第十二話 突破
アリアには、レオの心が砕けるのが透けるように見えた。
彼の瞳から、それまで宿っていた傲岸不遜なまでの自信の光、世界を解析し尽くすかのような知性の輝き、その全てがすうっと消え失せるのを。後に残されたのは、底なしの虚無だけが広がる、ガラス玉のような空っぽの瞳だった。
彼はその場に崩れ落ちるように座り込むと、両手で顔を覆い、か細く息をするだけの存在になった。
「レオ……?」
アリアが、恐る恐るその肩に触れる。だが、彼は何の反応も示さない。
「レオ君、一体何があったのだ!」オルティス団長が彼の前に屈み込み、その顔を覗き込む。「正直に話してくれ!」
だがレオは、壊れた人形のように、かぶりを振るだけだった。
「……終わりだ」
ようやく絞り出した声は、ひどく乾いてひび割れていた。
「もう、終わりだ……。俺には、何もできない。俺というシステムは……致命的なエラーを抱えた、ただのジャンク品だ……」
その絶望の深さに、騎士たちは言葉を失った。この塔の唯一の希望が、今、目の前で潰えようとしていた。
騎士たちが、なす術もなく立ち尽くす中、アリアだけが、違った。
彼女はレオの前に立つと、彼の両肩を掴み、無理やりその顔を上げさせた。
「――顔を上げろ、レオ!」
その声は、慰めではなかった。叱咤だった。
「あなたの魔法の力が失われたとしても、あなたのその頭脳まで、失われたわけではあるまい! あなたがこれまで私たちを導いてきた、あの鋭い分析眼と、常識を覆す発想力は、まだその頭蓋骨の中に、確かにあるはずだ! 諦めるな、レオ! あなたは、まだ何も失ってはいない!」
アリアの言葉が、レオの虚ろな心に鋭く突き刺さった。
そうだ。力は、失った。だが、知恵は? 思考は?
絶望のあまり、彼は自分自身が持つ、最も根源的な武器の存在を忘れかけていた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳はほんの僅かだが、思考の光を戻し始めている。彼は目の前の沈黙したままの扉を、そして自分自身の内なる「呪い」を、今度は改めて解析すべき「対象」として睨みつけた。
――俺自身の魔力は汚染され、使い物にならない。扉を物理的、あるいは魔術的にこじ開けるのは、不可能だ。
――ならば、視点を変えろ。問題は、扉そのものではない。問題は、この扉を「扉」たらしめている、ルールそのものにある。
その瞬間、レオの思考は目の前の扉という物理的な存在から、それを制御するより高次の、非物理的な情報の次元へと飛躍した。
彼は立ち上がった。その足取りはまだおぼつかなかったが、その瞳にはもはや絶望の色はなく、常人には理解不能ではあるが、あまりにも明晰な一つの「解」を見出した者の光が宿っていた。
「……オルティス団長、アリア騎士」
彼の声は静かだったが、絶対的な自信に満ちていた。「錠前をいじるのは、やめにします」
「……では、どうするというのだ?」
「錠前職人がそもそもどんな鍵を作ろうとしたのか、その『設計図』そのものを奪いに行きます」
「設計図を奪って、合鍵を作るのか?」アリアが尋ねる。
「いいえ」レオは静かに、しかし世界の理を覆すかのような言葉を口にした。「もっとエレガントな方法です。設計図を燃やして、消し去るんですよ。そうすれば、この錠前は自分が一体どんな鍵を待っていたのかさえ、忘れてしまう」
そのあまりにも突飛な言葉に、騎士たちはただ呆然とするしかなかった。
レオは説明を続けた。
「この扉の『魔力認証』システムは、独立した存在じゃない。この塔の中枢システムと常に微弱なリンクを保ち、そこから『正しい紋章とは何か』という定義データを、紋章の入力があるたびに参照しているはずです。私が狙うのは、扉ではない。その大元にある『定義データ』そのものです。そのデータをこの世から消し去る」
「そんなことが……可能なのか?」
「さあ?」レオは、不敵に笑った。「ですが、この塔のシステム構造を、今この世で最も深く理解しているのは、おそらく私でしょうから」
彼はその場に再び座り込むと、目を閉じた。騎士たちが彼を守るように、周囲に円陣を組む。
「何があっても俺に触れるな。これから俺の意識は、この塔の神経網の中へ旅に出る」
レオの意識は、肉体という名の港から静かに離岸した。
次の瞬間、彼の精神は光の粒子となって、塔の壁や床を流れる『光脈』の中へとダイブした。
そこは現実とは全く異なるサイバー空間であり、広大な情報の海だった。無数のデータが思考の速度で、光の川となって行き交っている。塔の生命維持システム、環境制御システム。それら全てが、この光の奔流の中で、複雑な生態系を成していた。
並の術者であれば、この情報の濁流に呑み込まれ、一瞬で精神が崩壊するだろう。しかし、レオの意識は、極めて細く鋭い一筋の光の矢となって、その奔流を、正確に音もなく突き進んでいった。
彼の目的は、ただ一つ。塔のシステム深層部にあるはずの『術式格納庫』、その中でも、認証に関する定義データを保管している『聖典の間』だ。
数分後、彼はその目的地を発見した。
それは情報の海の中に浮かぶ、黒曜石でできた、巨大な立方体のデータサーバーだった。その表面には、グレンが使っていた『蜃気楼の帳』にも似た、常に変化し続ける、防御術式が、静かな威圧感を放って揺らめいている。
