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第十話 故郷の唄

 重苦しい沈黙が、『生命の揺り籠』を支配していた。

 目の前には、突破不能な『眠れる古龍樹』の扉。騎士たちは、なす術もなく立ち尽くし、レオは自分の観測機器の前で、初めての完全な手詰まりに直面していた。


 彼の苛立ちは、頂点に達しようとしていた。

 それは、単なるプライドの問題ではなかった。彼の世界は「世界のすべては、観測可能で、解析可能で、理解可能であるべきだ」という、絶対的な信念の上に成り立っていた。目の前の扉は、その彼の世界観そのものに、静かではあるが、根源的な『否』を突きつけているのだ。術式は存在する。だが、それは完全に沈黙し、応答しない。観測しようにも、その対象が今は『ない』のだ。それはレオの論理の光が届かない、完全な闇だった。


「クソッ……! トリガーが環境情報だとして、その変数が多すぎる。温度、湿度、気圧、魔力密度、地脈周波数……。考えられるパラメータの組み合わせは、天文学的な数字になる。総当たり(ブルートフォース)で試すなんて、何百年かかるか……!」

 彼は床に座り込み、苛立たしげに自分の髪をかきむしった。その姿は、いつものクールで尊大な彼とは、あまりにもかけ離れていた。


 そのレオの背中に、アリアが躊躇いがちに、しかし意を決したように声をかける。

「……レオ」

 その声には、彼女自身の迷いと同時に、微かな確信が滲んでいた。

「私の故郷に伝わる、あの子守唄が……。あるいは、この扉を開く『鍵』なのかもしれない」

 その言葉を聞いた瞬間、レオはまるで侮辱でもされたかのように、鋭い視線で彼女を振り返った。

「馬鹿げている!」

 その声は苛立ちのあまり、自分でも驚くほど大きくなった。

「子守唄だと!? そんな非科学的なオカルトが、これほど高度で、古代の防護術式のトリガーになるはずがない! そこには必ず、何らかの物理的、あるいは魔術的な法則が介在しているはずだ! お前の感傷的な思い出話に付き合っている暇はない!」


 それは、八つ当たりに近かった。自分の無力さを、他人の、それも自分が最も理解しがたい「非論理」のせいにしているだけだと、彼自身、心のどこかで分かっていた。

 しかしアリアは、彼の怒声に怯まなかった。彼女は決して退かない強い意志を込めた瞳で、静かにレオを見つめ返した。

「……では、聞くが」彼女の声は、震えていなかった。「あなたのその『論理』とやらが全てを解き明かせると言うのなら、今、この扉を開けてみせろ。できないのなら……できないのなら、私の『非論理』に、一度でいい、耳を傾けるくらいの度量はないのか!」


 その言葉は、レオの胸に深く突き刺さる。

 そうだ。できないのだ。今の自分には。

 彼の完璧な論理は、この沈黙の壁の前で完全に無力だった。

 レオは、ぐっと言葉に詰まった。その彼の葛藤を見透かすように、アリアは続ける。

「魔法は、必ずしも理論だけで成り立っているわけではない。少なくとも、私の故郷ではそうだ。土地が記憶している永い時間の記憶。そこに生きてきた人々の、喜びや悲しみの想い。そういった数値化できないものが、術式に影響を与えることもあると、祖母は言っていた。この樹も、この扉も、何百年、あるいは何千年も、ここでじっと何かを待っている。それは冷たい数式ではなく、もっと暖かい……記憶の響きのようなものではないだろうか」


 彼女が語る世界は、レオがこれまで信じてきた、全てが数式で記述可能だという世界とは、相容れないものだった。しかし彼の頭脳は、彼女の言葉の中から、無視できない『キーワード』を拾い上げていた。

 ――記憶。想い。響き。

 それらは、非論理的な概念だ。だが、もしそれらを物理的な「情報データ」として捉え直すとしたら?


「……唄、か」

 レオは呟いた。

「唄そのものに、魔力があるわけじゃない。だが、特定の旋律メロディが持つ、音響的な振動パターン。そしてその唄を歌う人間が、特定の記憶や感情を想起した際に、その脳や魔力から放出される、特有の微弱な生体マナ……。それらが、複雑な組み合わせ(コンビネーション)キーとして、この扉の術式に設定されている、という仮説は……」


 ――ありえない、と彼は思った。また同時に、それ以外に可能性がないことも、認めざるを得なかった。

 彼はゆっくりと立ち上がると、アリアに向き直った。

「……分かった。あなたの『非論理』に、一度かけてみよう」

 その言葉は彼にとって、自分の世界観の一部を明け渡すことに等しい、大きな決断だった。

「あなたの言う『唄』を、ここで歌ってほしい。俺はその時に発生する、あらゆる物理現象と魔力現象を、観測・記録する」


 アリアは、こくりと頷いた。彼女は扉の前に進み出ると、そっと目を閉じた。周囲の騎士たちが、固唾を飲んで彼女を見守っている。

 最初はためらうような、掠れた声だった。だが彼女の脳裏に、故郷の霧深い森の情景と、優しい祖母の顔が浮かぶと、その声は次第に澄み切った、美しい響きを帯び始めた。

 それは、いま存在するどこの国の言葉でもない、古い、古い旋律だった。森の木々が風に揺れる音、夜明けの霧が晴れていく様、そして、静かな眠りへと誘う優しさと、どこか物悲しさを湛えた、不思議な唄。

