補論 アステリア魔法史概論
演題:守護術式と侵犯者の螺旋史 ―アステリア魔法史概論(アウレリウス特別講義)―
講演者:王立アカデミー名誉教授 魔導史家アウレリウス・ヴァレンティヌス
今、我々の愛する王都アステリアを、そしてこの世界の魔法体系そのものを揺るがしている、かの『賢者の塔』における未曾有の事件。その首謀者が、数百年前に死んだはずの伝説の大魔術師、アークメイジ・カレルの亡霊であると聞き、多くの者はただ驚愕し、恐怖していることだろう。
だが、老いぼれの歴史家である私には、この事件が、決して唐突に現れた災厄ではないことが分かる。これは、我々の魔法の歴史が、その黎明期から、宿命として内包してきた二つの相反する力の衝突――すなわち、魔法を『秩序』の光の下に置こうとする者と、その根源にある『混沌』の呼び声に応えようとする者との、数百年にわたる、終わりなき螺旋の闘争。その一つの、必然的な帰結なのだ。
この忌まわしき、しかしながら我々が目を背けてはならない事件の本質を理解するために、諸君には、しばし、この老いぼれの退屈な歴史語りに付き合っていただきたい。魔法が如何にしてその牙を抜かれ、そして、如何にしてその野生を取り戻そうとしてきたのか。その血と知恵と、そして大いなる探求心に満ちた年代記を。
第一部:魔法の規格化と最初の『壁』 ― 秩序の黎明
遥か古代、魔法とは、力そのものであった。
それは、自然界に満ちる、荒々しく、制御不能なエネルギーの奔流。偉大な術者たちは、自らの魂を危険に晒しながら、その奔流から、かろうじて一掬いの水を汲み取り、奇跡を現出させていた。だが、その力はあまりにも危険で、一歩間違えれば、術者自身をも呑み込み、世界に災厄を撒き散らす、両刃の剣であった。
我々の文明の夜明けは、アークメイジ・カレルを含む、かの『創設者たち』が、この危険な『力』を、誰もが安全に扱える『術式』へと『規格化』することに成功した時から始まった。特に、その中でも『秩序の父』と称えられる大賢者ソロニスの功績は、計り知れない。彼が提唱した『ソロニスの三大公理』――すなわち、『術式は、必ず始点と終点を持つべし』『魔力の流れは、一方通行を原則とすべし』『術式は、自己を無限に増殖させてはならない』――この基本原則こそが、現代に至る全ての魔法技術の礎となっている。
ソロニスはまた、魔法を記録する媒体そのものにも、革新をもたらした。それまで魔法の記録は、不安定で個体差の激しい天然魔力結晶に頼っており、品質の均一化は不可能だった。彼は特定の鉱石と聖水を練り上げ、安定した魔力保持能力を持つ『魔導粘土板』を開発。これにより、初めて魔法の『大量生産』と『安定した流通』が可能となり、王都アステリアの繁栄は、爆発的な加速を始めたのである。
だが、光あるところには、必ず影が差す。
一部の魔術師たちは、ソロニスの築いた秩序と規格化によって失われた、魔法の根源にある、あの荒々しい野生の力を惜しみ、それを探求し始めた。彼らはアカデミーの教える安全な術式に満足できず、その構造を分解し、改造し、その向こう側にある、忘れられた古代魔法の断片を探し始めた。
その象徴的な人物が、アカデミーを追放された若き異端児、『影潜りのリオン』である。彼は、「ソロニスの公理は、魔法を安全にした代わりに、その魂を奪った檻だ」と公言し、規格化された術式の『裏口』を探すことに、その生涯を捧げた。彼こそが、最初の『術式解読者』として、裏の歴史にその名を刻むことになる。
