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第九話 沈黙

 閃光が晴れた後、『叡智の大書庫』には完全な静寂が戻っていた。

 空間を歪めていた陽炎かげろうは消え失せ、ひとりでに乱舞していた魔導書は、その魔力を失って床に散らばっている。まるで悪夢から覚めたかのような、しかし悪夢の爪痕が生々しく残る、奇妙な静けさだった。


 『揺らぎ』のグレンは、オルティス団長の『光の剣』とアリアの『聖光爆裂』の直撃を受け、その体を維持できずにいた。彼の輪郭はノイズの走った映像のように不確かに揺らぎ、足元から光の粒子となって、ゆっくりと霧散し始めている。


「……見事だ。実に、見事だよ……レオ君」

 もはや嘲笑の色はない、純粋な感嘆にも似た声で、グレンは呟いた。彼は自分の胸を貫いている光の剣を、まるで美しい芸術品でも眺めるかのように見下ろしている。

「私の『揺らぎ』を模倣し、中和するとは……。私の魂を、私の芸術を……ただの数式アルゴリズムだと看破したか。君の勝ちだ」

「お前の負けだ」

 レオは、まだ起動したままの『魔力変調器』の傍らで、静かに言った。「黒幕は誰だ。この塔で、一体何をするつもりだ」

「黒幕……?」グレンは、面白そうに首を傾げた。「さて、どうだろうな。私自身、誰かの駒として踊ったつもりはない。私はただ、美しいカオスを追求しただけだ。だが……私をここに導いた『声』は、確かにあった」

 彼の姿が、さらに薄くなっていく。

「気をつけろ、バックドア・キャスター。君は、システムの穴を見つけるのが得意らしいな。だが、君はまだ知らない。この世界のシステムそのものが、どれほど巨大な『穴』の上に成り立っているのかを。そして……その穴の底で、この塔の『心臓』が、再び脈打つのを待っているものの存在を……」

 それが、グレンの最後の言葉だった。彼の身体は完全に光の粒子となって霧散し、その粒子さえも書庫の魔力に溶けるようにして、跡形もなく消え去った。


 後に残されたのは、疲労困憊の騎士たちと、グレンの残した不吉な謎かけだけだった。

 オルティス団長は深い溜息をつくと、その場で部下たちに休息を命じた。騎士たちは床に座り込み、あるいは壁に寄りかかり、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、ぐったりとしている。何人かは互いの無事を喜び、肩を叩き合っていた。その輪の中にいつの間にか、レオの存在を当然として受け入れる空気が生まれていた。


「……見事な指揮だった、レオ君」

 オルティスがレオの元へ歩み寄り、その肩に手を置いた。「君がいなければ、我々は全滅していただろう。君の戦い方は、我々の常識とは違う。だが、それは紛れもなく、国を救う力だ。礼を言う」

 その言葉には、偽りのない感謝と敬意が込められていた。

「別に」レオは、視線を合わせずに答えた。「ただの知的好奇心の結果ですよ。それに、最後に彼を倒したのは、あなた方の力だ」

 その素っ気ない返事の中に、以前にはなかった、仲間を認める響きが微かに混じっていることに、アリアだけが気付いていた。


 彼女はレオの隣りに座ると、自分の水袋をそっと差し出す。レオは、今度は黙ってそれを受け取った。

「……私の故郷の話を、したことがあっただろうか」

 アリアが、唐突に切り出した。

「南方の『霧深き森』の近く、とか言っていたな」

「そうだ」彼女は、遠い目をして続けた。「私の故郷では、魔法は中央アステリアの理論とは少し違う形で伝わっている。もっと自然と一体になった、古い形の……。そこでは、術式とは魔力を『制御』するものではなく、自然の持つ魔力の流れに、そっと『お願い』して、道筋を少しだけ変えてもらうようなものだと教わる」

「非論理的ですね。再現性のない、ただの迷信だ」

 レオは、いつもの調子で切り捨てた。だがその声には、以前のような完全な否定の響きはなかった。

「そうかもしれない」アリアは、苦笑した。「だが、グレンのような術者を見ていると、思うんだ。論理やシステムを突き詰めた先にあるのが、あの歪んだ芸術なのだとしたら……。私たちの信じる、非論理的で不確かな魔法にも、何か意味があるのかもしれない、と」

「……」

 レオは、何も答えなかった。しかし彼は、アリアの言う『非論理的な魔法』というものに、これまで感じたことのない、新たな興味を抱き始めていた。アカデミーで、彼が「非効率的だ」と切り捨ててきた、古い伝承や土着の儀式。それらの中に、自分がまだ知らない、全く別の『システムのルール』が隠されている可能性。


 束の間の休息の後、塔の最上階を目指して、一行はさらに上へと進むことを決めた。

 グレンがいた『叡智の大書庫』より上の階層は、もはや建造物としての原型を留めていなかった。

 第六階層は、巨大な植物園――『生命の揺り籠』と呼ばれる場所だった。そこは、本来なら厳密な環境管理の下で育成されるはずであった、様々な時代の、絶滅したはずの植物たちが、異常な魔力によって無秩序に繁殖し、さらには巨大化した、熱帯のジャングルのような空間だった。湿度が高く、甘ったるい花の匂いと、腐敗するような土の匂いが混じり合った空気とが、肺を満たす。天井からは、光る苔に覆われた太い蔦が垂れ下がり、足元には、人の背丈ほどもあるシダ植物が、迷路のように生い茂っていた。美しいが、同時に、生命の暴走を感じさせる、恐ろしい場所だった。


