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第三話 結界

 店のドアが開き、騎士の鎧を纏った女が入ってきたとき、レオはそれが厄介事の始まりだと直感した。


 彼女が持ち込んだのは、依頼品ではなかった。王国の、それも魔導騎士団が身に纏う、一分の隙もなく磨き上げられたミスリル銀の鎧。それは、この『ガラクタ堂』に漂う埃と退廃の空気の中で、あまりにも場違いに、そして攻撃的に輝いていた。彼女の背筋は、まるで鉄の芯でも入っているかのように真っ直ぐに伸び、その琥珀色の瞳は、レオを値踏みするように、鋭く射抜いていた。若く、おそらくレオとそう歳は変わらないだろう。だが、その身に纏う空気は、戦場と訓練によって鍛え上げられた、硬質なものだった。


 アリアと名乗った騎士は、カウンターを挟んでレオと対峙すると、単刀直入に用件を切り出した。それは、オルティス団長からの『協力要請』だった。賢者の塔を覆う結界の打破に、レオの知恵を借りたい、と。


「……知恵、ですか」


 レオは、ようやく人形アネットから視線を外し、目の前の騎士を眺めた。その声には、何の感情も乗っていなかった。

「王国最高の頭脳である騎士団の方々が束になっても破れないものを、街のガラクタ屋に解き明かせ、と? 随分と都合のいい話ですね。悪い冗談だ」

「冗談ではない!」アリアの声に、押し殺した怒りが滲んだ。「団長は、本気だ。我々は、あらゆる正攻法を試みた。だが、あの結界は……我々の常識を超えている。だからこそ、常識の外にいると言われる、あなたの力が必要だと判断されたのだ」

「常識の外、ですか。便利な言葉だ。邪道、とも言いますね」

 レオの言葉は、静かだったが、鋭い棘を持っていた。アリアの眉が、侮辱にぴくりと動く。

「……どうとでも言うがいい。だが、これは王国の危機だ。あなたにも、この王都で暮らす民の一人として、協力する義務があるはずだ」

「義務、ね」レオは、ふ、と息だけで笑った。「俺は、この国に税金を納めている。それで、義務は果たしているつもりですが。国が危機に陥ったからといって、無償で命を懸けるほど、お人好しじゃない」


 彼は一度はっきりと断った。面倒なのはごめんだ、と。

 アリアは、絶句した。彼女が生きてきた世界では、国のため、民のために尽くすことは、騎士として、人として、当然の誇りであり、義務だった。目の前の男の理屈は、彼女の理解を完全に超えていた。

「あなたには、誇りというものがないのか! 仲間が、市民が、苦しんでいるというのに!」

「誇りで腹は膨れませんし、結界も壊せませんから」レオは肩をすくめた。「それに、俺には仲間もいない。あなた方がどうなろうと、正直、どうでもいい」


 その冷たい言葉に、アリアの中で何かが切れた。彼女は、握りしめた拳が白くなるのも構わず、声を震わせた。

「……私の、親友が……セシルが、あなたの言う『どうでもいい』騎士の一人が、あの結界のせいで心を壊された! 彼は、ただ、人々を守りたかっただけなのに! 私の放った癒しの光が、彼をさらに傷つける呪いに変わった! あの絶望が、あなたに分かるか!」

 それは、騎士としての説得ではなかった。ただ、傷ついた一人の人間の、悲痛な叫びだった。

 その時、初めてレオの表情が、ほんのわずかに動いた。彼の興味の針が、大義名分というノイズの中から、純粋な『現象』へと向けられたのだ。

「……癒しの光が、呪いに?」

「そうだ! 私の聖なる魔力が、あの結界に触れた途端、紫黒の瘴気に……!」

「なるほど」レオは、アリアの感情的な訴えには一切触れず、その現象だけを切り取って、頭の中で反芻した。「属性の反転……。単純な変換則ルールではないな。入力された魔力の特性プロパティを読み取り、その対極にある概念へとマッピングしているのか。実に……エレガントだ」


 その呟きは、アリアの耳には、不謹慎極まりないものに聞こえた。だが、レオの瞳には、先ほどまでの気だるげな光ではなく、難解で美しいパズルを前にした数学者のような、知的な好奇の光が宿っていた。

 彼は、アリアの悲しみではなく、彼女がもたらした『未知のデータ』に心を動かされたのだ。


「……いいでしょう」レオは、長い沈黙の後、不意に言った。「協力します」

「……え?」

「ただし、勘違いしないでいただきたい。俺は、あなたの言う国や民のために動くわけじゃない。ただ、目の前に現れた、この人生で出会えるかどうかも分からないほど、美しく悪辣な術式プログラムの謎が解きたい。それだけです。報酬は、あの結界に関する全データの独占閲覧権。それで手を打ちましょう」

