかを訓練する。だが、俺は違う。俺が興味あるのは、そのルールの外側だ。なぜそのルールは存在するのか。その前提条件は何か。そして、そのルールのどこに穴があるのか。あなた方が盤上で戦うプレイヤーなら、俺は盤の外から、ゲームのルールそのものを書き換える。ただそれだけのことですよ」


 その言葉は、騎士たちにとって、魔法そのものよりも難解だったかもしれない。だがアリアは直感的に理解した。レオが見ている世界は、自分たちが見ている世界とは、解像度も次元も全く違うのだと。彼女は掴んでいた腕をそっと離した。その指先には、彼の放った情報という名の冷たい魔力の感触が、まだ残っているようだった。


 一行は、塔の上層階へと続く大階段を上り始める。階を重ねるごとに、塔の異常は、その様相を悪化させていった。

 最初は、些細なことだった。ある廊下では重力がほんの僅かに弱まり、歩くたびに体がふわりと浮き上がるような奇妙な感覚に襲われた。次の階では、同じ景色が無限に続く空間ループに囚われかけた。レオが壁の魔力紋マナ・パターンに周期的な「繰り返し(リピート)」の欠陥を見つけ出し、特定の石畳を踏むことでループを脱出しなければ、彼らは永遠にそこを彷徨うことになっていただろう。


「……ひどいな。塔の中枢AIが、完全に暴走を始めている」レオは、歪む空間を見ながら呟いた。「システムの至る所で魔力漏洩メモリ・リークが起き、物理法則を記述した領域まで汚染オーバーライトされ始めている。この塔は、もはや巨大な狂気の塊だ」


 そして、彼らが第五階層――『叡智の大書庫』と呼ばれる場所にたどり着いた時、その狂気は、明確な意志を持った「個」として、彼らの前に姿を現した。


 そこは、天井まで届く本棚が迷路のように入り組む、広大な図書館だった。しかし、静寂であるべきその場所は、異様な喧騒に満ちていた。数万冊はあろうかという魔導書が、ひとりでに棚から飛び出し、宙を乱舞している。ページが高速でパラパラと捲られ、そこに書かれた古代語や術式が、囁き声となって空間に木霊していた。知性が暴走し、飽和し、混沌と化している。そんな光景だった。


 そして、その混沌の中心。最も高い書架に囲まれた円形の空間で、一人の男が、まるで玉座にでも座るかのように、豪奢な革張りの椅子に腰かけて、彼らを待っていた。


 男は、レオとそう変わらない歳に見えた。黒い上質なコートを羽織り、その指には、いくつもの術式が刻まれた銀の指輪が光っている。その顔立ちは理知的で、穏やかな笑みさえ浮かべている。だがその瞳の奥には、底なしの闇と純粋な悪意とが、どろりと渦巻いていた。


「――ようこそ、アステリアの異端児(エラー)。『裏口の詠唱者バックドア・キャスター』レオ。君が来るのを、心待ちにしていたよ」


 男は、芝居がかった仕草で立ち上がると、優雅に一礼した。

「私の名は、グレン。『揺らぎ』のグレン、とでも名乗っておこうか」

「……お前が、この塔を封鎖した術者か」

 オルティスが、警戒を露わに剣の柄に手をかける。

「術者、か。まあ、そう言えなくもない」グレンは、オルティスのことなど眼中にないかのように、レオだけを見つめて続けた。「だが、私に言わせれば、私は解放者だ。この塔を、退屈な秩序と調和から解き放ち、無限の可能性――すなわち、美しいカオスへと導いている」

 彼は、うっとりとした表情で、宙を舞う魔導書を見上げた。

「君の噂はかねがね聞いていたよ、レオ君。君も、私と同じ種類の人間だ。システムの構造を愛し、そのルールを解き明かすことに歓びを見出す。だが、君と私には、決定的な違いがある」

 グレンは、その指先をレオに向けた。

「君は、見つけたシステムのバグを『修正』しようとする。壊れた玩具を直し、逸脱した論理を正常に戻す。なんと退屈で、創造性のない行いだろう! 完璧なシステムを、予測不能なカオスに陥れることこそ、真の芸術だとは思わないかね?」


 その言葉に、レオは初めて表情を変えた。それは、同族嫌悪にも似た、冷たい怒りの色だった。

「……システムの破壊を、芸術と呼ぶか。お前は、ただの愉快犯ヴァンダルだ」

「なんとでも言うがいい」グレンは、楽しそうに肩をすくめた。「君のような優等生が、私の創り出したこの混沌の世界で、どんな顔をするのか、ずっと見てみたかった。さあ、始めようか。私の最高傑作を、君に披露してあげよう」


 グレンがパチン、と指を鳴らした。

 その瞬間、世界が揺らいだ。


 床が、壁が、天井の書架が、まるで水面に映った景色のように、ぐにゃりと歪み始めた。空間そのものが、その確定的な輪郭を失い、陽炎かげろうのように揺らめき、その存在が曖昧になっていく。立っている床の感覚さえ、まるで柔らかな泥の上にいるかのように、頼りないものに変わった。

