50話:「永遠の架け橋」
桜が舞い散る春の午後、私は自宅のリビングで、子供たちの宿題を見ていた健太の姿を眺めていた。長男の太郎は小学校三年生、長女の花音は一年生になったばかり。二人の成長は、あっという間だった。
「パパ、この算数の問題がわからない」
太郎の声に、私はキッチンから振り返る。真剣な眼差しで問題用紙を見つめる彼の姿は、健太にそっくりだ。健太が微笑みながら息子の隣に座る。十年前とは違い、彼の存在改変はすっかり解けている。今では誰もが彼の本来の姿――落ち着いた表情と引き締まった体格――を自然に受け入れている。
「どれどれ、見せてごらん」
健太が太郎の問題を見ている間、私は夕食の準備を進めていた。健太の現実世界での職業は、国際関係学の大学講師だ。異世界での経験を活かし、異文化理解や紛争解決について教えている。学生たちに異世界のことを話すことはないけれど、そこで学んだ平和構築の理念は、彼の講義に深く活かされている。
「お疲れ様!」
玄関のドアが開く音と共に、私の声が響く。近所のスーパーから買い物を終えて帰ってきたのだ。
「おかえり」
健太が振り返って微笑んでくれた。私は買い物袋を置くと、太郎と花音の頭を撫で、最後に健太の頬にそっとキスをした。
「今日はどうだった? 明日は家族でハーモニアに行く予定よね」
「そうだね。太郎と花音も楽しみにしてるし」
そう、十年が経った今、私たちの家族は定期的に異世界を訪れている。子供たちにとって、人間と魔族が共に暮らすハーモニアは、第二の故郷のような存在になっていた。
翌日の土曜日、私たち家族は異世界ハーモニアの市長室に転移した。豪華ではないが機能的で温かみのある執務室。壁には人間と魔族が協力して街を建設している写真が飾られている。
「パパ、今日はどんなお仕事?」
花音が私の手を引きながら尋ねた。
「新しい勇者さんが来たから、お話をするんだよ」
「僕たちも一緒にいていい?」
太郎が目を輝かせた。子供たちも既に何度か新しい勇者と会ったことがあり、異世界の事情をよく理解している。
「もちろんです」
市長室のドアが開くと、副市長を務める鈴木由希子が入ってきた。彼女は現実世界では総合病院で看護師長として働きながら、ハーモニアでは医療政策を担当している。
「おはようございます、田中市長。花さん、太郎君、花音ちゃん」
「由希子おばちゃん!」
子供たちが駆け寄っていく。由希子は現実世界では結婚して一児の母になっているが、夫も異世界のことを理解し、協力してくれている。
「新しい転移者の件ですが、昨日の夜遅くに確認できました。看護学部に通う大学生です。茜さんと神崎先生が対応してくれています」
程なくして、佐藤茜と神崎麗華先生が到着した。
茜は現実世界では建設会社を経営しており、ハーモニアのインフラ整備の責任者も務めている。結婚こそしていないけれど、恋人もいて、彼も異世界のことを知っている数少ない理解者の一人だ。
「よう、健太。また新しい子が来たぞ」
茜は相変わらず豪快な笑顔で手を振った。
神崎先生は現実世界で高校教師を続けながら、ハーモニアでは教育政策と転移者のカウンセリングを担当している。彼女も結婚しており、夫は同じ学校の教師で、やはり異世界の秘密を共有している。
「田中君、今度の転移者はとても真面目な女の子で、神の言葉に強い使命感を感じているようです」
市長室に案内されてきた女子大生は、年の頃二十歳前後で、真面目そうな顔立ちをしていた。名前は中村さんと名乗った。
「あの、田中市長でいらっしゃいますか? 皆さんから話は伺いました」
「はい、田中健太です。こちらは妻の花、息子の太郎、娘の花音です」
「え……ご家族も?」
中村さんは驚いた様子だった。勇者と言われて転移してきたのに、目の前には平和そうな家族がいる。その戸惑いは、かつての私たちが感じたものと全く同じだった。
「中村さん、まず一つ聞かせてください。転移の時、どんな声が聞こえましたか?」
健太の問いに、中村さんは答える。
