プロローグ
王都アステリアは、夜こそがその真の顔を見せる街だ。
古い石造りの街並みを、まるで巨大な生命体の神経網のように、青白い光が駆け巡る。家々の軒先で規則正しく明滅するのは『魔導灯』。空を音もなく滑っていくのは『魔力式昇降機』。街全体が、低く心地よい魔力の駆動音に包まれ、空気は雨上がりの土の匂いに混じって、わずかに電離したマナの、清潔な金属臭が漂う。
ここでは魔法とは、祈りや奇跡の言葉ではない。数百年前から世界を駆動させるための精緻なエネルギーであり、人々の生活の隅々にまで深く根差した、巨大な『体系』そのものである。
そんなシステムの片隅、古い街路が入り組む商業区に、レオの仕事場はあった。看板には消えかけた文字で『アルマの魔導具店』と綴られている。近所の人間は親しみを込めて、あるいは少しの侮蔑を込めて、その店を『ガラクタ堂』と呼んだ。
「……なるほど。構造的欠陥、か」
レオはカウンターの隅で、壊れた自動人形を弄りながらひとりごちた。依頼主は「うまく踊ってくれない」とだけ言ったが、彼の目にはその原因が手に取るように分かった。通常の技師なら魔石を交換して終わらせる修理だろう。だがレオは、先端に魔力を込めた鉄芯で、魔石に刻まれた魔力紋そのものを直接書き換えていく。それは修理というより、設計思想へのハッキングに近い。
気だるげな表情とは裏腹に、その指先は外科医のように正確だった。彼は世界の理そのものを、まるで自分の手足のように扱ってみせる。しかし、その瞳の奥に宿る鋭い光に気づく者は、ほとんどいない。
不意に、レオは顔を上げた。窓の外に広がる王都の夜景に、何かを感じたからだ。
彼の目には、無数に明滅する『魔導灯』の光がただの夜景ではなく、巨大な情報網が送受信する、無数の信号の奔流に見えていた。完璧に同期し、寸分の狂いもなく都市機能を維持する、美しい光のオーケストラ。彼にとって、この完璧すぎるシステムは、時に退屈ですらあった。
だが、今。その完璧な調和の中に、ほんの僅かではあるが、決して見過ごすことのできない『ノイズ』が混じった。
千の光が一斉に明滅する、そのコンマ数秒の周期が、ほんの一瞬だけずれた。他の誰にも、おそらく王都の魔力制御AIでさえ感知できないであろう、あまりにも微細なシステムの『揺らぎ』。それは、完璧に調律された楽器が一音だけ狂ったような、彼の美意識を逆撫でする不快な違和感だった。
「……なんだ、今の?」
レオは眉を顰め、窓の外の光のネットワークを睨む。彼の脳の片隅で、無意識のうちに、膨大な量のシステムログが、比較・検証され始めていた。しかし、そのノイズは一度きりで、夜景は再び何事もなかったかのように、その完璧な調和を取り戻していた。
「気のせい、か」
彼は小さく首を振り、手元の作業に戻る。
それでも、その胸に残った小さなさざ波は、消えることがなかった。彼の思考は、人形の修理を続けながらも、先ほどの『ノイズ』の正体に思いを巡らせていた。
どんなに堅牢に見えるシステムにも、必ず綻びは存在する。そして、その最初の兆候は、いつだって取るに足らない、誰にも気付かれないレベルの些細なノイズから始まるのだ。
世界の安定が、静かに軋みを上げ始めていることを。その中心で、巨大な何かが目覚めようとしていることを、まだ誰も知らない。レオ自身でさえも。