第十一話 罠
『眠れる古龍樹』の扉が開かれた先は、静寂と清浄な光に満ちた回廊だった。
これまでの階層を支配していたシステムの狂気や、生命の暴走を感じさせる歪んだ空気は、ここにはない。壁も、床も、天井も、滑らかな乳白色の素材でできており、継ぎ目一つ見当たらない。空気は、まるで冬の朝の高山の頂のように、どこまでも透明だった。深く吸い込むと、思考の曇りさえもが洗い流されるような錯覚を覚えるほどだ。
あまりにも静かで、あまりにも無防備。まるで、この塔を襲った悪夢のような出来事全てを初期化したかのような、人工的でかえって不気味なほどの静けさだった。
「……まるで、台風の目のようだな」
オルティス団長が、慎重に周囲を見回しながら呟く。騎士たちも、その異様な静けさにかえって警戒を強め、剣や杖を固く握りしめて、一歩一歩、足音を忍ばせて進んでいく。
その中でレオは、この清浄な空気とは裏腹に、自分自身の内側から発せられる、極めて微細なノイズに眉をひそめていた。
体の芯に、奇妙な倦怠感が鉛のようにこびりついている。思考の速度が、コンマ数パーセント、確かに落ちている。普段なら、複数の事象を並列で処理できるはずの脳が、一つのことにしか集中できない。魔力回路を、普段なら水が流れるようにスムーズに駆け巡るはずの自己魔力が、どこか粘性を帯び、流れが滞っているような、不快な感覚。
彼はその不調の原因を探るように、指先に微弱な魔力を集め、小さな光の玉を作ってみせた。いつもなら瞬時に、完璧な球体として形成されるはずの光が、ほんの僅かに形が歪み、その明滅も安定しない。
「……疲れているのか」
レオは、小さくそう結論づけた。グレンとの激闘、決して彼の専門ではない『魔力変調器』の製作と起動。彼の精神と肉体は、間違いなく極限まで消耗していたはずだ。今は、深く考えるべきではない。彼は、体の奥底から湧き上がるその些細な違和感を、意志の力で思考の隅へと追いやった。
一行は、数百メートルはあろうかという長い回廊を、半ばまで進んだ。
その時、前方に次の扉が見えてきた。
それは、この回廊と同じ乳白色の素材で作られた、一枚岩の巨大な扉だった。何の装飾もなく、取っ手さえもない。ただ、その中央に直径一メートルほどの円形の窪みがあるだけだった。
「……また、何か仕掛けがあるようだな」
オルティスが、扉の前で足を止める。
レオは扉に近づくと、その術式構造を解析し始めた。彼は、自分の体の不調の原因を探る意味も込めて、観測機器を使わず、自身の感覚だけで扉の理を探る。
彼は、扉の円形の窪みに、そっと手をかざした。自身の魔力を、細い探針のように伸ばし、扉の術式構造へとアクセスする。
――単純な魔力認証システムか。窪みに注がれた魔力の波形パターンが、予め登録されたものと一致すれば、開錠される仕組みだ。
この術式……古い時代のものだ。だが、妙に洗練されている。外部からの不正アクセスを防ぐ防御機構が一切ない。まるで、「正しい鍵を持っている者だけを通す」という、絶対的な信頼に基づいて設計されているようだ……。
彼はさらに深く、術式の記憶領域を探っていく。
――なるほど。ヒントはある、か。この塔の創設者一族に伝わる、王家の紋章。その幾何学パターンを、魔力で正確に描き出せばいい、と。単純なパズルだ。これまで眼前に提示されてきた様々な仕掛けに比べれば、児戯にも等しい。
彼は一度息を吸い込むと、窪みに注ぐ魔力の出力を上げた。脳裏に、文献で見たことのある、複雑かつ均整の取れた王家の紋章を思い浮かべる。獅子と聖樹をモチーフにした、数十本の曲線と直線で構成された優雅なデザイン。
彼の指先から放たれる魔力は、熟練の書家が筆を走らせるように、空間という名の紙の上に、寸分の狂いもなく光の線を引いていく。一本目の曲線、二本目の直線。ここまでは完璧だった。
だが、獅子の鬣を表現する、三本目の複雑な螺旋曲線を描こうとした、その瞬間。
彼の指先から流れ出る魔力が、ふっと、まるで蝋燭の火が吹き消されるかのように、勢いを失った。
青白い光の線は、途中で力なく途切れ、描きかけの紋章は弱々しい火花となって、虚空に消えた。
「……なっ!?」
レオは自分の指先を、信じられないものを見るように見つめた。
失敗。
ありえない。
こんな初歩的な魔力操作で、失敗するなど。彼の魔導人生……いや、彼の人生すべてにおいて、初めての経験だった。彼のプライドが音を立てて軋む。
「レオ殿、どうした?」
「何か罠でもあったのか?」
騎士たちの中から、困惑した声が漏れる。それは非難ではなく、彼の身に何かあったのではないかという、純粋な不審の声だった。
「……いや、少し、集中を乱しただけです」
彼はそう言って自分を落ち着かせると、もう一度試みた。今度はさらに深く集中し、より多くの魔力を、指先に込める。
だが、結果はさらに無惨だった。