 アリアは、その条件の意味を完全には理解できなかった。だが、今は、彼の協力を得られるという事実だけで十分だった。彼女は、深く、深く頭を下げた。



 レオとアリアが『ガラクタ堂』から塔の正面広場へと向かう道は、まるで戒厳令下のようだった。道の両脇には、完全武装した兵士たちが立ち、市民を近寄らせないようにしている。それでも、遠巻きに塔を見つめる人々の顔には、不安と恐怖が色濃く浮かんでいた。

 レオは、その光景を、まるで他人事のように眺めていた。社会システムがエラーを起こした際の、典型的な群集心理のパターンだ、と彼は冷静に分析していた。


 前線本部に到着すると、そこにいた騎士たちの視線が一斉にレオに突き刺さった。屈強な戦士たちの集団の中に、普段着の、魔力も強そうに見えない青年が一人。その場違いな光景に、誰もが侮蔑と不信の囁きを交わした。

「なんだ、あの男は……」

「団長が、わざわざ呼び寄せた『切り札』らしいぞ」

「冗談だろう。あんなひょろっとした男に、何ができるというんだ」

 レオは、それらの声を意にも介さず、巨大な結界がそびえ立つ塔の正面へと、真っ直ぐに歩いていった。


 オルティス団長が、険しい表情で彼を迎えた。その目には、プライドを押し殺した苦渋と、藁にもすがるような僅かな期待が混じっていた。

「……よく来てくれた。君が、レオ君か」

「どうも」レオは、尊大な態度を崩さなかった。「さて、どこまで役に立つやら」

 その不遜な態度に、隣に立つアリアは肝を冷やしたが、オルティスはもはやそんなことを気にする余裕もなかった。

「我々の力では、歯が立たなかった。見ての通りだ。君の『知恵』を、貸してほしい」

「まずは、現物を見ないことには」


 レオはそう言うと、持参した革のアタッシェケースを開いた。中から現れたのは、騎士たちの誰もが見たこともない、奇妙な観測機器の数々だった。水晶と歯車と魔力線を組み合わせた、ガラクタにしか見えないそれらの装置を、彼は手際よく結界の前に設置し始めた。


「何を始める気だ?」オルティスが尋ねる。

「健康診断ですよ」レオは答えた。「この患者が、どんな病に罹っているのかを、正確に知る必要があります」


 レオの分析は、科学実験のように、静かに、そして方法論的に進められた。


 まず、彼は自作の観測機器の一つ、『指向性魔力パルス発信器』を起動した。そこから放たれる微弱な魔力パルスが、様々な周波数で結界に当てられ、その反響エコーが、隣に置かれた『魔力共鳴計』の水晶板に、複雑な波形紋様として描き出されていく。

「……ふむ。表面の魔力密度は均一じゃないな。紋様の光が強い部分だけ、意図的に硬度を上げている。無駄のない設計だ」


 次に、彼はアリアを呼んだ。

「アリア騎士。あなたの『聖光』魔法を、今から俺が指示する三つのポイントに、三秒間隔で、出力五で撃ってください。できるだけ純粋な、他の意図を混ぜないクリーンな魔力で」

「……分かった」

 アリアは戸惑いながらも、彼の指示に従った。彼女の放った三条の聖なる光は、寸分違わず指定されたポイントに着弾し、そして、結界に吸収された。直後、結界からは三つの異なる呪い――『微弱な脱力』『軽い幻聴』『装備品の劣化』――が返ってきた。

 レオは、その際の結界の反応――魔力の吸収率、変換プロセスにかかる時間、放出された呪いの種類と強度――そのすべてを、観測機器を通してデータとして収集し、手元の水晶板に転送していく。


 水晶板の上には、常人には意味不明な数式やグラフ、そして複雑な術式系統図が、目まぐるしく展開されては消えていく。騎士たちは、呆然とその様子を見守るしかなかった。レオがやっていることは、彼らの知る『魔法』の範疇を、あまりにも逸脱していた。


 数十分後、レオは全ての観測を終え、装置を片付け始めた。

「……どうだね? 何か分かったか?」

 オルティスが、固唾を飲んで尋ねる。

 レオは、一つ大きなため息をつくと、言った。

「ええ、分かりました。結論から言うと、この結界そのものを破壊するのは、不可能です」

「な……!?」

 絶望が、騎士たちの間に広がった。

「この術式には、設計上の欠陥バグと呼べるものが、現時点では一つも見当たらない。完璧です。おそらく、現代のどんな術者が束になっても、これほど美しい防護術式は組めないでしょう」