レオは正面から、その壁を攻撃しようとはしなかった。そんなことをすれば、即座に侵入者として検知され、精神ごと消去されてしまうだろう。
彼は、自分の意識の「質」を変えた。
彼の魂に巣食う『寄生術式』。塔の管理者の意識の残る、そのごく一部の情報を、彼は自分の意識の表面に、まるで外套のように纏った。それからその状態でゆっくりと、黒曜石の壁に触れた。
「――システム管理者からの、定期データ照会要求」
彼は、そう「念じた」。
すると、あれほど強固に見えた防御術式が、レオの意識を「内部からの正常なアクセス」と誤認した。揺らめいていた壁がすうっと一部だけ透明になり、彼を中へと招き入れた。
ソーシャル・ハッキングの成功だった。敵のシステムに自分を「味方」だと思い込ませる、最も高度な侵犯術。
内部は、静謐な聖堂のようだった。
無数の光り輝くデータクリスタルが、整然と並んでいる。その一つ一つに、この塔を構成する、ありとあらゆる「定義」が記録されている。
レオはその中から、目的のクリスタルを探し出した。
それは一際大きく、王家の紋章の形をぼんやりと光らせていた。
『認証定義:ID-774 王家の紋章』。
レオの意識は、そのデータクリスタルの前へと静かに佇んだ。
彼は、そのクリスタルを破壊しない。そんなことをすれば、システムに異常を検知される。
彼はその表面に、そっと自分の意識を触れさせた。
そして、自分の持つあの「バグった」微弱な魔力を、静かに、静かに、流し込み始めた。
彼の魔力が、クリスタルに記録されていた、美しくかつ複雑な「紋章のデータ」を、まるで黒いインクが純白の紙を汚すように、ゆっくりと上書きしていく。
全ての光の線を、ただの「ゼロ」に。全ての曲線の定義を、意味のない「ノイズ」に。
数分後、クリスタルはその輝きを完全に失い、ただのくすんだ石ころのようなデータ塊へと成り果てた。
だが、レオはまだ終わらない。
彼は、最後にこのクリスタルが存在していた、この空間そのものを示す住所録にアクセスした。そして、そのポインタが指し示す先を、全く別の、何の意味も持たない「NULL(何もない)」空間へと、書き換えた。
これで、完了だった。
この塔のシステムにとって、「王家の紋章の定義」は、もはやこの世のどこにも存在しないものとなった。
レオの意識がゆっくりと、肉体へと帰還していく。
情報の海から、現実の世界へ。
彼がゆっくりと目を開けると、心配そうに自分を覗き込む、アリアとオルティスの顔があった。
彼の額には、びっしりと玉の汗が浮かんでいた。
「……終わりました」
レオは、掠れた声でそう告げた。
「終わった、とは……どういうことだ?」
「試してみてください」レオは、扉を顎で示した。「アリア騎士。もう、紋章を描く必要はありません。ただ、円でも、三角でも、何でもいい。あなたの魔力をあの窪みに、そっと注ぎ込んでみてください」
アリアは半信半疑のまま立ち上がると、扉へと歩み寄った。
彼女は言われた通り、ただの単純な「円」を描くように、自分の聖なる光を扉の窪みへと注ぎ込んだ。
すると、扉の窪みが一度だけ青く、そしてどこか困惑したかのように明滅した。
扉の内部で、認証システムが起動したのだ。
システムは、入力された「円」のデータを、自身のデータベースにある「正解」と比較しようとした。
だが、参照すべき「正解」の定義データは、先ほどレオによって、完全に消去されている。そのデータが存在していたはずのアドレスは、今や「何もない」空間を指し示しているだけだ。
認証システムの論理が、破綻した。
【入力データ:円】
【比較対象データ:NULL(存在しない)】
【判定:比較不能】
システムはこの「ありえない状況」に対し、設計者が想定していなかった、ただ一つの結論を導き出した。
【認証プロセス・エラー。比較対象が見つかりません。セキュリティ・プロトコルに基づき、認証プロセスを強制的にスキップします】
――ガゴンッ!
その無機質な結論と共に、扉の奥から何かが外れるような、重く鈍い音が響き渡った。
ロックが、解除されたのだ。
力ずくでもなく、正しい鍵を使ったわけでもない。ただ「正解」という概念そのものをこの世界から消し去ることで、扉はその重い口を開いた。
騎士たちは、何が起きたのか全く理解できず、魔法でも奇跡でもない、得体のしれない、あまりにも鮮やかな結末に、ただただ畏怖の念を抱いて立ち尽くしていた。
レオはアリアに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
彼の瞳には、システムの根源に触れた者だけが持つ、深くどこか寂しげな光が宿っていた。
「どんなに堅牢な城でも、その設計図を燃やしてしまえば、ただの石の山ですよ」
彼は、そう呟いた。
この勝利は、彼の力を回復させはしない。しかし、彼の戦うための「武器」が魔力だけではないことを、そしてそれが無限にあることを、彼自身にも仲間たちにも、はっきりと証明した。
開かれた扉の向こうには、塔の最上階へと続く最後の階段が、暗い口を開けて彼らを待っていた。
本当の戦いは、ここから始まる。だが今の彼らには、もう恐れるものはなかった。