エピローグ
カレルの亡霊と共に、その歪んだ野望は光の粒子となって消滅した。
『賢者の心臓』を蝕んでいたおぞましい黒い染みは完全に浄化され、水晶体は本来の生命の息吹を思わせる、穏やかで清浄な青い光を取り戻していた。
天井の『データ・スカイ』を覆っていた血のような赤色も洗い流され、そこには美しい星座となったアステリアの建国神話が、再び静かに輝いている。塔のおぞましい脈動も完全に止まっていた。
後に残されたのは絶対的な静寂と、疲労困憊の果てにかろうじてその身を支えながら立ち尽くす、英雄たちだけだった。
戦いは、終わったのだ。
誰もがその場に座り込みたかった。しかし彼らはまだ、最後の仕事を終えていなかった。
オルティス団長が、最後の力を振り絞って、通信魔導具を起動させる。
「……こちらオルティス。……塔、中央管制室より報告。……敵性術式の完全沈黙を、確認。……賢者の塔は解放された。……繰り返す。賢者の塔は解放された」
その声は掠れて途切れ途切れではあったが、一日千秋の思いで待つ塔の外の仲間たちへと、確かに届いていた。
通信魔導具からは信じられないといった沈黙が返ってきたが、次の瞬間、爆発的な割れんばかりの歓声が鳴り響いた。その歓声は、すぐに王都全域へと伝播し、街全体を歓喜の渦へと巻き込んでいった。
長い、長い悪夢からの目覚めだった。
騎士たちが、安堵の表情で互いの健闘を称え、肩を叩き合う。その輪の中心で、意識を失いかけているレオの身体を、アリアは力強く抱き締めていた。
彼の身体から、あの『寄生術式』のおぞましい気配が完全に消え失せているのを、彼女は肌で感じていた。カレルの消滅と共にその呪いもまた霧散したのだ。
だが同時に、彼女には分かっていた。
彼の魂に刻まれた『傷跡』は、決して消えることはないのだ、と。
レオは彼女の腕の中で、薄れゆく意識の中、最後に開かれたドームの隙間から差し込む一筋の光を見た。
それは、新しい時代の夜明けの光だった。
彼とここにいる仲間たちが、紛れもなくその手で勝ち取った光だった。
彼はただ、生まれて初めてその光を美しいと思った。
そして彼の意識は、安らかな深い闇へと沈んでいった。
数日が過ぎた。
賢者の塔の機能は、レオが残した解析データを基に、王国の術式技師たちの手によって急速に復旧されていった。閉じ込められていた王族や研究者たちも、全員無事に救出され、王都アステリアは徐々にその日常を取り戻しつつあった。
『賢者の塔事件』と呼ばれることとなったこの未曾有の国難は、公式には『古代の暴走術式によるシステム障害』として、民衆には発表された。そして、それを鎮圧したのは、王国騎士団の英雄的な活躍によるものである、と。
そこには、レオという一人の青年の名はどこにもなかった。
それは、彼の存在と、彼が用いたあまりにも常識外れの『力』を公にすることが、新たな混乱を招きかねないという、王国の最高評議会による政治的な判断だった。
レオはその頃、王宮の一室でようやく静かな眠りから目を覚ました。
真っ白な天井、清潔なシーツの匂い。窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえる。
「……気が付いたか」
傍らの椅子にアリアが座っていた。彼女は、何日も彼のそばを離れずに、看病を続けていたらしい。その顔には疲労の色が浮かんでいたが、その琥珀色の瞳は、レオが目覚めたことに気付き、深い安堵の色に潤んでいた。
「……どのくらい、眠っていた?」
レオの声は、力なく掠れていた。
「三日、だ。三日三晩、あなたは眠り続けた」
「そうか」
レオは、ゆっくりと自分の身体を起こした。そして自分の手のひらを見つめ、そこに微弱な魔力を集めてみた。
光の玉は現れた。だがそれはやはり、あの戦いの前と同じでか弱く、どこか不安定な光だった。
寄生術式はカレルと共に消えた。しかし、魔力の威力を根底から書き換えてしまったあの呪いの『数式』は、彼の魂の最も深い場所に、傷跡のように残り続けていた。
彼の魔法がかつての輝きを取り戻すことは、もう二度とないだろう。
だが、レオの表情に絶望の色はなかった。
彼はそのか弱い光を、どこか愛おしそうに眺めていた。
「……悪くない」彼は呟いた。「これは、戒めだ。そして、俺だけの武器だ」
「レオ……」
「俺はもう、力で物事を解決しようとは思わない。いや、思えない。だからこそ、俺はもっと深く思考できる。世界の裏側をもっと見ることができる」
彼はアリアに向かって、穏やかに微笑んだ。
「お前のおかげだ、アリア。俺に、俺自身の『欠陥』を受け入れる強さを、教えてくれたのは」
その言葉に、アリアの瞳から一筋の涙が流れ落ちた。
数週間後。
レオ、アリア、そしてオルティス団長は、王国の最高評議会へと正式に召喚された。
玉座に座る国王と、その周りを囲む年老いた評議員たちは、好奇と僅かな不審の目でレオの姿を見つめている。
