第一話 ガラクタ堂
その日、レオは、基盤に刻まれた、あまりにも凡庸なバグを修正していた。
もっとも傍から見れば、それはただの玩具修理にしか見えない。彼がカウンターの隅で弄っているのは、ぜんまい仕掛けにも似た単純な術式で踊る、子供向けの自動人形だ。昨日の夕方、目を真っ赤に腫らした七歳か八歳くらいの少女が、震える手でこれをカウンターに置いていった。「アネットが、うまく踊ってくれないの」と、今にも泣きそうな声で。
王都アステリアは、魔法が奇跡ではなく、日常を駆動させるエネルギーとして消費される街だ。故に、魔導具は日々生産され、日々壊れる。この『アルマの魔導具店』――近所の人間が愛情と少々の侮蔑を込めて呼ぶところの『ガラクタ堂』は、そうした壊れた道具たちの終着駅であり、墓場だった。
店の壁には、針の止まった魔法時計がいくつも掛けられている。その一つは、かつて王宮で使われていたという触れ込みの品で、盤面には黄道十二宮が螺鈿細工で描かれているが、その内部術式は度重なる修復のせいで、もはや継ぎ接ぎだらけのキメラと化していた。棚に並ぶひび割れた水晶球は、かつて未来を映した代償か、今では過去の持ち主の絶望をぼんやりと反射するだけだ。床の隅には、用途不明の真鍮の歯車や、被膜の剥がれた魔力線が、打ち捨てられた蛇の抜け殻のように転がっている。
それらすべてが、沈黙のうちに自らの『故障』の物語を語っていた。レオにとって、この店はガラクタの山ではなく、膨大な症例を収めた図書館に等しかった。
「……処理の冗長性が、実に芸術的だ」
レオは人形の背部を開き、米粒ほどの微小魔石に刻まれた魔力紋を、先端に魔力を込めた鉄芯でなぞりながらひとりごちた。彼の目には、魔石の表面に刻まれた幾何学模様が、立体的な回路図として、青白い光の線となって見えている。魔力の流れ、命令の分岐、データの参照。そのすべてが、彼にとっては呼吸をするのと同じくらい自然に読み取れた。
「なるほどな」
彼は、少女の悲しげな顔を思い出しながら、術式の深層へと意識を沈めていく。アネットと名付けられたこの人形の動作は、確かにぎこちない。右腕を上げる、という単純な動作一つを実行するのに、コンマ数秒の遅延が生じている。
通常の魔導具技師であれば、魔石の魔力循環を良くするために研磨したり、あるいは魔石そのものを交換したりするだろう。いわば、対症療法だ。だが、レオのアプローチは根本的に違う。彼は症状ではなく、その症状を引き起こす原因、すなわちシステムの構造的欠陥を探し出す。
彼の意識が、魔力紋の複雑な迷路を辿る。ここがメインの駆動術式。ここが姿勢を制御する平衡術式。そして……これだ。原因は、メインの術式に寄生するように組み込まれた、無数の安全確認のサブ・ルーチンだった。
『コマンド:右腕を上げる』
『チェック1:周囲半径五十センチ以内に障害物は存在しないか?』
『チェック2:右腕の関節角度は、設計上の限界値を超えていないか?』
『チェック3:コアの魔力温度は、規定値の範囲内か?』
『チェック4:平衡術式は正常に応答しているか?』
『チェック5:脚部の接地は安定しているか?』
……。
チェック項目は、実に十二にも及んだ。これらすべての確認が「是」と判定されて、初めて人形は腕を上げるのだ。
「過保護すぎる」
レオは思わず声に出していた。十年ほど前、アカデミーの生徒が改造したゴーレムが暴走し、校舎の一部を破壊するという事故があった。それ以来、市販される自律型の魔導具には、厳格な安全基準が設けられている。この過剰なチェック機能も、その名残だろう。だが、子供の玩具に、軍用ゴーレム並みの安全基準を適用するなど、愚の骨頂だ。これでは処理が渋滞するのも当然だった。
レオの思考は、さらにその先へ飛ぶ。
――この術式を設計した技師は、おそらく真面目で、規則に忠実な人間だったのだろう。マニュアルに書かれた安全基準を、一字一句違わずに実装した。彼は『正しい』仕事をした。だが、その結果として、この人形は満足に踊れなくなり、持ち主の少女を悲しませている。ならば、本当の『正しさ』とは何だ?