「神様の声でした。『魔王を倒し、この世界を救え』と。でも、皆さんの話では、魔王は悪い存在ではないと……」
太郎が前に出てきた。
「おねえちゃん、魔王のアルカディウスおじいちゃんは、とってもやさしいんだよ。この前、お菓子もくれたし」
「太郎君の言う通りです」
私は息子の頭を撫でながら言った。
「私たちも最初は同じように混乱しました。でも、真実は神様が教えてくれたこととは違っていたんです」
私たち一家と仲間たちは、中村さんを連れてハーモニアの街を案内した。十年前には何もなかった平原に建設された街は、今では人間と魔族が共に暮らす理想の都市となっている。
「すごい……本当に人間と魔族が一緒に生活してる」
街の中央広場では、人間の商人と魔族の客が商談をしている。子供たちは種族に関係なく一緒に遊び回っている。
「あ、ルナちゃん!」
花音が手を振ると、角の生えた可愛らしい魔族の少女が駆け寄ってきた。ルナという名前で、両親を亡くした孤児だが、今ではハーモニアの養護施設で元気に育っている。
「花音ちゃん! 太郎君も!」
「ルナちゃん、この人は中村おねえちゃんだよ。新しく来た勇者さんなの」
子供たちの自然な交流を見て、中村さんは言葉を失った。
「十年前、健太もあなたと同じように転移してきました。最初は魔王を倒すことが正義だと思っていた。でも、真実は違ったんです」
健太は自分の体験を語った。魔王との出会い、神に騙されていた事実、そして今に至るまでの経緯を。
茜が腕を組んで言った。
「私たちはここで、人間と魔族の真の平和を作り上げてるんだ。力づくじゃなく、理解と協力でな」
由希子も頷いた。
「医療分野では特に、人間と魔族の技術を融合することで、どちらにとっても有益な治療法を開発できています」
神崎先生が補足した。
「教育面でも、両種族の子供たちが一緒に学ぶことで、偏見のない新しい世代が育っています」
翌日、私たち家族は中村さんを魔王城に連れて行った。アルカディウスは相変わらず威厳がありながらも温和な表情で私たちを迎えた。
「田中市長、ご家族の皆様。そして、新しい勇者の方ですね」
「アルカディウスおじいちゃん!」
太郎と花音が駆け寄っていく。魔王は優しく二人を迎え入れた。
「二人とも、また大きくなりましたね。勉強は順調ですか?」
「うん! 太郎は算数が得意になったよ」
「花音は魔族語も覚えたの」
中村さんは、この光景に完全に混乱していた。恐ろしいはずの魔王が、まるで優しい祖父のように子供たちと接している。
「恐れることはありません」
アルカディウスが中村さんに向き直った。
「私はあなた方人間を憎んではいません。ただ、自分の民族を守りたいだけなのです」
アルカディウスは自分の家族の写真を見せた。美しい王妃と、成長した王子と王女の写真だった。
「この子たちの未来を守りたい。それは人間も魔族も同じでしょう? 田中市長のご家族を見ていれば、よくわかります」
中村さんの目に涙が浮かんだ。彼女もまた、故郷に大切な家族を残してきていたのだ。
「わかりました……私は間違っていました。魔王様、申し訳ありません」
その後、中村さんは勇者としての使命を放棄し、ハーモニアで法務官として働くことを決めた。彼女の法学の知識は、人間と魔族の間で起こる小さなトラブルを解決するのに役立った。
「ありがとうございます、田中市長。あなた方がいなかったら、私は大きな間違いを犯すところでした」
「いえいえ。君が自分で判断したんです。僕たちはきっかけを作っただけ」
「それに、ここには太郎君や花音ちゃんのような子供たちがいる。未来への希望があるんですね」
私は微笑んだ。
「この子たちが大人になる頃には、きっともっと素晴らしい世界になっているわ」
夕方、市長室に戻ると、茜が建設プロジェクトの報告をしていた。
「新しい住宅区画の建設が順調に進んでる。人間と魔族の混合住宅も人気だな」
由希子が医療関係の書類を整理しながら言った。
「新しい病院の開設準備も整いました。人間と魔族の共同医療チームも編成完了です」
神崎先生が教育資料を広げた。