リオンのような異端者たちの出現に対し、アカデミーは術式の暴走を防ぐため、最初の『守護術式』を編み出した。それは、国家が管理する巨大な地下施設――地脈のエネルギーを直接引き込み、超高圧の魔力環境を作り出す『始祖の工房』――でのみ生成可能な、意図的な『構造的安定印』を、術式の構造に組み込むというものだった。この『印』がなければ、安全装置が働いて術式は発動しない。これは、術式が正規の構造を保っているかを確かめる、最初の『壁』であったが、それと同時に、リオンのような探求者たちに対する、アカデミーからの明確な挑戦状でもあった。
第二部:解析と暴走、そして「揺らぎ」の封印 ― 混沌への誘い
だが、リオンとその弟子たちは、その程度の壁で止まる者たちではなかった。
彼らは『安定印』の構造を驚くべき速度で解析し、それを迂回、あるいは自ら模倣する独自の術式を編み出してしまう。そして規格化された術式の『壁』の向こう側に、古代魔法の力強く甘美な力の断片を見出し、ますますその探求にのめり込んでいく。
時には、その探求が悲劇を生んだ。改造された術式が、彼らの制御を超えて暴走し、街の一区画の時を半永久的に停止させてしまうという、深刻な魔力災害も発生した。
この事態を重く見たアカデミーは、媒体そのものの進化にも着手した。『魔導粘土板』に代わり、特殊な光を当てないと魔力紋が読み取れない、複写がより困難な『結晶薄膜ディスク』が、新たな標準媒体として採用された。
そして、この新媒体の導入と時を同じくして、一人の若き天才が歴史の表舞台に現れる。
アカデミーの魔導物理学教授、エリアーヌ・ヴェルレーヌ。彼女は、改造術式の暴走事故で家族を失ったという、悲劇的な過去を持っていた。その悲しみと憎しみを、彼女は、絶対に破られることのない守護術式の開発へと、その全知性を注ぎ込んだ。
彼女が生み出したのが、もはや解析不可能な、究極の安定印――『揺らぎの封印』である。
それは、これまでの静的な守りとは、根本的に思想が異なっていた。「それは、術式という名の『川』です」と、彼女はアカデミーで語ったという。「二度として同じ流れを見せることのない、形なき形。静的な模倣は、原理的に不可能なのです」
この、観測するたびにその状態を変化させる、あまりにも美しく、かつ冷徹な封印の前に、解読者たちは、一度、完全に沈黙した。彼らの知性は、ついに超えられない壁に突き当たったかに見えた。
だが、歴史とは常に一人の名もなき者の、常識外れの発想によって、大きく転換する。
酒場で、あるいは裏路地の闇の中で、後に『門番騙しの賢人』として語り継がれることになる、ある解読者が仲間たちにこう語ったと伝えられている。
「なぜ、我々は、この難解な『川』そのものを、必死に渡ろうとしているのだ? 川の存在を確かめているのは、結局のところ川岸に建てられた、ちっぽけな『検問所』の役人だけではないか」
――川そのものを再現できないのなら、その役人を騙してしまえばいい。
歴史的な発想の転換だった。
戦いの主戦場は、『魔法の物理構造』から、『魔法の論理構造』そのものへと、完全に移行した。異端の探求者たちは、もはや封印の解読を試みない。彼らは魔法の深層部へと侵入し、封印を確認する『検印術式』そのものを直接書き換えるという、新たな禁断の扉を開いたのである。
第三部:術式そのものへの介入 ― 論理の鎧と現実の鍵
この新たな侵犯に対し、アカデミー側は、今度は『検印術式』そのものを、何重もの論理の鎧で守り固めるという、新たな戦術へと移行する。ここから我々の知る、より高度で、より知的な攻防の時代が始まった。
第一の鎧は、『暗号化』であった。古代言語学者でもある魔術師、書庫の主ギデオンが、自身の研究成果を応用し、『検印術式』を『古龍語』で記述するという手法を開発した。これにより解読者たちは、まずこの失われた言語を解読するという、巨大な壁に直面することになり、その多くが数年間の沈黙を余儀なくされた。