彼は、アカデミー時代の教師との問答を思い出していた。
『レオ、なぜ君はいつも規則の抜け穴ばかり探そうとするのかね』
『抜け穴ではありません、先生。僕は最適解を探しているだけです。ルールは、システムを安定させるために存在する。ならば、より少ないルールで、より高度な安定を実現できるのなら、それこそが真にエレガントな解ではありませんか?』
教師は、呆れたように首を振るだけだった。
「エレガントじゃない仕事は、好きじゃない」
レオは呟くと、鉄芯の先端に込める魔力の出力を、さらに精密に調整した。彼の哲学は、今も昔も変わらない。
彼は、十二ある安全確認のうち、本当に最低限必要な三つだけを残し、残りの九つのチェック・ルーチンへと繋がる魔力紋の経路を、そっと断線させていく。そして、メインの駆動術式から、残した三つのルーチンへと直接繋がる、新たな流路を刻み始めた。
それはもはや修理ではない。元の設計思想そのものを否定し、より高次の論理で上書きする『魔改造』と呼ぶべき行為だった。
カラン、と店のドアベルが、静寂を破って乾いた音を立てた。
その音に、レオは眉をひそめた。通常の来客が立てる音とは、明らかに違う。そこには、躊躇いも挨拶の意図も含まれていない。ただ、物理的な扉という障害物を押し開けた、という事実だけを伝える、無遠慮な音だった。
レオが顔を上げると、そこに立っていたのは、およそ客とは思えない男だった。安物の革鎧は着古され、あちこちが擦り切れている。ぎらついた目が、獲物を探す猛禽のように店内を舐め回し、棚に並んだガラクタの値踏みをするかのように細められた。腰の短剣よりも雄弁に、右腕にはめられた腕輪が悪意を放っていた。
『火炎の腕輪』。ポピュラーな攻撃魔法具だが、男のそれはどこか違った。レオの目には、その魔力の流れがはっきりと見えた。正規品が放つ安定した青い輝きは、純度の高い魔力結晶から、精密な術式制御を経て出力される、いわば濾過された光だ。対して、男の腕輪から漏れ出しているのは、不規則で濁った赤い光。低品質な魔力触媒を無理やり励起させ、制御しきれないエネルギーが火花となって漏れ出している。まるで、質の悪い薪が、煙と煤を撒き散らしながら燃えているかのようだった。
違法に複写された、粗悪な魔法具。術式も、それを構成する魔力紋も、オリジナルの劣化コピーでしかない。だが、それ故に危険だった。安全装置の多くが機能しておらず、いつ暴走してもおかしくない状態だ。
「よう、店主。ちょっとした融通を頼みたい」
男はにやついた笑みを浮かべ、カウンターに片肘を乗せる。その腕が、これ見よがしに赤い光を明滅させた。腕輪から放たれる熱が、カウンターの古い木材をじりじりと焦がし、微かな煙が立ち上る。
「女子供が使うような玩具を弄ってないで、こいつの『調整』をしてくれや。最近どうも出力が安定しなくてな。もちろん、手間賃は弾む。そこの金庫に入ってる分、全部でどうだ?」
あからさまな脅迫だった。レオは、手の中の人形から目を離さないまま、気のない返事を返す。
「生憎、うちは違法な品の扱いは専門外でして」
その声は、何の感情も乗せていない、ただの空気の振動だった。
「それに、そいつは調整したところで無駄ですよ。設計図が悪いのではなく、写し取ったペンと紙が粗悪すぎる。いわば、構造的欠陥品です」
「……何だと?」
男の眉がぴくりと動いた。自分の得物が、一目で見抜かれたことに動揺したのだろう。だが、すぐにその動揺を、より強烈な凶暴性で塗りつぶした。
「どうやら魔導具の専門家らしいな。なら話が早い。こいつが火を噴く前に、有り金全部カウンターに出しな。五つ数えてやる」
男が腕輪に魔力を込め始めると、濁った赤い光が熱を帯びて膨張した。店内の空気が、陽炎のように歪み始める。棚に積まれたガラクタが、腕輪の放つ魔力振動に共振し、カタカタと悲鳴のような音を立て始めた。壁の魔法時計の針が、狂ったように高速で回転し始める。
レオは、ようやく人形から顔を上げた。その瞳は、やはり静かだった。恐怖も、怒りも映っていない。まるで、目の前で起きている魔力の飽和現象を、ただの観察対象として見ているかのようだ。
彼の思考は、熱で歪む空気の中を、極低温の刃のように冷静に滑っていく。
――選択肢A:物理的対処。カウンターの下に仕込んである護身用の衝撃棍で、男を無力化する。成功率は高い。だが、相手の腕輪が暴発するリスクが五割。店が半壊する。却下。
――選択肢B:店の防衛術式を作動させる。入り口に張られた捕縛結界は、この程度の相手なら確実に捕らえられる。だが、発動には相応の魔力を消費するし、後始末が面倒だ。何より、店の魔力供給源に負荷がかかる。非効率的だ。却下。