一連の事件の報告書には目を通している。しかしそこに書かれた内容は、彼らの常識をあまりにも超えていた。
「……して、其方が、レオとやら、か」
国王が、重々しく口を開いた。
「報告によれば、この国を救った最大の功労者である、と。だが、其方の力、常軌を逸しているとも聞く。我々は其方をどう遇すべきか、正直測りかねている」
探るようなその言葉に、オルティス団長が一歩前に進み出た。
「陛下! お言葉ですが、レオ殿の力は断じて邪道などではございません! それは我々が忘れていた、魔法の新たな可能性です! 彼の知恵なくして、我々が今日この場にこうして立っていることはあり得ませんでした!!」
オルティスの力強い弁護。それは、彼の騎士としての誇りの全てを賭けた言葉だった。
その言葉を受け、レオは静かに口を開いた。
「陛下。私は英雄ではありません。力もありません。私にあるのは、ほんの少しばかり物事の『裏側』を見る特殊な目だけです」
彼は評議員たちを、一人一人見回した。
「今回の事件は、アークメイジ・カレルという一個人の狂気が引き起こしたものではありません。それは、この世界の魔法システムそのものが、長い年月の間に蓄積してきた『矛盾』や『脆弱性』を、彼が利用したに過ぎない。そしてその種の『穴』は、今もこの世界の至る所に存在しています。第二、第三のカレルが、いつ現れてもおかしくはない」
その言葉に、評議会は静まり返った。
レオは続ける。
「私に、褒賞は必要ありません。地位も名誉も、興味がない。ですが、もしこの国が、本当に未来の危機に備えたいとお考えになるのであれば……。私に一つの役職をお与え願いたい」
その後、レオの提案により、アステリア王国にかつてない、全く新しい役職が創設されることになった。
王国のあらゆる魔力システム――都市インフラから軍事機密、アカデミーの教育プログラムに至るまで――その全てを監査し、脆弱性を発見し、改善を勧告する、独立した権限を持つ特別な役職。
その名は、『王立術式監査官』。
レオは、その初代長官に就任した。
彼の執務室は豪華な装飾のある部屋ではなく、賢者の塔の、かつて誰も使っていなかった小さな、しかし塔の全ての情報網に直接アクセスできる、最上階の一室に置かれた。そこは、彼の『ガラクタ堂』を少しだけ広くしたような、彼にとって最も落ち着く場所だった。
さらに、数ヶ月が過ぎた。
アリアは騎士団に籍を置きながらも、そのほとんどの時間をレオのパートナーとして、術式監査官の執務室で過ごしていた。オルティス団長は、彼女のその選択を快く認めた。彼は騎士団の改革に着手し、旧来の剣と魔法の訓練に加え、レオの戦術思想を取り入れた『術式理論』や『論理防衛学』を必須科目として導入した。アステリアの『守』は、今ゆっくりとではあるが確実に、その形を変えようとしていた。
月の美しいある夜だった。
レオとアリアは、執務室のバルコニーから、完全に日常を取り戻した王都の夜景を見下ろしていた。
無数の『魔導灯』が完璧な調和をもって、星々のように街を照らしている。それはレオが、仲間たちと共に守り抜いた光なのだ。
「……綺麗だな」
アリアがそっと呟いた。
「ああ」と、レオは答えた。
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。
その時アリアが、煌めく無数の光の中に、ほんの僅かな一つの『揺らぎ』を見つけた。
街の一番外れにある街灯の一つが、他の光とはコンマ一秒だけずれたタイミングで、チカと点滅したのだ。
「……レオ。あれ……」
彼女が、指さす。
レオは、その一点を見つめる。次の瞬間、彼の口元にあの不敵で楽しげな笑みが浮かんだ。
彼は、傍らにあった情報パネルを、指先で軽く操作した。パネルには即座に、その街灯が接続されている地域の魔力ネットワーク構造図が表示される。
「ああ、見つけた」
彼の声は、弾んでいた。
「新しいパズルだ」
彼はパネルから顔を上げると、アリアに向かって心からの笑顔で言う。
「完璧なシステムなんてどこにもない。欠陥だらけで、矛盾だらけで、放っておけばすぐに壊れてしまう」
彼はもう一度、煌めく王都の夜景に視線を戻した。
「だからこそ面白い。だからこそ守る価値があるんだ」
その瞳からは、かつて存在した絶望の色も孤独の影も感じられない。
そこには自らの欠陥を受け入れ、仲間を信じ、なおかつ、この愛すべき不完全な世界に満ちている無限の『謎』を心の底から楽しむ、しなやかで真に強い一人の男の光が輝いているだけだった。
彼の隣りにはアリアが、同じ光をその瞳に宿して、静かに寄り添っていた。
戦いは終わった。
だが彼らの物語は、まだ始まったばかりだ。
裏口の先に広がる光の世界を、これからも二人は共に歩いていくのだろう。いつまでも。
【完】