 その歌声が、静かな植物園に響き渡る。すると、周囲の植物たちが、まるでそれに呼応するかのように、ざわざわと一斉に葉を揺らし始めた。


 レオは、その光景に目を見張りながらも、観測機器の操作に集中していた。

 アリアの歌声の周波数、音圧の変化。彼女の身体から放出される、極めて微弱ではあるが、明らかに通常とは異なるパターンの魔力の波形。そして周囲の植物たちが共鳴して発する、生体マナの特殊な振動。

 その全てが、彼の水晶板に膨大なデータとして記録されていく。


 歌が終わった時、扉はまだ沈黙したままだった。しかしレオの顔から、もはや焦りの色は消えていた。そこには、未知のパズルを解き明かすための、全てのピースを手に入れた者の、確信に満ちた光が宿っていた。


「……ありがとう、アリア。鍵は、手に入った」


 レオは、すぐに行動を開始した。彼は、グレン戦で製作した『魔力変調器』を再び取り出すと、その場で改造を始めた。

「オルティス団長! この植物園の中から、葉の形がこれに似ていて、甘い香りのする植物と、樹皮が白く、湿気を好む性質の植物を探してきてください! 根ごと、だ!」

 彼は、水晶板に表示した植物のデータを騎士たちに見せる。それは、アリアが歌った際に最も強く生体マナを共鳴させた、この植物園の植物だった。

 騎士たちは戸惑いながらも、すぐに散開し、ジャングルのような園内から、目的の植物を探し出した。

 レオはその間に、『魔力変調器』の歯車を入れ替え、水晶レンズの角度を精密に調整していく。

「今度の目的は、『揺らぎ』の生成じゃない。『環境』の偽装だ。特定の空間の、物理法則を記述するパラメータを、強制的に上書きする」


 運び込まれた植物の根や蔓を、レオはまるで配線ケーブルのように、変調器に巻きつけ、接続していく。そして記録したアリアの唄のデータを、装置の制御核へと入力した。

 準備は整った。


「アリア騎士。もう一度、頼めるか」レオは、改造された変調器の起動スイッチに手を置きながら言った。「今度は、俺が作り出す『舞台』の上で、最高の唄を聴かせてほしい」


 レオがスイッチを入れると、変調器が静かな唸り音を上げて起動した。

 すると、信じられないことが起きた。

 装置を中心に、周囲の空気が急速にその質を変え始めたのだ。乾いていた空気がしっとりとした湿度を帯び、床にはうっすらと白い霧が立ち込め始める。甘い花の匂いと、雨上がりの土の匂いが、辺りに満ちていく。それはまさしく、アリアの記憶の中にある、故郷の『霧深き森』の空気そのものだった。

 レオの『科学』が、彼女の『記憶』をこの場に完璧に再現したのだ。


 その、偽りの故郷の空気の中で、アリアは再び歌い始めた。

 今度はもう、ためらいはなかった。確信に満ちた、祈りにも似た歌声が、霧の中に清らかに響き渡る。

 すると、それまで沈黙を保っていた『眠れる古龍樹』が、ついに反応を示した。

 扉を覆う巨大な根が、ゆっくりとではあるが、確実に動き始めたのだ。根に刻まれていた古代の紋様が、淡い、優しい緑色の光を放ち始める。それは、何百年もの永い眠りから覚めた、生命の息吹の光だった。


 ゴゴゴゴ……。


 大地が震えるような、重々しい音と共に、樹の根が扉から離れていく。そして何世紀もの間、固く閉ざされていた石の扉が、ゆっくりと、ゆっくりと、その重い口を開き始めた。

 扉の隙間から、次の階層の、未知の、しかし決して邪悪ではない清浄な光が漏れ出してくる。


 騎士たちが、その神秘的で荘厳な光景に、息を呑んで立ち尽くす。

 扉が、完全に開かれた。


 レオとアリアは、互いの顔を見合わせた。

 そこには、もはや不信も立場の違いもなかった。ただ異なる知識と、異なる世界観を持つ二人が互いを認め合い、協力し、その結果、不可能を可能にしたという、深い達成感と、揺るぎない信頼だけがあった。

 レオは、生まれて初めて感じる温かい感情に戸惑いながらも、素直な言葉を口にした。


「……君がいなければ、この扉は永遠に開かなかった。ありがとう、アリア」


 その言葉に、アリアは最高の笑顔で頷き返した。

 彼女の『非論理』と、彼の『論理』が融合して生まれた、奇跡の鍵。

 その鍵で開かれた扉の向こうに待つ、新たな試練に向けて、二人の心は今、確かに一つになっていた。

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