第二話 賢者の塔
レオが修理を終えた自動人形――アネットが、カウンターの上で完璧なワルツを踊り終え、優雅に一礼した、まさにその時だった。
店の外が、にわかに騒がしくなった。最初は、遠くで誰かが叫んでいるような、くぐもった声だった。だが、それは瞬く間に伝染し、うねりとなり、やがて街区全体を揺るがす巨大な喧騒へと変わっていった。ガラス窓が、人々の悲鳴の圧力でビリビリと震える。空を行き交っていたはずの魔力式昇降機が、空中で動きを止め、不吉な沈黙を保っている。
ガラン、と店のドアを乱暴に開けて、隣のパン屋の主人が駆け込んできた。その顔は真っ青だった。
「アルマさん! レオ! 見たか!? 塔が……賢者の塔が!」
その言葉を追うように、壁の「光脈パネル」が、けたたましい警告音と共に、通常の番組から緊急速報へと切り替わった。燃えるような赤い文字が、画面を埋め尽くす。
【緊急警報:賢者の塔、正体不明の敵性術式により完全封鎖。内部との通信、物理的接触、一切途絶。これは敵対行為であると断定。市民は屋内へ退避せよ】
パネルに映し出されたのは、白亜の巨塔が、禍々しい紋様を明滅させる半透明の防護結界に覆われている、悪夢のような光景だった。
「……始まったか」
レオが、誰にともなく呟いた。その声は、驚くほど平坦だった。
「始まった、じゃないだろう、小僧!」アルマが、普段の温厚さからは想像もつかない鋭い声で言った。「賢者の塔は、この王都の頭脳であり、心臓だぞ! 王族の方々も、評議会の議員も、王国最高の術式技師たちも、みんないま、あの中にいらっしゃるんだ! あれが落ちれば、アステリアは……」
アルマの言葉は、そこからの光景を語ることを拒んだ。王都の魔力供給、交通管制、通信網、そのすべてが塔の最上階にある中央管制室によって統括されている。あの塔が機能を停止すれば、この魔法都市は、ただの石と鉄でできた巨大な骸と化す。
レオは、パネルの映像をただ黙って見つめていた。彼の目には、結界の表面を走る紋様のパターンが、まるで未知の言語で書かれたソースコードのように映っていた。僅かに感じ取った、あの微細な『ノイズ』。あれは、この巨大で悪質なプログラムが、システムの深層部にインストールされる際の、ごく僅かな書き込み音だったのだ。
賢者の塔正面広場は、戦場と化していた。
石畳は砕け、魔力の残滓が陽炎のように立ち上る。集まった群衆は、騎士団が張った防御壁の向こう側から、固唾を飲んで戦況を見守っていた。彼らの顔には、恐怖と、そして王国最強の騎士団への、悲痛なほどの期待が入り混じっている。
その期待を一身に背負い、騎士団長オルティスが、鋼のような声で号令を発した。
「第二波攻撃、開始! 術式構成『トリニティ・ジャベリン』! 各隊、詠唱を同調させよ!」
「応!」
騎士たちの雄叫びが、広場に響き渡る。それは、単なる力任せの攻撃ではなかった。アカデミーの教科書の最終章を飾る、高度な連携攻撃術式だ。
風の術者たちが、結界表面の魔力抵抗を削ぐための『真空刃』を放つ。地の術者たちが、攻撃隊の足場を『金剛盤石』の魔法で固め、詠唱を安定させる。そして、中核をなす炎と氷の精鋭たちが、互いの魔力を打ち消し合わないよう精密に制御しながら、螺旋状に絡み合う炎の槍と氷の槍を同時に放つ。二つの相反する属性が、目標地点で衝突し、対消滅にも似た爆発的エネルギーを生み出す、それが『トリニティ・ジャベリン』の真髄だった。
若手騎士アリアは、その後方で支援と防御に徹していた。彼女の専門は『聖光』系統の魔法。その白く清浄な光は、仲間たちの精神を昂らせ、集中力を高める効果を持つ。
「祝福の光!」
彼女の両手から放たれた柔らかな光が、攻撃隊の騎士たちを包み込む。鎧の表面に、淡い金の紋様が浮かび上がった。
「ありがとう、アリア!」
すぐ隣で詠唱していた、同期の騎士であり、親友でもあるセシルが、汗だくの顔で笑いかけた。