今度は、一本目の曲線さえ描ききることができなかった。彼の魔力は、指先から放出された瞬間にその指向性を失い、まるで霧のように拡散してしまう。彼の意図した『形』を、全く成さないのだ。それは、もはや魔法ですらなかった。ただの、制御を失ったエネルギーの粒子が、行き場をなくして虚空に溶けていく、哀れな光の残骸だった。
「おい、様子がおかしいぞ!」
「いつものレオ殿ではないな……。疲労か? それとも、何か外部からの妨害術式か!?」
騎士たちのざわめきが、今度は明確な『懸念』に変わった。
「静かにしろ!」アリアが、その空気を一喝した。「彼がこれまで何を成し遂げてきたか、忘れたのか! 私たちの常識が通用しない壁を、彼はたった一人でこじ開けてきたんだ! 今、彼の身に何か起きているのなら、我々がすべきは、彼を疑うことじゃない。彼を信じ、守ることだ!」
彼女の必死の擁護が、逆にレオの心を抉った。信じる? 俺を? 笑わせるな。今の俺には、信じるに値する力など、欠片も残っていないというのに。
オルティス団長が、深刻な表情でレオに歩み寄った。
「レオ君、一体何があった。正直に話してくれ」
だが、レオには、その声が遠くに聞こえていた。彼は、自分の身に起きている、信じがたい異常の正体を探るため、意識の全てを自身の内側へと向けた。
究極の内部監査。
現実世界の音が遠のき、意識が肉体を離れ、自身の記憶や感情が渦巻く精神の海を潜っていく。彼は、自分の魂の最も深い場所、魔力が生まれ、人格が形成される、その根源の領域――『魂の魔力炉』へと、ダイブした。
そして、彼は見てしまった。
かつては青白い恒星のように、絶対的な自信と静かな情熱で輝いていたはずの彼のコア。それが今や、いつ消えてもおかしくない風前の灯火のように、か弱く揺らいでいる。さらにその中心は、黒い染みによって、深く深く蝕まれていた。
その染みの正体は、黒い小さな蟲。
白銀のゴーレムを倒した時に体内に侵入してきた、あの『死んだはずのコード』。
その瞬間、レオはこの罠のあまりにも悪辣な全体像を理解した。
――そういうことか……!
あのゴーレムのプロテクトは、破られることが前提の罠。ゴーレムとの戦いを観察して俺のような高度な術者を選別する。その上で、危険性の高いと判定された個体に対して行われる攻撃だったのだ。
ゴーレムを倒し、ふっと警戒の緩んだ瞬間に無害を装って送られる僅かな術式に最大限の警戒を払える術者はほぼ皆無であろう。事実、俺でさえ、気付きはしたが、大して警戒もせずに通してしまった。
そしてその術式は、最も重要なこの局面で、内側から牙を剥くための、悪意に満ちた時限爆弾だったのだ!
これは、グレンの仕業じゃない。彼の混沌とした芸術とは違う。もっと冷徹で、計画的で、目的のはっきりした悪意だ。グレンさえも、この巨大な計画の一部だったのかもしれない……。
戦慄と共に、彼は自分のシステムの、最も根幹の部分にアクセスする。
そして彼は、自分の魔法の威力を算出する、最も重要な術式演算領域に、その黒い蟲がさり気なく、しかし取り返しのつかない形で、新たな命令文を書き加えているのを発見した。
彼の魔法威力を算出する式の最後に、恐るべき除算式が、追加されていた。
【魔法威力 = (基礎魔力 × 術式補正 × 練度) ÷ X】
その、最後の『X』。
それは、単なる定数ではなかった。Xの値は、レオの『練度』に応じて、指数関数的に増大していくのだ。それは、こういう意味だった。
『X = αの練度乗』(αは定数)。
レオが成長すればするほど、レオが強くなればなるほど、分母であるXの値は天文学的に増大していく。そして式の答えである魔法威力は、限りなく、限りなくゼロに収束していく。
彼自身の成長が、彼自身の力を根こそぎ打ち消すという、自己矛盾の絶望的な数式。
そしてレオは、この状態がもはや回復不能な、致命的なものであることを悟った。
――駄目だ……!
これは、魔力が尽きたのとは訳が違う。魔力そのものは、満ちている。だが、その『質』が、根本的に変えられてしまったのだ。魔法を編むための力が、内側から根こそぎ奪われている。これは、時間や休息で回復する類のものではない。
さらに絶望的なのは、その寄生術式の在り処だった。
――この蟲は……俺の魂の源泉…『魂の魔力炉』に深く根を張り、もはや俺自身の一部と化している。引き剥がすことは、俺自身の魂の死を意味する。
「…………あ……ぁ……」
レオの喉から、声にならない、空気の漏れるような音がした。
彼の視界が、暗転する。
見つけたのだ。自分のシステムの最も深い場所に巣食う、致命的なバグを。
だが、そのバグはもはや彼自身であり、取り除くことは不可能だった。
彼の最大の武器は、奪われた。
いや、違う。
白銀のゴーレムを打ち破った、あの輝かしい勝利の瞬間から、グレンを打ち破った、あの栄光の瞬間まで、彼自身の『成長』という手で、彼は、最大の武器を恭しく敵の手に献上し続けていたのだ。
そのあまりにも完璧で、あまりにも悪辣な『論理』の前に、レオは生まれて初めて、本当の意味での完全な『絶望』を知った。
彼の心は、音を立てて砕け散った。