第四話 白銀のゴーレム
レオが開いた『裏口』は、まるで世界の理に開いた一瞬の傷口だった。その向こう側には、塔の内部――外部の喧騒とは隔絶された、不気味なほどの静寂が広がっていた。
「突入! 隊列を崩すな!」
オルティス団長の号令と共に、アリアを含む十数名の精鋭部隊が、次々と結界の穴を潜り抜ける。レオも、その流れに続いて内部へと足を踏み入れた。彼が通過した直後、背後で結界が再接続される、空間が軋むような音が響き、彼らは完全に塔の内部に閉じ込められた。
そこは、広大なエントランスホールだった。天井は教会のドームのように高く、磨き上げられた大理石の床は、鎧の足音を不気味なほど大きく反響させた。だが、その荘厳な空間は、奇妙な不協和音に満ちていた。
壁に設置された『魔導灯』は、その半分が消え、残りは神経質に明滅を繰り返している。空間に浮かぶはずのホログラム案内表示は、意味不明な文字や記号を吐き出す、いわゆる『文字化け』を起こしていた。空気中には、オゾン臭にも似た高密度の魔力の匂いが漂い、肌をピリピリと刺すようだ。システムが、正常と異常の狭間で喘いでいる。それが、肌感覚で伝わってきた。
「……静かすぎる。中にいた職員たちは、どこへ行ったんだ」
騎士の一人が、不安げに呟く。人気は、全くない。まるで、神隠しにでもあったかのように。
その時だった。ホールの中心、大階段の前に、一体の巨大な像が静かに佇んでいるのが、闇に慣れたアリアの目に映った。いや、像ではない。それは、全身が鏡面のように磨き上げられた白銀の装甲で覆われた、一体のゴーレムだった。
高さは五メートルを優に超える。西洋の甲冑にも、東方の鎧にも似ていない、流れるような曲線で構成された、継ぎ目のないフォルム。それは、殺戮兵器というより、神殿に飾られる彫像のような、一種の神々しささえ漂わせていた。顔のない頭部には、ただ一つ、ルビーのように赤い光が、まるで眠っているかのように、穏やかな明滅を繰り返している。
「……あれは」オルティスが息を呑んだ。「伝説の守護者。塔が建造された際に、創設者たちが遺したとされる、自律型の最終防衛機構。まさか、現存していたとは……!」
その言葉が、スイッチだった。
ゴーレムの赤い光が、穏やかな明滅から、鋭い常時点灯へと変わった。キィン、という甲高い起動音がホールに響き渡り、これまで沈黙を保っていた巨体が、関節がきしむ重々しい音を立てて、ゆっくりと動き始める。赤い光が、侵入者であるレオたち一人一人を、順番にスキャンしていくかのように動いた。それは、明確な敵意の光だった。
「来るぞ! 全員、戦闘用意!」
オルティスが叫ぶと同時に、ゴーレムは右腕をゆっくりと掲げた。その動きに合わせて、周囲の空間から魔力が収束し、腕の先に灼熱の光球が形成されていく。
「させん!」
騎士団の魔術師たちが、即座に三重の『防御障壁』を展開する。だが、ゴーレムの放った光球は、障壁を紙のように貫き、ホールの壁に着弾。轟音と共に、壁の一部が瓦礫と化して崩れ落ちた。
「馬鹿な! A級クラスの防御魔法だぞ!」
「攻撃の手を緩めるな! 弱点を探せ!」
騎士たちが、散開しながら一斉に攻撃を開始した。炎の矢、氷の槍、雷の礫。色とりどりの破壊の魔法が、白銀のゴーレムに殺到する。しかし、そのすべてが、鏡面の装甲に当たった瞬間、まるで吸い込まれるように光を失い、何の傷も与えられない。
「駄目だ! 魔法が効かん!」
「ならば物理攻撃だ!」
屈強な戦士系の騎士が、魔力を纏わせた大剣でゴーレムの脚部に斬りかかる。ガギン、と凄まじい金属音が響き、確かに装甲に深い亀裂が入った。
「やったか!?」
だが、その期待は、次の瞬間、絶望に変わった。亀裂が入った部位に、ゴーレム内部から青白い光が溢れ出し、まるで時間を巻き戻すかのように、瞬時に装甲が再生してしまったのだ。それどころか、攻撃を加えた騎士は「ぐっ……!」と呻き、後方へ吹き飛ばされた。
「どうした!?」
「分からない……。俺の魔力が、剣を通して、吸い取られた……?」
その一連の攻防を、レオは後方で、腕を組んで冷静に観察していた。
「……無駄ですよ、団長」レオの声は、騒がしい戦場には不釣り合いなほど、静かだった。「そのゴーレムを、力で破壊することはできません」