「これで狙いがずれたら、あんたのせいだからな!」
「軽口を叩く余裕があるなら、もっと魔力を込めなさい!」
軽口を交わしながらも、アリアの心は張り詰めていた。第一波攻撃の悪夢が、脳裏に焼き付いて離れない。自分たちの魔法が、全く理解できない原理で、仲間を傷つける呪いへと変貌する恐怖。
「放てッ!」
炎と氷の螺旋が、天を引き裂くような轟音と共に、結界へと突き進む。今度こそ、と誰もが祈った。これほどの高密度、高純度の魔力だ。吸収しきる前に、その許容量を超えて飽和し、崩壊するはずだ。
だが、結界は、彼らの希望を嘲笑うかのように、再びその不気味な反応を示した。
炎と氷の槍は、結界に触れた瞬間、またしてもじわりと吸収される。しかし、今度の反応は違った。結界は、吸収した魔力を即座に吐き出したのだ。
放たれたのは、全く同じ、炎と氷の螺旋だった。
「なっ……反射か!?」
オルティスが叫ぶ。だが、それも違った。反射された魔法は、騎士団ではなく、あらぬ方向――広場の端にある装飾用の噴水へと向かった。噴水は、次の瞬間、絶対零度の氷塊と化し、その直後に超高温の蒸気爆発を起こして木っ端微塵に吹き飛んだ。
「何だ……? 狙いがずれているのか?」
騎士の一人が呟いた、その時だった。
「セシル! 危ない!」
アリアが叫んだ。親友のセシルが、突然、自分の剣を抜き放ち、隣の仲間に斬りかかろうとしていたのだ。彼の目は虚ろで、焦点が合っていない。
「やめろ、セシル! 何をするんだ!」
仲間たちが彼を取り押さえる。だが、同じ現象が、騎士団のあちこちで発生し始めた。ある者は突然泣き出し、ある者は高笑いを始め、ある者は存在しない敵に向かって魔法を乱射する。
指揮系統は、瞬く間に崩壊した。
「幻術……いや、もっと悪質だ!」オルティスは歯噛みした。「我々の連携術式そのものを乗っ取り、その副次効果だけを増幅して、精神に直接叩き込んできているのだ! 攻撃の主目標を逸らし、我々の精神汚染を主目的に切り替えた……! まるで、生きた人間と戦っているようだ……!」
アリアは、取り押さえられたセシルに駆け寄った。彼の瞳からは、涙が止めどなく溢れている。
「アリア……すまない……。塔の中に、母さんが……泣いている声が……聞こえたんだ……」
幻聴。そして、おそらく幻覚。結界は、術者の最も深い部分にある恐怖や愛情を読み取り、それをトリガーにして精神を破壊するのだ。
アリアは、セシルの手を握り、必死に『浄化の光』を注ぎ込む。だが、彼の心を巣食う闇は、彼女の聖なる光を以てしても、容易には晴らせなかった。
自分の無力さに、涙が滲む。アカデミーで学んだ、美しく、正しい魔法の数々が、この理不尽な現実の前では、あまりにも脆く、役に立たなかった。
その頃、『ガラクタ堂』の店内では、レオがカウンターの上に奇妙な装置を広げていた。ひび割れた水晶片、用途不明の歯車、そして古い音楽箱の部品などを、銀色の『魔力線』で繋ぎ合わせた、即席の観測装置だ。彼が『魔力共鳴計』と呼ぶそれは、遠方で発生した大規模な魔力現象が、空間に放つ微弱な残響を拾い、その特性を分析する機能を持っていた。
「……なるほどな。ますます面白くなってきた」
水晶片に映る、複雑な波形紋様を眺めながら、レオは呟いた。
「何が面白いんだ、この状況で」
店主のアルマが、心底呆れたように言う。
「見てください、この波形」レオは、アルマを手招きした。「騎士団が『トリニティ・ジャベリン』を放った時の残響がこれです。そして、これが、結界が幻術を返した時の波形。一見、全く違う術式に見えますが、基礎となる周波数が完全に一致している」
「……さっぱり分からん」
