第十四話 決意
カレルの甘美な、そしてあまりにも冒涜的な誘いを、レオは静かにきっぱりと拒絶した。
「断る」
その一言が、絶対的な静寂に支配されていた『中央管制室』に、波紋のように広がった。
「俺は、欠陥だらけの、この俺自身として、あんたを倒す。仲間と共に、な」
カレルの半透明な顔に、初めて純粋な『驚き』の色が浮かんだ。それはすぐに、我が子に裏切られた親のような、深い、深い『哀しみ』へと変わった。
「……愚かな。実に愚かだ、レオ。お前は、自ら神となる機会を捨てた。その先に待つのが、完全な消滅とも知らずに」
彼の呟きと同時に、空間全体が激しく身震いを始めた。『賢者の心臓』の脈動が、急速に、そして不規則に速まっていく。
ドクン……ドクン、ドクン。
破滅へのカウントダウンのように、重低音が魂を揺さぶる。
「ならば、見せてやろう」
カレルの声から、先ほどまでの穏やかさが消え失せる。そこには、数百年の孤独と狂気が凝縮された、神の怒りにも似た響きが満ちていた。
「お前たちが信じる『秩序』とやらが、絶対的な『混沌』の前で、いかに無力で脆いものであるかを!」
その言葉を合図に、戦いは始まった。
それはもはや、魔法と魔法の応酬などという、生易しいものではなかった。
塔そのものが、一つの巨大な生命体となって、レオたちに牙を剥いたのだ。
床を構成していた乳白色のパネルが、パズルのように組み変わり、鋭い槍となって、床下から突き上げてくる。天井の『データ・スカイ』からは、 破損した情報の塊が、黒い酸の雨となって降り注いだ。壁は生きているかのように蠢き、彼らを押し潰そうとその距離を狭めてくる。
「散開しろ! 壁から離れろ!」
オルティス団長が叫び、騎士たちは即座に円陣を組んで、防御壁を展開した。だが、彼らの放つ聖なる障壁は、黒い酸の雨に触れた瞬間、ジュウと音を立てて溶解していく。
「馬鹿な! 我が騎士団最強の『聖域結界』が……!」
「無駄だと言ったはずだ」カレルの声が、嘲笑うかのように響き渡る。「お前たちの使う魔法は、全てこの『賢者の心臓』を介して、その力を得ている。いわば、私の許可を得て、魔法を使わせてもらっているに過ぎん。私が『否』と言えば、お前たちの魔法は意味をなさない」
その言葉を証明するかのように、カレルは虚空に指を振るった。
すると、アリアたちの足元の床がまるで粘土のように隆起し、一体の見覚えのある巨体を形成し始めた。
白銀のゴーレム。
だがそれは、塔に進入したときに初めて対峙した、あの静かな守護者とは似ても似つかぬ、禍々しい姿だった。その装甲は黒い染みにまだらに侵食され、顔のない頭部に灯る光はルビーではなく、血のような濁った濃い赤色に変わっている。そして何よりその体からは、レオが最もよく知る、あの魂を蝕む『寄生術式』のおぞましい気配が放たれていた。
「さあ、始めようか。最初の追試だ」
強化されたゴーレムが、轟音と共に一行へと突進する。
レオはその絶望的な光景を、後方で静かに見つめていた。だがその脳は、灼熱するほどの速度で回転し続けている。彼の両目には、もはや敵の姿も、仲間の姿も映っていない。彼の視界に広がるのは、この空間を支配する無数の膨大な、魔力の流れ、術式の構造、データの奔流だけだった。
そして彼は、完全な『司令塔』と化した。
「オルティス団長! あのゴーレムの防御術式と攻撃術式は、制御核《CPU》を共有している! 同時起動はできない、必ずコンマ数秒の切り替えラグが生じるはずだ! あなたが全力で正面から斬りかかり、奴に『防御』を強制させろ! 奴が障壁を最大展開した直後、攻撃に転じる一瞬の隙が生まれる! アリアはその瞬間を狙う!」
「アリア! ゴーレムの装甲は、黒い部分だけが、自己修復機能に汚染されている! あの部位は、ダメージを受けると、逆に周囲の魔力を吸収して、より強固になるぞ! 狙うなら、まだ汚染されていない、白銀の部分だけを狙え!」
レオの指示が、戦場に響き渡る。それは時に、騎士たちの常識とは大きくかけ離れたものだった。
「全員、詠唱を止めろ! 魔力の使用を、完全に停止しろ!」
「なっ……! 丸腰になれというのか!」
「いいからやれ! カレルは、我々の魔力そのものをトリガーに、カウンターを仕掛けている! 一度、システムを沈黙させ、彼の索敵アルゴリズムをリセットさせるんだ!」
騎士たちは戸惑いながらも、もはや彼の言葉を疑う者は誰ひとりいなかった。レオの『知恵』が、自分たちの『力』を、唯一正しく導いてくれる道標であることを、彼らは理解していたのだ。
彼らはレオの指揮のもと、まるで一つの生命体のように動き始めた。アリアの聖なる光が、レオの指示した寸分違わぬ一点を正確に撃ち抜き、オルティスの剣が、敵の攻撃が来るコンマ一秒前に、完璧な防御の軌跡を描く。
その光景を、カレルは始めこそ面白そうに見つめていたが、次第にその表情に苛立ちを隠せなくなっていく。
「……なるほどな。お前は自らの力を失った代わりに、群れを率いる『頭脳』となることを選んだか。面白い。実に、面白いぞ、レオ」
カレルはレオにだけ聞こえるように、再び語りかけた。