「来月から新しいカリキュラムを導入します。両種族の歴史と文化を学ぶ授業です」
太郎が興味深そうに書類を覗き込んだ。
「僕も大きくなったら、ここでお仕事したい」
「私も!」
花音も元気よく手を上げた。
健太は子供たちを見て微笑んだ。彼らにとって、異世界での活動は特別なことではなく、自然な日常の一部なのだ。
現実世界への帰還
その夜、私たち家族は現実世界に戻った。子供たちは異世界での一日を興奮気味に話している。
「今日は楽しかったね」
私が夕食の準備をしながら言った。
「中村さん、いい人だったよね」
太郎が言うと、花音も頷いた。
「魔族のお友達とも遊べたし」
健太は私の隣に立って、野菜を切る手伝いをしてくれた。
「君たちがいてくれるから、向こうでの仕事もうまくいく。家族みんなで平和を作っていけるのは幸せだよ」
「私たちも、あの世界で多くのことを学ばせてもらってる。太郎も花音も、異文化理解の能力が自然に身についてる」
その夜、子供たちを寝かしつけた後、健太と私は二人でベランダに出て星空を見上げた。
「もう十年になるのね」
「早いような、長いような」
「でも、充実してたわ。家族みんなで一つの目標に向かって進めて」
私は健太の腕に自分の腕を絡めた。
「みんなが協力してくれるから、ここまで来れたんだ。茜も由希子も神崎先生も、それに健太と子供たちも」
仲間たちの充実した人生
翌週の会議で、それぞれの近況を報告し合った。
由希子は現実世界での看護師長としての仕事と、ハーモニアでの医療政策の両立に充実感を感じていた。
「夫も息子も、私の活動を理解してくれて。息子はまだ小さいけど、もう少し大きくなったらハーモニアに連れてきたいな」
茜は建設業界での成功と、ハーモニアでのインフラ整備の責任者としての役割を誇りに思っていた。
「恋人も、私がやってることを『かっこいい』って言ってくれるんだ。結婚の話も出てるしな」
神崎先生は教師としての経験が両世界で活かされることに喜びを感じていた。
「現実世界の生徒たちにも、異文化理解の重要性を伝えられてる。直接的には話せないけど、ハーモニアで学んだことは必ず教育に反映されてる」
永遠に続く使命
その日の午後、また新しい勇者の転移があったという連絡が入った。今度は女子高生だった。
「みんなで行こう」
健太が提案すると、子供たちも嬉しそうに手を上げた。
「今度も女の子なの?」
太郎が尋ねると、花音も隣で頷いた。
「きっと不安だと思うから、優しくしてあげなきゃね」
花音が言うと、太郎も頷いた。
私たち家族全員で市長室に転移すると、既に茜、由希子、神崎先生が待っていた。そして、困惑した様子の女子高生が座っていた。
「こんにちは。私、田中花です。こちらは夫の健太と、子供の太郎と花音」
私が優しく声をかけると、女子高生の表情が少し和らいだ。
「あの……本当に異世界なんですか?」
「そうよ。でも怖いところじゃないの。太郎、花音、案内してくれる?」
「うん!」
子供たちが女子高生の手を取って立ち上がった。
神の力は確実に弱まっている。十年前は毎月のように転移者があったが、今では年に数回程度だ。それでも、転移してくる人がいる限り、私たちの使命は続く。
でも、それは決して重い負担ではない。家族みんなで、仲間みんなで協力して作り上げてきた平和だからこそ、それを守り続けることに誇りを感じている。
健太は、自分たちが永遠の架け橋となって、二つの世界を結び続けることを改めて決意した。家族との幸せな日常も、異世界での使命も、仲間たちとの友情も、全てが一つに繋がった素晴らしい人生だと感じていた。
そして、この物語は終わらない。新しい勇者が転移してくる限り、私たちの戦いは続いていく。でも、それは決して絶望的な戦いではない。理解と愛によって結ばれた、希望に満ちた物語なのだから。
「僕たちは、永遠の架け橋になる。人間と魔族、現実と異世界、そして過去と未来を結ぶ架け橋に」
健太は、家族と仲間たちと共に、そう心に誓いながら新しい一日を迎えるのだった。




