32話:現実世界への帰還、変わってしまった日常
オーガ討伐を終え、生徒たちと合流して新たなパーティを結成した私は、その日の夜、ギルドの宿屋で異世界転移のスキルを試すことにした。
生徒たちから聞いた「時間の流れが違う」という衝撃的な事実を、自分の身で確かめるためだ。
目を閉じ、意識を集中する。
スキルを発動すると、体の内側からじんわりと温かい光が満ちていくのを感じた。
次に目を開けた時、見慣れた自室の天井が視界に広がる。
部屋はすでに夜の帳に包まれ、カーテンの隙間からは街の明かりがぼんやりと漏れている。
壁の時計に目をやると、異世界へ転移した放課後の時間から、わずか五時間しか経っていない午後九時を指していた。
(まさか……異世界で五日間も過ごしたはずなのに、現実世界ではまだ日付が変わっていないなんて……!)
私は驚きに目を見開いた。
ヴェサリウスのギルドで生徒たちが教えてくれた、「現実世界の一時間が異世界での二十四時間」という話は、紛れもない真実だったのだ。
「本当に時間が経っていない……これなら、両立できる……!」
私の口から、安堵と確信の呟きが漏れた。
時間という、常に私を縛り付けてきた鎖が、突如として解かれたような感覚だった。
これなら、教師としての職務を全うしながら、異世界での冒険も続けられる。
それは、まさに私の望んでいた、理想的な生活の始まりだった。
異世界での冒険を経て、私の現実世界での日常は劇的に変化した。
まず、授業準備だ。
異世界へ転移する際、教師として常に持ち歩いているノートパソコンと教材一式を無意識のうちに手にしていた私は、現実世界での業務も異世界で片付けるという、新しい習慣を身につけていた。
ギルドの片隅、冒険者たちの喧騒がBGMとなる中で、私は集中して教材研究や生徒の課題採点に没頭することができた。
邪魔が入ることなく、目の前の作業に没頭できる環境は、職員室でのそれとは比べ物にならないほど効率が上がった。
しかし、すぐに問題に直面した。
ノートパソコンのバッテリー残量だ。
現実世界では充電できるが、異世界ではそうはいかない。
万事休すかと思われたその時、ギルドの職員から驚くべき情報を得た。
異世界には「魔道具」というものが存在し、その中には魔石のもつ膨大な力を電力へと変換する道具もあるという。
高価ではあったものの、この環境での作業効率を考えれば安いものだった。
私は早速それを手に入れ、以降はバッテリーの心配なく、不自由なく異世界で現実世界の仕事を片付けられるようになった。
(今まで、何に時間をかけていたんだろう……)
以前は深夜まで作業に追われていた残業時間も、あっという間に片付く。
余った時間は、異世界での活動に充てられる。
それは、まさに理想的な生活だった。
しかし、身体能力の向上は、時としてハプニングを引き起こした。
朝、職員室へ向かう階段を上がる時だ。
私は無意識のうちに、異世界での感覚で足を動かしていた。
一段一段を軽やかに、ほとんど跳ねるように駆け上がると、先に着いていた同僚が目を見開いて私を見た。
「神崎先生、今の、まるで浮いてるみたいでしたよ!何か良い運動でも始められたんですか?」
「え、ええ……少々」
とごまかすのが精一杯だった。
授業中にも事件は起きた。
板書のためにチョークを手に取り、熱心に力を込めて黒板に文字を書き始めた瞬間だ。
カチッという嫌な音と共に、チョークは私の指先で粉砕され、さらに黒板にはヒビが入った。
「あ……ごめんなさい、力が入りすぎたみたいで」
生徒たちの視線が私に集中する。
教師としての冷静さを保ちつつ、必死で平静を装った。
体育の時間、バスケットボールの授業ではさらに大きなハプニングに見舞われた。
普段通りのつもりでシュートを放つと、ボールは恐るべき勢いでリングを通過し、そのまま体育館の壁に激突して、鈍い音を響かせた。
「す、すげぇ……」
「プロでもあんなシュート打てないだろ……」
生徒たちの呆れたような、しかし尊敬の眼差しに、私は冷や汗をかいた。
異世界での身体能力が、日常のあらゆる場面で顔を出す。
これは、気をつけなければならない。
その時、まるで微かな霧が脳にかかるような感覚がした。
すると、生徒たちの表情が、さっきまでの驚きから、どこか納得したような表情に変わっていくのが見て取れた。
「ま、まあ、神崎先生ならあり得るか……」
「普段から身体能力高そうだしな!」
彼らの口から、状況を無理やり納得させるような言葉が漏れる。
私自身の認識は改変されないが、周囲の人間には、私の超人的な行動が
「少し驚くべきだが、常識の範囲内の出来事」として処理されているようだった。
結果的に経年劣化ということで、みんな納得していた。
生徒たちとの関係性も大きく変わった。
田中、花、由希子、茜の四人とは、「異世界」という秘密を共有する特別な絆が生まれた。
昼休みには、他の生徒に気づかれないように集まって、こっそりと異世界での出来事を報告し合ったり、今後の計画を立てたりする。
彼らの前では、私は一人の冒険者として振る舞うことができた。
その一方で、他の生徒たちとの間には、微妙な距離感が生まれたように感じられた。
彼らの悩みや興味が、どこか遠い世界の出来事のように感じられてしまう。
(この子たちの本当の凄さを知っているのは、私だけなのだ)
そう思うと、少しばかりの優越感と、同時に、共有できない秘密を抱える孤独感も覚えた。
放課後、私はいつものように生徒たちの下校を見守っていた。
その時、予想だにしない事態が起こった。
横断歩道を渡ろうとした生徒(クラスの女子生徒だった)が、左右確認を怠ったトラックに轢かれそうになったのだ。
けたたましいブレーキ音が鳴り響き、鈍い鉄の塊が少女に迫る。
「危ない!」
私の体が反射的に動いた。考えるよりも早く、私は少女の前に飛び出し、全身の魔力を込めて叫んだ。
「『ライトシールド』!」
眩い光が弾け、透明な光の盾が瞬時に少女の目の前に展開された。
トラックのフロントガラスが光の盾に激突し、鈍い音と共に完全に停止する。
少女は、何が起こったのか理解できずに、呆然と立ち尽くしていた。
私によって、彼女は無傷で救われたのだ。
周囲にいた人々が、一様に騒然となる。
「なんだ今の光は?」
「車が急に止まった?」
「まさか幽霊でも見たのか?」
混乱した声が飛び交う中、私はトラックの運転手が顔を青ざめさせているのを見た。
このままでは、大騒ぎになる。
しかし、人々の脳裏に、「車が急ブレーキをかけたことで、奇跡的に事故を免れた」という記憶が、まるで最初からそうであったかのように上書きされていくのが分かった。
人々は、混乱しつつも、やがてその説明に納得したように頷き始めた。
その瞬間、私の頭の中に、異世界で花たちが話してくれた「認識阻害」の話を思い出した。
それは、この世界が持つ、常識を逸脱した事象を人々の記憶から自動的に修正する、「秩序を保つためのシステム」として機能しているというものだった。
私だけが、真実を覚えている。あの光の盾、そして瞬時に介入した自分の行動を。
(この力……現実世界でも、人を救えるんだ……!)
私は、自身の掌を見つめた。異世界で得た力が、こんな形で現実世界の人々を守ることに繋がる。
それは、教師としての私にとって、何よりも大きな喜びであり、新たな使命感を生み出す出来事だった。