「だがお前は、まだ自分の置かれている状況を、本当の意味で理解してはいない。お前の体内に埋め込んだ、あの『寄生術式』。あれはただ、お前の成長を吸い上げ、器として仕上げるだけの、単純なプログラムではない」
カレルの言葉に、レオの背筋を冷たい汗が伝う。
「あれは、最高の『情報収集』ツールでもあったのだよ。お前が見てきたもの、学んだもの、その全てを、私はこの数日間、お前の目を通してリアルタイムで共有してきた。お前の思考パターン、お前の仲間たちの癖、お前が、どんな時に、どんな判断を下すのか……その全てをな」
絶望的な事実。レオのこれまでの戦いは、全てカレルに筒抜けだったのだ。彼の思考そのものが、人質に取られているに等しい。
「故に」カレルは勝利を確信して、続けた。「お前が次にどんな手を打つかも、私には、手に取るように分かる」
その言葉を証明するかのように、レオが次の指示を出そうとした、まさにその瞬間。カレルの放った先読みの攻撃が、レオの思考を完全に読んで、指示を受けるはずだった騎士の足元で炸裂した。
「ぐ……っ!」
レオの思考が、読まれている。彼の唯一の武器が、封じられた。
万策、尽きたか――誰もがそう思った、その時。
レオの口元に、初めて不敵な笑みが浮かんだ。
「……そうか。なら、答えはもっとシンプルだ」
彼は、叫んだ。
「アリア! 俺を、信じるな!」
「……え?」
「俺の思考は読まれている! だから、俺の論理的な判断とは真逆の、非論理的な行動をしろ!重要なのはランダマイズだ!自分の動きの中に予測不能な動きを入れるんだ。論理的に『ランダムに動こう』などと思うな!頭の中で、常にサイコロを振るんだ!」
それは指揮官として、ありえない命令だった。自らの思考を否定しろというのだ。
だがアリアは、一瞬の迷いの後、その瞳に、絶対的な信頼の光を宿して頷いた。
「――承知した!」
カレルの予測が、初めてずれた。
レオの論理的な思考を読み、カウンターを準備していた彼の術式は、アリアの非論理的で予測不能な動きに、対応できない。レオの論理を、アリアの信頼が超えた瞬間だった。
「おのれ……! 小賢しい真似を……!」
カレルの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
戦況が、わずかにではあるが、確かに傾き始めた。カレルの裏をかくレオの指示によって、騎士団は再び息を吹き返す。
激しい攻防の末、ついに強化された白銀のゴーレムがその活動を停止し、床の瓦礫へと崩れ落ちた。
広間に、束の間の静寂が訪れる。
騎士たちは肩で息をしながらも、その顔には確かな手応えを感じていた。勝てる。神を名乗るこの亡霊に、自分たちの力は通用する、と。
カレルは、その様子を静かに見つめていた。そして、ゆっくりと拍手をする。静かな『中央管制室』に、高らかな音が響き渡った。
「……見事だ。実に見事だ、レオ。そして、その仲間たちよ。お前たちは、私の予想を遥かに超えてみせた。認めよう。お前たちは、もはやただの家畜ではない」
彼の声には、怒りも、焦りもなかった。ただ深く、かつどこか寂しげな、静かな響きだけがあった。
「だからこそ、最後の機会を与えよう」
彼は、再びレオに、その半透明な手を差し伸べた。
「レオ。私と一つになれ。その、砕け散った論理と、私の完成された混沌。その二つが融合すれば、我々はこの世界のバグを修正し、真の『神』となるのだ。お前の魂の傷は癒え、お前は永遠の命と、無限の力とを手にする。お前の仲間たちも、私が創る新たな世界の、最初の民として、永遠の栄光を約束しよう。これはもはや誘惑ではない。救済だ」
それは、究極の選択だった。
力を取り戻し、仲間さえも救える、絶対的な救済。その代償はレオという「個」の消滅。
レオは、何も答えなかった。
彼は、ただ静かにアリアを見た。汗と泥に汚れながらも、真っ直ぐに彼を信じて立ち続ける、その騎士の姿を。
彼は、オルティス団長を見た。プライドを捨ててまで、自分に頭を下げ、王国の未来を託したその指揮官の姿を。
彼は、傷だらけの騎士たちを見た。邪道と蔑みながらも、最後には彼の言葉を信じ、命を賭けて戦ってくれた、その仲間たちの姿を。
そして彼は、自分の手のひらを見つめた。
そこにはかつてのような、世界さえも作り変えられると信じていた、万能の力はもうない。
ただ微弱で、バグに汚染された、不完全な魔力だけがそこにある。
しかし不思議と彼は、それが嫌ではなかった。
レオはゆっくりと顔を上げると、アリアたちに向かって、一度だけ、小さく頷いてみせた。
そして、彼は再び、カレルに向き直る。その瞳には、完全な覚悟と、王者のような静かな誇りが宿っていた。
「あんたの言う『完全』は、ただの停滞だ。何も生まれず、何も変わらない、。終わった世界だ」
彼の声は静かだったが、この広大な空間の隅々にまで、凛と響き渡った。
「俺は、選ぶ。この不完全で、欠陥だらけで、だからこそ美しい、この世界を。そして俺は、この欠陥だらけの俺自身として、仲間と共に、あんたというこの世界最大のバグを修正する」
彼は、一度、言葉を切ると、最後の宣告を告げた。
「――それが、俺の出した、最後の『解』だ」