第十六話 決着
レオの「最終楽章を始めようぜ」という言葉は、号令ではなかった。
それは絶望的な譜面を前にしたオーケストラの指揮者が、その魂の全てを賭けて最初のタクトを振り下ろそうとする、厳かな宣言だった。
そして彼のオーケストラ――傷だらけの騎士たちは、そのタクトに完璧に応えた。
そこに迷いや疑念は、一片たりとも存在しない。彼らは、自らがレオという指揮者の奏でる壮大な交響曲を構成する、不可欠な「音」であることを理解していた。
「最終楽章、第一楽章、開始!」
レオの叫びと同時に、三つの部隊がそれぞれの持ち場へと勢いよく散開する。
カレルはどこか楽しげでいて、その瞳の奥では絶対的な神の視点で、その光景を玉座から冷ややかに見つめていた。
「面白い! 全てを同時にだと? 愚かなオーケストラめ! その破滅への不協和音、私が直々に指揮してやろう!」
カレルの嘲笑と同期するように、賢者の心臓が、おぞましい脈動を再開する。強化されたゴーレムや混沌の獣たちが奈落の底から無数に溢れ出し、三つの部隊へと一斉に襲いかかった。
だが騎士たちは、その混沌に足を止めようともしない。
第一楽章は、物理と環境の壁を打ち破る、勇壮な行進曲だった。
「――『均衡の天秤』、破壊する!」
オルティス団長率いる第一部隊が、水晶体を守る最初の防御層――チェックサムの結界――へと躊躇いなく突撃した。彼の傍らでは魔術師たちが、巨大なエネルギーを練り上げている。
「レオ君! 攻撃目標と、相殺魔力量の算出を!」
「待て!」レオの声が、戦場に響く。「カレルがカウンターで、こちらの魔力計算にノイズを仕掛けてきている! 計算がずれるぞ!」
レオの戦術分析盤が、激しく火花を散らす。カレルはレオの頭脳に、直接ハッキングを仕掛けてきているのだ。
「団長! 計算している暇はない! あなたの長年の勘で斬りかかれ! 魔術師部隊は、団長の剣が結界に触れるまさにその瞬間の、彼の魔力の昂りを読み取って、それと全く同じ量の魔力を寸分違わず叩きつけろ!」
それはもはや計算ではなく、魂の同調だった。
「面白い! やってやろう!」
オルティスは獣のように吼えると、その鍛え上げられた肉体の全筋力を愛用の戦斧に込めた。そして、彼の魂が最も昂ぶったその一瞬。
「今だァッ!」
振り下ろされた戦斧が、結界に触れる。それとコンマ一秒の狂いもなく、魔術師たちの放った光の奔流が、同じ一点に着弾した。
物理的な衝撃と、魔術的なエネルギー。二つの完全に等価な力が、結界の上で完璧に相殺された。
パリンッ!
まるで薄いガラスが砕けるような清浄な音が響き渡り、均衡を司っていた天秤の紋様が光の粒子となって消え去った。
「第二部隊、続け!」
別の場所では、騎士たちがレオの指示のもと、『魔力変調器』を過負荷寸前の最大出力で起動させていた。
「ぐっ……! 装置がもたない!」
「耐えろ! これは根比べだ!」
グレンが操ったあの『蜃気楼の帳』――揺らぎの結界が彼らの前に立ちはだかる。しかし、レオの作り出した魔力変調器による人工の「揺らぎ」が、それと真正面から衝突した。
混沌と混沌が激しくぶつかり合い、互いを打ち消し合い、中和していく。
空間は砂嵐のテレビ画面のように、激しいノイズを撒き散らす。その光景は、騎士たちの視覚と聴覚と平衡感覚を容赦なく奪っていく。
だが彼らは歯を食いしばり、その場に踏みとどまった。そしてついに、二つの相反する混沌が完全に対消滅を起こし、揺らぎの帳は静電気のような火花を残して消滅した。
そして第三楽章。それは、最も幻想的な詩だった。
「アリア!」
レオの呼びかけに、アリアはそっと目を閉じる。
彼女の部隊は、塔の植物園から持ち込んだ様々な植物をその場に配置し、小さな森を作り上げていた。
アリアの唇からあの故郷の唄が流れ出す。
その歌声はただの子守唄ではなかった。それはこの狂った空間に故郷の、あの霧深い森の「理」そのものを召喚する聖なる祝詞だった。
彼女の歌声に騎士たちが魔力で霧を発生させ、湿った土の匂いを再現する。
すると、奇跡が起きた。
水晶体を守る最後の物理障壁――《眠れる古龍樹》の、幾重にも絡み合った根のような結界がその歌声に応えたのだ。
根に刻まれた古代の紋様が、懐かしい光を放ち始める。そしてゆっくりとではあるが確実に、その絡み合った根を自ら解いていく。
何百年もの間閉ざされていたその守りが、ただ一つの故郷の唄の前にその門戸を開いた。
「――第三楽章、完了!」
レオが叫んだ。
外殻が、全て剥がされた。
後に残されたのは、剥き出しになった水晶体の核心そのもの。
それは、膨大な量の古龍語のルーン文字が光の速さでその表面を駆け巡る、究極に暗号化された情報の塊だった。
「最終楽章、第四楽章!」
レオの指揮がさらに熱を帯びる。
「これから、俺とアリアでコアに直接ハッキングを仕掛ける! 全員、何があっても俺たちに敵を近づけるな!」
ここからが本当の戦いだった。
レオの意識は、再び塔のシステムネットワークへと深く、深くダイブした。彼の目の前には目まぐるしく変化する、無数の暗号の壁が無限に広がっている。