「どういう意味だ!」
「あれは、『調和の天秤』という、極めて古典的で、それ故に厄介な防護術式で守られています」
レオは、まるで講義でもするかのように、説明を始めた。
「あのゴーレムは、自身の総魔力量が、常に一定に保たれるように設計されている。外部から攻撃という形で魔力を加えれば、その過剰分を吸収、あるいは放出する。物理的に損傷させれば、その欠損部位を再構築するために、周囲の魔力を吸収する。つまり、攻撃すればするほど、相手にエネルギーを与えているのと同じことです。天秤の片方の皿に石を乗せれば、もう片方の皿にも同じ重さの石が自動的に追加され、常に釣り合いを保とうとする。そういうシステムです」
レオの説明に、騎士たちは愕然とした。戦えば戦うほど、敵を利するだけ。そんな理不尽なことがあるだろうか。
「では、どうすればいい! 何もできんではないか!」
「ええ、普通に考えれば」レオは、少し楽しそうに口の端を上げた。「ですが、天秤のルールを逆手に取れば、話は別です」
彼は、アリアに向き直った。
「アリア騎士。あなたの力が必要だ」
「私……?」
「あなたの、最も得意な、最も威力の高い、単体への破壊魔法は何です?」
「それは……聖光爆裂だが……。しかし、それでは先ほどと同じことに……」
「構いません。俺が合図をしたら、ゴーレムの右腕の付け根を、全力で狙ってください」レオは、アリアの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。「天秤の皿から、石を一つ、取り除いてほしいんです」
そして、彼はオルティスに向き直った。
「団長。他の騎士の方々は、ゴーレムの動きを止めることに専念させてください。ほんの数秒でいい」
オルティスは、レオの真意を測りかねたが、もはや彼に賭けるしかなかった。団長の号令一下、騎士たちは、ゴーレムの足元を氷で固め、鎖状の魔力でその動きを拘束する。
ゴーレムが、拘束を引きちぎろうと身じろぎする、その一瞬。
「――今だ!」
レオが叫んだ。
アリアは、迷いを振り払うように、両手に純白の光を収束させる。
「貫け! 聖光爆裂!」
一点に凝縮された聖なる光のドリルが、ゴーレムの右腕の付け根に突き刺さった。凄まじい閃光と衝撃波がホールを揺るがす。
そして、騎士たちは信じられないものを見た。ゴーレムの巨大な右腕が、付け根から完全に破壊され、床に落ちて甲高い金属音を立てたのだ。
「やった……のか?」
だが、誰もが知っていた。この後、すぐに再生が始まるはずだと。
しかし、その瞬間、レオが動いていた。
アリアが魔法を放つのと、コンマ一秒も違わずに。
「――天秤は、釣り合っていればいいんだろう?」
彼の片手から、青白い魔力の塊が、まるで粘土のように練り上げられ、ゴーレムの左脚に、吸い付くように付与された。
それは、何の効果も持たない、ただの純粋な魔力の集合体。しかし、その魔力量は、アリアが破壊した右腕の質量と、寸分違わぬように、完璧に調整されていた。
片方の皿から石を取り除くと同時に、もう片方の皿に、全く同じ重さの、別の石を置く。
ゴーレムの自己修復機能が、作動しようとした。だが、その中核術式は混乱していた。システムが参照する総魔力量は、腕が破壊される前と、後で、全く変化していないのだ。損傷は検知している。しかし、システムの前提である「総魔力量の不均衡」が発生していない。故に、修復のための魔力吸収プロセスを起動できない。
結果、ゴーレムの右腕は、失われたままだった。
その動きが、明らかに鈍る。
「見事だ……」オルティスが、呆然と呟いた。
「まだ終わりじゃありません」レオは、ゴーレムの赤い光を見据えていた。「部位を破壊しただけでは、いずれ自己診断機能が矛盾を検知し、システムを再起動させてしまう。中枢を、完全に沈黙させる必要がある」
彼は、懐から再び観測用の水晶片を取り出すと、動きの鈍ったゴーレムに意識を集中させた。
「ですが、その中枢は、第二の防御で守られている。『古龍語の叡智』……コアの命令文が、現代では解読不能な、古代のドラゴン・ルーンで暗号化されているんです」
「古代語だと? ならば、手出しのしようがないではないか!」