第二の鎧は、『均衡の天秤』の概念であった。術式全体の魔力総和という、目に見えない数学的な鎖で、僅かな改竄をも検知する。この技術は、術式の『実行』を司る側の道具、すなわち『詠唱増幅杖』の進化をも促した。当初は単なる魔力の増幅器だった杖に、やがて術式のチェックサムを瞬時に検証する機能が搭載されるようになっていったのだ。術式と杖がより密接に結びつき、互いを監視し合う、複雑なエコシステムが形成されていったのである。
そして、第三の鎧は、論理の世界を飛び出した、『物理的プロテクト』であった。錬金術師ギルドの長、パラケルスス三世が開発した『真実の羊皮紙』は、その最たる例だ。魔法の起動に必要な最後の『呪文』が記されたこの羊皮紙は、複写魔法の光に当てると、その魔力に反応して真っ黒に焼け焦げてしまう。魔法と物質科学を融合させたこの巧妙な罠は、解読者たちのコミュニティにおける安易な情報共有を、大いに困難にした。
だが、探求者たちの情熱は、それらの壁をも乗り越えていった。彼らは暗号を解き、チェックサムを再計算し、時には禁忌を犯してでも必要な触媒を手に入れ、アカデミーの築いた論理の城を、再び攻略していったのである。
第四部:悪意の目覚めと魂への攻撃 ― 秩序の暴走
そして物語は、我々が今まさに直面している、最も悪質な時代へと至る。
再三にわたる侵犯を受け、アカデミー内部の一部の過激派――自らを『秩序の鉄槌』と名乗る秘密結社――は、『守護』という本来の目的から、逸脱し始めたのだ。
彼らは、異端の才能を持つ者を、世界の安定を脅かす『バグ』そのものと見なし、その『抹殺』こそが、自分たちの正義だと信じて疑わなかった。
彼らが編み出したのが、最も悪質な『遅延式の呪い』、すなわち、後チェックであった。
これは、もはや術式の暴走を防ぐ安全装置ではない。
異端の才能を持つ者をおびき寄せ、その魂そのものを内側から蝕み、抹殺するための積極的な攻撃兵器だった。
この技術の真の恐ろしさは、それが術者の『成長』と『達成感』そのものを餌として育つことにある。探求者が困難な謎を解き明かし、己の才能に歓喜する、まさにその瞬間に、彼の魂は最も深く汚染されていくのだ。
皮肉なことに、この魂に介入する技術は、後に、暴走する魔力を体内に持つ患者に対し、その活動を抑制する良性の『寄生術式』を埋め込むという、先進的な『魔導医療』に応用されることになる。技術そのものには、善も悪もない。ただそれを使う者の意志が、その意味を決定づけるのだ。
だが『秩序の鉄槌』の意志は、紛れもない純粋な悪意であった。
魔法技術が、ついに『魂へのハッキング』という、神をも畏れぬ領域にまで、足を踏み入れてしまった瞬間であった。
結び:そして、歴史は繰り返す
老いぼれの昔語りが、長くなってしまった。申し訳ない。
このアウレリウスも、若き日には、アカデミーの厳格な秩序に疑問を抱き、『影潜りのリオン』の、自由な伝説に心を躍らせた一人だった。この歴史は決して他人事ではないのだ。
このように、我々の魔法の発展史とは、安全な『秩序』を求める力と、根源的な『混沌』の力を求める、終わることなき闘争の歴史であった。
そして今、かの塔で起きている事件は、この歴史の全てを内包し、さらにその先へと我々を導こうとしているのかもしれない。
レオ君と我アステリアの騎士団精鋭が挑んでいるのは、単なる一個人の野望ではない。それは、数百年にわたる魔法文明の光と影、その全てなのだ。
そして、アークメイジ・カレルという存在。彼は規格化される以前の、あの荒々しく力強い、原初の『混沌』そのものを体現する、歴史の亡霊なのではないだろうか。
秩序の最新進化形であるレオ君が、混沌の始祖たるカレルに打ち勝つのか。あるいは、混沌が、再びこの世界を呑み込むのか。
我々はただ、歴史の証人として、この戦いの結末を見届けるしかないのだろう。今この瞬間も闘い続けているであろう彼らの勝利を祈りつつ、本講演を締めくくりたい。