カレルの意識が嘲笑うかのように、彼の精神に直接語りかけてくる。
『無駄だ、レオ。ここは私の神殿。私の魂そのものだ。お前のような欠陥品が入る隙間など、一ミクロンたりとも存在しない』
カレルの思考が罠となって、レオに襲いかかる。レオが一つの解読ルートを見つければ、カレルはそのルートを即座にでたらめな情報で埋め尽くす。レオが暗号のパターンを掴みかければ、カレルはその暗号体系そのものをリアルタイムで全く別のものへと書き換えてしまう。
それは神と、神に挑む人間との、思考の速度を超えたチェスゲームだった。
レオの肉体が限界を迎え始めていた。鼻から、血が一筋流れ落ちる。
「レオ!」
アリアが、彼の体を支える。
「……まだだ」
レオは、うわごとのように呟いた。
「まだ……。どんな完璧なプログラムにも、必ず例外処理のための小さな、小さな裏口が……あるはずなんだ……」
彼はもはや、カレルの仕掛ける正面の罠を相手にしていなかった。
彼の全意識は、この巨大な暗号体系の、そのさらに奥。システムの最も深い、最も根源的な部分。その設計思想そのものを探っていた。
そしてついに、彼はそれを見つけた。
カレルの、たった一つの傲慢。
彼は自らを神と信じるあまり、自分自身が作り出した『寄生術式』――すなわちレオの魔力パターン――が、まさか自分に牙を剥くとは想定していなかったのだ。
彼のシステムには、「レオの魔力パターンを敵として認識する」という項目が存在しなかった。
そこにただ一つだけ、こじ開けることのできる鍵穴があった。
それは一兆分の一秒にも満たないほんの一瞬だけ、システムの自己診断のサイクルの中で開く奇跡の扉だった。
「――アリアッ!」
レオが、最後の力を振り絞って叫ぶ。
「今だッ! 座標シータナイン、パイガンマ! ゲート開放時間、コンマ七秒! 俺の全てを、お前に託すッ!!」
その言葉を、アリアは待ち望んでいた。
彼女はレオの手を取った。
そして彼の魂から、呪いと絶望と、だが今は唯一の希望となった「バグった魔力」を受け取った。
それは黒い光だった。
あらゆる光を呑み込む虚無の色。
それは静かな悲鳴。
論理が自らを否定する、矛盾の音。
アリアはあまりにも醜く、それでいてあまりにも美しいレオの魂の欠片を、自らの最も清浄で、最も神聖な聖なる光で、そっと包み込んだ。
それは、聖女が呪われた魂を抱きしめるかのよう。
聖と魔。秩序と混沌。その二つが彼女の手の中で奇跡的な融合を果たし、白と黒の螺旋を描く一つの光の弾丸となった。
「いっけええええええええええええっ!」
彼女の絶叫と共に、その弾丸は放たれる。
レオが示した、たった一つの座標へ向かって。
カレルが、ついにその攻撃の真の意味に気付いた。
『馬鹿な! 私のプログラムそのものを鍵として使うだと!?』
彼の驚愕の声と共に、無数の障壁が弾丸の前に立ちはだかる。
だがオルティスと騎士たちが自らの身体を盾とし、残された力の全てを振り絞って、それらを打ち砕いていく。
「行かせろォォォッ! レオとアリアの道を切り拓けぇぇぇぇっ!」
そして、ついに。
白と黒の螺旋を描く光の弾丸が、暗号の壁に開いたほんの一瞬の隙間をすり抜け、『賢者の心臓』のその中心――黒い染みが最も色濃く脈打つ場所へと着弾した。
時間が、止まった。
音が、消えた。
『賢者の心臓』が一度だけ、白く強く、輝いた。
そして次の瞬間、黒く深く、沈黙した。
カレルのホログラムが、激しくノイズを走らせる。彼の顔には苦痛ではなく、純粋な論理的「エラー」に陥った、コンピュータの無機質な驚愕が浮かんでいた。
彼のシステムは、「自分自身」からの攻撃をどう処理すべきか、理解できなかった。
肯定と否定。存在と無。
絶対的な自己矛盾が、彼の意識データを根底から破壊していく。
水晶体の表面に、亀裂が蜘蛛の巣のように走っていく。
それは、爆発ではなかった。
それは一つの宇宙がその存在意義を失い、自らを消去していく、静かで荘厳な崩壊だった。
『これが……欠陥品である、お前の……出した…………解、か……』
カレルの最後の声が、断片化しながら響き渡る。
そして彼のホログラムは、水晶体の黒い染みと共に、光の粒子となって消滅した。
残されたのは、絶対的な静寂。
やがて亀裂の入った水晶体の中から、黒い染みが完全に消え去った、純粋な青い光が溢れ出した。
その光はホール全体を、そして塔全体を優しく満たしていく。
天井の『データ・スカイ』を覆っていた血のような赤色は洗い流され、そこには再び、美しい星々の輝きが戻っていた。
塔のおぞましい脈動も、完全に止まっている。
戦いは、終わったのだ。
精魂尽き果てた騎士たちが、一人、また一人とその場に座り込む。
アリアは、レオの身体を強く、強く抱きしめる。
レオは、彼女の腕の中で意識を失いかけていたが、その口元には安らかな笑みが確かに浮かんでいた。
開かれたドームの隙間から、新しい時代の夜明けの光が差し込む。
それは彼らが、自らその手で勝ち取った光だった。