「ええ、正面からは」レオは、水晶片に映る、微弱な光の波形を見つめて言った。「どんなに完璧な金庫でも、その構造上、内部の機械が動く微かな音や熱が、外部に漏れ出すものです。魔法も同じ。あのコアが活動している限り、ごく微量の漏洩魔力が、常に外部に放出されている」
レオの指が、水晶板の上で踊る。表示された漏洩魔力の複雑な波形パターンが、彼の脳内で高速で分析されていく。
「この振動パターン……周期性があるな。特定のルーン文字は、それぞれが固有の魔力振動を持っている。例えば、この山形の波形は、既知の古代フェニキア語の母音『A』の波形と、七割方一致する。そして、こちらの螺旋状の波形は、古代北方語の『R』のルーンに酷似している……」
彼は、漏洩してくる魔力の断片的な情報から、内部で使われている暗号の法則性を、言語学的なアプローチで、驚異的な速度で逆算していく。それは、金庫のダイヤルを回す微かな音の響きから、金庫の設計図そのものを復元し、正解の番号を導き出すような、神業に近い離れ業だった。
数分後。
「……見つけた」
レオは、ゴーレムの中核術式にアクセスするための、たった一つの「命令文」を、完全に解読していた。
彼は、再びアリアに視線を送った。
「アリア騎士。もう一度だけ、力を貸してください。今から俺が言う、たった一つの『言葉』を、あなたの聖なる光に乗せて、あのゴーレムの頭部にある赤い光に、直接届けてほしいんです」
「言葉……?」
「ええ。物理的な音じゃない。意味を持つ、魔力の情報として。これは、破壊の魔法じゃない。対話です」
アリアは、ゴクリと唾を飲んだ。もはや、彼のやることに、疑問を差し挟む気はなかった。ただ、この男の見る世界を、その隣で見てみたいという、強い好奇心があった。
彼女は、再び聖なる光をその手に宿した。
レオが、静かに、しかしはっきりと、その『言葉』を告げる。
アリアは、その意味不明な音の響きを、教えられた通りに魔力の情報へと変換し、祈るように、光と共に放った。
光の矢は、ゴーレムの赤い光に、吸い込まれるように着弾した。
何の爆発も起きなかった。何の衝撃もなかった。
ただ、ゴーレムの赤い光が、一度だけ、強く、そして優しく瞬いた。まるで、永い眠りから呼び覚まされた者が、ようやく安らぎを得たかのように。
そして、ゆっくりと、その光は消えていった。
全ての駆動音は止み、巨大な白銀のゴーレムは、その場で動きを止め、再びただの美しい彫像へと戻った。
ホールは、完全な沈黙に包まれた。騎士たちは、目の前で起きた出来事が信じられず、ただ呆然と立ち尽くしている。
アリアは、自分の手がまだ微かに震えていることに気づいた。彼女は、レオの横顔を見た。彼は、沈黙したゴーレムを、どこか寂しげな目で見つめていた。まるで、美しい芸術品が失われたことを、惜しむかのように。
その、決着の瞬間。
ゴーレムの中核だった魔力炉が、その活動を完全に停止する直前、最後の魔力を、ふっと断末魔のように放出した。それは、誰の目にも見えない、微弱なエネルギーの放射だった。
だが、レオだけは、それを見逃さなかった。彼の特殊な視界にだけ、その最後の光の中に、極めて微細な、蟲のような形をした『ノイズ』――見たこともない構造の術式コードが、一瞬だけ混じって見えたのだ。
そのノイズは、ふわりと宙を舞うと、まるで引き寄せられるように、レオ自身の魔力に紛れて、その体の中へと侵入した。
「……!」
レオは、即座に自身の魔力回路を内観し、侵入した異物をスキャンした。だが、それはすでに何の活動もしていない、ただの魔力の残滓と化していた。術式としての形は留めているが、その命令はすでに実行不能な『死んだコード』にしか見えなかった。
「……残骸か。本体が停止したことで、道連れになったか」
彼は、小さくそう結論づけた。大樹が枯れれば、そこに巣食う蟲も死ぬ。それと同じことだろう。
彼は、その些細な違和感を、思考の片隅へと追いやった。
今は、この先に進むことの方が重要だ。
だが、彼が「死んだ」と判断したその微細な蟲――『寄生術式』は、彼の魔力回路の最も深い場所で、息を潜め、静かに、次の『トリガー』が引かれるのを、ただ待ち始めたのだった。