 レオは、賛辞ともとれる言葉を続けた。

「ですが」と彼は言った。「どんなに完璧なプログラムでも、それを動かすためのハードウェアや、外部システムとの連携部分に、問題がないとは限らない」


 レオは、水晶板に表示した王都の地下魔力供給網の略図を指し示した。

「この結界は、塔の地下にある、六つの『主幹魔力供給ノード』から、並列でエネルギー供給を受けて維持されています。結界本体は完璧でも、このノードと結界本体との間で交わされる『通信プロトコル』に、設計上の『仕様の穴』が見つかりました」

「仕様の……穴?」

「ええ。各ノードには、緊急メンテナンス用の、外部からの強制停止コマンドを受け付ける機能が、保安上の理由で残されています。もちろん、通常は厳重な認証システムで守られている。ですが、その認証システムに、ほんの僅かな脆弱性がある」

 レオの目が、悪戯を思いついた子供のように、きらりと光った。


「これから、あの正面扉の真下にある、第三ノードに対して、偽のシステム・メンテナンス信号コマンドを送り込みます。ノードは、自分が正規のメンテナンスモードに入ったと誤認し、この区画へのエネルギー供給を、一時的に停止するはずです。その間、ほんの数秒ですが、結界に穴が開く」


 騎士たちが、ざわめいた。破壊するのではなく、騙す。そんな発想は、彼らの誰にもなかった。

「……成功するのか?」

 オルティスの問いに、レオは「さあ?」と肩をすくめた。「やってみないと分かりません。理論上は、ですが」


 彼は、再びアリアに向き直った。

「アリア騎士。もう一度、あなたの力をお借りします。俺がこれから生成する魔力信号は、あまりにも微弱で、地下深くのノードまで単独では届かない。あなたの聖なる魔力で、この信号を『増幅』し、さらに騎士団のものだと『偽装』して、正確にターゲットまで届けてほしい。あなたの純粋な魔力を、私の汚れた情報の運び屋(キャリア)として使わせてもらいます」


 その言いように、アリアは一瞬眉をひそめたが、すぐに覚悟を決めた顔で頷いた。

「……分かった。どうすればいい?」

「俺の指示に合わせて、魔力を練り上げ、そして放つだけです。制御は、俺がやる」


 レオは、アリアの前に立つと、目を閉じて集中を始めた。彼の指先から、再びあの、情報だけを乗せた微細な魔力の糸が紡ぎ出される。それは、第三ノードの認証システムを欺くためだけに、完璧にチューニングされた、偽りの鍵だった。

「……アリア騎士、今だ。あなたの光を、俺のこの手に」

 アリアは、レオの前にかざされた手に、自分の両手を重ねた。彼女が練り上げた純白の聖なる魔力が、レオの指先から放たれる微細な魔力の糸と絡み合い、増幅され、そして偽装されていく。彼女は、自分の清らかな力が、全く異質で、狡猾な何かに作り変えられていく感覚に、鳥肌が立つのを感じた。


「――撃て(リリース)


 レオの静かな号令と共に、アリアは、その変質した光を、地面に向かって解き放った。光は石畳に吸い込まれ、地下深くへと浸透していく。

 広場を、息を詰めるような沈黙が支配する。一秒が、一時間にも感じられた。

 失敗か――誰もがそう思いかけた、その時だった。


 巨大な結界の一角、ちょうど塔の正面大扉を覆っていた部分が、ノイズの走った映像のように、激しく揺らぎ始めた。紋様の光が明滅を繰り返し、そして、まるで幻だったかのように、すうっと透明になった。

 そこには、ぽっかりと、結界のない、無防備な空間が出現していた。


「開いたぞ!」

 レオが叫んだ。

「有効時間は長くて十秒! それまでにノードが異常を検知すれば、即座に閉じられる! 突入部隊、行けッ!」


 オルティスの号令を待たず、騎士たちが、その開いた『裏口』から、塔の内部へとなだれ込んでいく。

 アリアは、その光景を、そして自分の手を、信じられないものを見るように見つめていた。自分の力が、騎士として学んだどんな魔法とも違う形で、この絶望的な状況に、確かに風穴を開けたのだ。

 その驚愕の最中、彼女は隣に立つ青年の横顔を見た。彼は、自分の成し遂げた偉業に何の感慨も示さず、ただ、開かれた扉の向こうの闇を、静かに、そして冷徹に見つめていた。


 これから始まる、本当の戦いを、見据えるように。

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