 騎士たちが、驚愕に声を上げる。

「な、何だこれは!?」

「空間転移魔法か!? いや、違う!」


 レオは、即座に自作の観測機器を取り出し、周囲の空間をスキャンした。だが水晶板に表示された術式構造は、まるで万華鏡カレイドスコープのように、目まぐるしくそのパターンを変化させ続け、決して一つの形に定まらない。

「……これは……!」

 レオの額に、初めて冷たい汗が滲んだ。

「お分かりかな?」グレンの声が、揺らぐ空間の至る所から響いてくる。「これが、私の芸術――大禁術『蜃気楼の帳(ミラージュ・ヴェール)』だ。この空間内のあらゆる事象は、もはや確定した存在ではない。観測されるたびに、その状態を変化させる。いわば、可能性の霧。君の得意な『解析』は、静止した対象を観察して初めて意味を成す。しかし、この世界に静止したものなど、何一つないのだよ」


 レオは、歯を食いしばった。

 ――観測するたびに、構造が変化するだと? まるで、量子力学の不確定性原理を、マクロな空間で再現したような術式……! 馬鹿な、そんなことが可能なのか!?

 彼は、強引に、|ある一瞬の術式パターン《スナップショット》を読み取り、それを無効化するための干渉魔法を生成しようとした。

 ――読み取れないのなら、読み取った瞬間にもうそれが過去のデータになっているというのなら、その変化の速度を超える速度で、未来を予測して叩けばいい!


 レオは、観測した数万のパターン変化から、次に来るであろうパターンを確率論的に予測し、それに対するカウンター術式を放った。

 だがそれは、グレンが仕掛けた最悪の罠だった。


 レオの放った干渉魔法が、揺らぐ空間に触れた瞬間、空間の揺らぎがピタリと止まった。そして、レオが放ったカウンター術式と、その標的となった空間の術式パターンが、まるで「証拠写真」のように、その場に固定された。

「――ビンゴ」

 グレンの楽しげな声が響く。

「君が今やったことは、『このパターンは偽物だ』と、自ら答え合わせをしてくれたようなものだ。『蜃気楼の帳(ミラージュ・ヴェール)』は、その自己矛盾を検知した。故に、ペナルティを与える」


 次の瞬間、レオは自分の脳内に、膨大な量の偽情報ジャンク・データが、濁流のように流れ込んでくるのを感じた。

「ぐ……っ、あ……!」

 頭を抱え、その場に膝をつく。彼の視界では、意味のない光の明滅と、無数の数字の羅列とが、猛烈な速度でフラッシュバックしていた。彼の武器であるはずの「思考」そのものが外部から汚染され、ハッキングされているのだ。


「レオ!」

 アリアが、悲鳴を上げて彼に駆け寄る。

「小賢しい真似を!」

 オルティス団長が、グレンに向かって渾身の『光の剣』を放つ。だがその一撃は、揺らぐ空間に当たった瞬間、まるで分厚いゼリーにでも遮られたかのように勢いを失い、明後日の方向に弾き飛ばされて、遠くの書架を破壊した。力のベクトルそのものが、ねじ曲げられているのだ。他の騎士たちの攻撃も、同様だった。物理攻撃も、魔法攻撃も、揺らめく空間に吸収されるか、逸らされるかして、グレンには全く届かない。


「無駄だよ、騎士の諸君」グレンは、苦しむレオを満足げに見下ろしながら言った。「この世界では、君たちの信じる『真っ直ぐ』という概念さえ、存在しないのだから」


 アリアは、倒れたレオを庇うように立ち、聖なる光の防御壁を展開した。しかし、その壁さえも、空間の揺らぎの前では、頼りなく明滅するだけだった。

 オルティスは戦況を冷静に見極めた。これ以上の戦闘は無意味な消耗と、レオという切り札の喪失に繋がるだけだと。彼は騎士人生で最も屈辱的な、二度目の決断を下した。

「……撤退だ! 全員、レオ君を援護しつつ、下の階層へ退くぞ!」


 騎士たちは悔しさに顔を歪めながらも、団長の命令に従った。数人がかりでレオを抱え、アリアが彼の背中を支える。

 グレンは、その様子を追いかけるでもなく、ただ楽しそうに眺めていた。

「いいだろう。一度退いて、じっくりと策を練るがいいさ。君ほどの玩具だ、すぐに壊してしまってはつまらないからね」


 その圧倒的な余裕と底知れぬ残酷さが、何よりも彼らの心を折った。


 アリアに肩を貸されながら、薄れゆく意識の中で、レオは自分の唇を血が滲むほど強く噛み締めていた。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、グレンの嘲笑と、そして自分の「論理」が、初めて完全に通用しなかったという、紛れもない事実だった。

 理解はできる。だが、対処できない。

 それはレオがこれまで築き上げてきた、絶対的な自信とプライドが、根底から打ち砕かれた瞬間だった。

 この屈辱的な敗北が、彼を新たな次元へと導くための避けられない試練であることを、今の彼にはまだ知るよしもなかった。

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