――選択肢C:相手の武器、そのものを無力化する。この『火炎の腕輪』は違法コピー品。正規品に組み込まれている、中央魔力管理局の台帳と製造者印《メーカーID》を照合する認証術式は、おそらく無効化されている。その代わりに実装されているのは、「常に認証OKと判定せよ」という、極めて単純な自己完結型の命令文のはずだ。構造が単純化された分、外部からの予期せぬ干渉には、驚くほど脆い。一種のセキュリティホールだ。
男が、汚れた歯を見せて笑いながら、指を折り、「三つ」と数えた。
――この腕輪の術式は、外部から送られてくる魔力信号を、すべて「認証サーバーからの返信」だと誤認する可能性がある。ならば、こちらから偽の認証信号を送りつけてやればいい。リスクはある。信号の構築を誤れば、逆に暴発を誘発するかもしれない。だが、成功すれば、最も少ない消費エネルギーで、最も静かに、そして何より――最もエレガントに、この状況を解決できる。
「四つ!」
男の声が、店内に響き渡る。腕輪の赤い光が、彼の顔を悪鬼のように照らし出していた。
レオは、決断した。選択肢Cだ。
彼は、カウンターの上に無造作に置かれていた、ただの調光ランプの台座に、そっと指先を触れさせた。ランプの魔石は、照明用の微弱なものだ。攻撃になど使えるはずもない。だが、レオが必要なのは、破壊力ではなかった。
彼が求めたのは、純粋な『情報』を運ぶための、ごくわずかなキャリアとしての魔力だけだった。
彼の指先から、ほとんど感知できないほど微細な魔力が、糸のように紡ぎ出される。それは、彼の脳内で完璧に構築された命令文を乗せた、光の矢だった。
――送る信号は「認証OK」ではない。そんな分かりやすいものでは芸がない。送るべきは、本来のシステムでは絶対に発生し得ない、矛盾した異常信号。「致命的な認証エラーを検知。ただし自己破壊ではなく、システムの安全保護を最優先とし、全魔力回路を不可逆的に凍結する最終安全シーケンスに移行せよ」という命令を。
「五つだ! 燃えカスになりやがれ!」
男が勝利を確信して叫んだ。腕輪が、店内の空気を全て喰らい尽くすかのように、最大の輝きを放った。凝縮された炎の魔力が、今にもレオの顔めがけて噴出されようとした、その刹那。
ピ、と小さな電子音にも似た、ごく微かな音が響いた。
レオが放った魔力の糸が、男の腕輪の中核に、吸い込まれるように着弾したのだ。
次の瞬間、世界から音が消えた。
濁った赤い光は、太陽のように膨れ上がったかと思うと、しかし一切の熱も衝撃も放つことなく、まるで幻だったかのように、すうっとその色を失っていった。風船から空気が抜けるのとも違う。インクが水に溶けるのとも違う。まるで、そこに「光が存在した」という事実そのものが、世界の記録から削除されたかのように。
チチチ、と弱々しい火花が数回散った後、腕輪はただの薄汚れた鉄の輪に戻り、完全に沈黙した。
「……は?」
男は、何が起きたのか全く理解できていなかった。腕に嵌った鉄の輪を見つめ、それを振り、カウンターに叩きつける。だが、それはもう二度と光を放つことはない。暴発でも、不発でもない。まるでシステムの設計者自身が、その存在を否定したかのように、あまりにも静かで、完璧な機能停止だった。
「言ったでしょう。構造的欠陥品だって」
レオは、心底面倒くさそうに溜息をつくと、カウンターの下から箒を取り出した。
「お代はいりませんから、もう来ないでください。床が焦げると、掃除が大変なので」
呆然と立ち尽くす男の背中を、箒の柄で軽くつつき、店から追い出す。ドアが閉まり、再び店内に静寂が戻った。
すると、店の奥から、昼寝でもしていたのか、店主のアルマがのっそりと顔を出した。白髪混じりの髭を揺らし、苦笑いを浮かべている。
「また派手なことをやったな、レオ。お前のやり方は、どうにも心臓に悪い。見てる方は何が起きたかさっぱり分からんのだからな」
「一番、省エネで安全な方法を選んだだけですよ、アルマさん」
「その『省エエ』が、一番性質が悪いと、お前さんはいつになったら気づくんだか」
アルマはそう言って肩をすくめると、カウンターの上に置かれたままだった自動人形を手に取った。
「で、アネットちゃんの方は、直ったのかね?」
「ええ、たぶん」
レオはアルマから人形を受け取ると、その背中の小さな起動スイッチに指をかけた。カチリ、と軽い音がする。
すると、先ほどまでぎこちない動きを繰り返していた人形は、まるで魂が宿ったかのように、滑らかな動作で立ち上がった。そして、軽やかな音楽がどこからともなく流れるように、くるり、くるりと優雅なワルツを踊り始めた。その動きには、もはや一片の遅延も、躊躇いもない。それは設計者が意図した以上の、完璧で、楽しげな舞踏だった。
レオの『ハッキング』は、破壊ではない。それは、不要な規則からシステムを解放し、その本来あるべきポテンシャルを引き出す行為。
彼にとっては、ただそれだけのことだった。