「つまり、こういうことです」レオは、指でカウンターに図を描き始めた。「あの結界は、単一の術式じゃない。少なくとも、三つの防護術式が層のように重なっている。一番外側は、あらゆる魔力を無差別にエネルギーへと変換する『吸収障壁』。その内側にあるのが、変換したエネルギーを、予め設定された別の術式に書き換える『錬成炉』。そして、おそらく最深部には……この全てを、戦況に応じてリアルタイムで統括する、未知のAI――『自律思考型魔導核』が存在する」
レオの言葉に、アルマは息を呑んだ。
「自律思考型だと……? そんなものは、百年前に禁じられたはずの、伝説上の……」
「ええ。だから面白いんです」レオの瞳が、初めて好奇心の光を宿していた。「騎士団は、力で扉を壊そうとしている。でも、相手はただの扉じゃない。挑戦者の使う道具に合わせて、自分の姿を『鍵』にも『罠』にも変える、狡猾なパズルマスターなんです。力で殴りかかれば、相手はより強固な壁になる。癒しの手を差し伸べれば、相手はその手を猛毒の牙に変えて噛み付いてくる。力比べをしている限り、犠牲者が増えるだけですよ。あれは、正しい『問い』を投げかけなければ、決して沈黙しない」
「正しい……問い?」
「ええ」レオは、窓の外の、今は見えない塔の方角を見つめて言った。「おそらく、その問いは……『お前は、何者だ?』でしょうね」
前線本部のテントは、野戦病院と化していた。負傷者と、精神を汚染された者たちの呻き声が満ちている。オルティス団長は、その惨状を前に、唇を噛み締めていた。騎士としてのプライド、王国最強を率いる者としての自負、その全てが、音を立てて崩れ去っていく。
もはや、常識は通用しない。伝統も、正攻法も、この未知の脅威の前では無意味だ。
彼は、己の無力さを認め、最後の、そして最も屈辱的な選択肢に手を伸ばすことを決意した。
彼は、最も信頼する部下の一人である、アリアを呼び寄せた。彼女の瞳には、友を傷つけられた悔しさと、何も出来なかった絶望の色が浮かんでいる。
「アリア騎士」オルティスの声は、ひどくかすれていた。「君に、特命を託す」
「……はっ!」
「もはや、我々の剣も、我々の魔法も、あの塔には届かん。だが……あるいは、別の方法があるやもしれん」
オルティスは、一度目を伏せ、騎士としての誇りを飲み下すように、ゆっくりと続けた。
「第二商業区に、『ガラクタ堂』という店がある。そこにいる男を、礼を尽くしてここに連れてきてほしい」
「『ガラクタ堂』……」アリアは、その名に聞き覚えがあった。「確か、『裏口使い』と噂の……ですが、団長! なぜ、あのような邪道を使うと評判の男に、王国の命運を!」
「邪道で結構!」オルティスは、声を荒げた。「我々が信じた正道は、今、目の前で打ち砕かれた! 今必要なのは、栄誉ある騎士の剣ではない! どんな手を使っても、あの忌々しいパズルを解くことができる、歪んだ知恵だ! ……頼む。これは、命令だ」
アリアは、唇を噛んだ。団長の苦渋。友の涙。王都の悲鳴。その全てが、彼女の騎士としての矜持を揺さぶる。邪道。けれど、このままでは、全てを失う。
「……御意に」
彼女は、敬礼すると、踵を返した。
アリアが『ガラクタ堂』へと向かう道は、混乱の極みにあった。絶望に満ちた人々の顔、閉ざされた店のシャッター、そして遠くで明滅を続ける、塔の不気味な光。彼女の足取りは、鉛のように重かった。
やがて、古びた看板が見えてくる。ドアを押し開けると、カラン、と場違いにのどかなベルの音が鳴った。
中は薄暗く、埃と、古い魔導具が放つ微かな魔力の匂いが混じり合っていた。
そして、彼女は見た。
薄暗い店内の、そのカウンターで。
世界の終わりなど、まるで他人事であるかのように。
一人の気だるげな青年が、カウンターの上で完璧なワルツを踊る、小さな自動人形を、ただ静かに見つめていた。
騎士の鎧に身を包んだ、秩序と正義の象徴であるアリア。
埃っぽい店の片隅で、世界の理の外側に立つ、名もなき青年、レオ。
二人の視線が、初めて、静かに交差した。
世界の運命を乗せた、長い長い一秒だった。