「……道がないな」

 オルティスが、鬱蒼と茂る植物の壁を見上げて呟く。

 一行は、ジャングルのような植物園の道なき道を進んでいった。そしてその最奥で、ついにそれを見つけた。

 次の階層へと続く、巨大な扉。

 だがその扉は、まるで世界樹の一部がこの塔を貫いて生えてきたかのような巨大な樹――《眠れる古龍樹》の幾重にも絡み合った太い根によって、固く、固く封印されていた。

 扉そのものは古びた石造りだったが、その中央には一枚の石板が埋め込まれており、そこに微かな魔力の光を放つ、古ルーン文字が刻まれている。


「……これは」

 アリアがその文字を読んで、息を呑んだ。

「読めるのか、アリア騎士」

「はい。私の故郷に伝わる、極めて古い地方言語です。これは……詩、のようです」

 彼女はゆっくりと、その文字を声に出して読み上げた。


「――遥か南方の『霧深き森』の唄を聴くまで、我は開かず」


 その言葉を聞いて、騎士たちは顔を見合わせた。

「唄、だと? 魔法の詠唱ではなくか?」

「どういう意味だ……?」

 そのざわめきをよそに、レオは既に扉の前に進み出て、いつものように分析を開始していた。彼は観測機器を展開すると、扉とそれを覆う巨大な樹の根に向かって、魔力パルスを放った。

 だが、返ってきた反応は、彼の予想を完全に裏切るものだった。


 これまでの結界やゴーレムは、彼の放ったパルスに対して、吸収、反射、あるいは変換といった、何らかの『応答レスポンス』を返してきた。しかしこの扉と樹は、彼の放った魔力パルスを、まるでそれが存在しないかのように、完全に無視した。パルスは扉に何の作用も及ぼさず、ただ通り抜けて、背後の壁に当たって霧散するだけだった。


「……反応がない?」

 レオは眉をひそめ、何度かパルスの周波数や強度を変えて試した。だが、結果は同じだった。

 彼は次に、微弱な干渉魔法を試みた。だがそれも、まるで空気に溶けるように、何の痕跡も残さずに消えてしまう。


 ――どうなっている? 術式が、反応しない……? スリープモードか? いや、違う。これは、魔力そのものをトリガーにしていない。術式自体が、特定の『環境情報』が満たされることを、起動の絶対条件にしているんだ。極めて受動的な、条件分岐。正しい環境キーが揃わない限り、この術式はこの世界に存在しないも同然だ。これでは……ハッキングしようにも、肝心の『ドア』すらないじゃないか!


 レオの額に、焦りの汗が滲んだ。

 彼の『論理』や『ハッキング』は、アクティブに動作しているシステムに対して有効な武器だった。しかし、完全に『沈黙』し、ただひたすらに『待って』いるだけの、この巨大な壁の前では、なす術がなかった。グレンとの戦いとは全く質の違う、絶対的な行き詰まりだった。


「クソッ、どうなってやがる……!」

 彼が、思わず悪態をついた。その焦燥に満ちた姿を、アリアは初めて見た。

 オルティス団長は事態を打開しようと、部下に物理攻撃を命じた。

「ええい、埒が明かん! 叩き壊せ!」

 二人の屈強な騎士が、魔力を込めた巨大な戦斧を、樹の根に叩きつける。だが凄まじい轟音と共に、戦斧は硬いゴムにでも当たったかのように弾き返され、根には傷一つついていなかった。それどころか、根は攻撃の衝撃を吸収し、その部分だけが、僅かに青々とした光を放った。それはまるで、喜んでいるかのように。


 一行は、突破不能な壁を前に、完全に途方に暮れた。

 レオは、苛立たしげに扉の前に座り込み、自分の専門外の『知識』や『文化』といった、非論理的な要素が鍵を握るという、受け入れがたい可能性に直面していた。彼のプライドが、それを認めることを拒んでいた。


 その時アリアが、扉に刻まれたルーン文字を、もう一度、指でそっとなぞっていく。

『霧深き森』の唄。

 その言葉が、彼女の記憶の奥底に眠っていた、遠い日の情景を呼び覚ました。

 それは、彼女がまだ、騎士になるなど夢にも思っていなかった、幼い頃。故郷の森で、祖母がよく歌ってくれた、不思議な旋律の子守唄。眠れない夜にその唄を聴くと、森の木々が、風に葉を揺らす音で、それに答えるかのように優しく囁き返してくれた……。


「まさか……」


 アリアはほとんど無意識に、その懐かしい旋律を、声には出さずにそっと口ずさんでいた。


「あの子供の頃に聞いた、ただの子守唄が……。そんなはずは、ない……」


 しかし彼女の心の中には、確信にも似た小さな、しかし確かな光が灯り始めていた。

 それは、レオの信じる『論理』の光とは違う、もっと暖かく、もっと曖昧で、そしてもっと古い、記憶と伝承の光だった。

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