26話:神崎麗華、異世界へ
ここからは神崎麗華先生目線のお話です。
生徒たちが消えた場所には、空間が微かに歪むような、膜のようなものが揺らいでいるように見えた。
それは、私の知的な感覚が捉えた、異質な「何か」の痕跡。
あの四人が、一体どこへ消えたのか。
この「何か」が、その答えを握っている。
私は迷わなかった。
生徒たちの姿が吸い込まれるように消え失せたその場所に、私は恐れることなく足を踏み入れた。
足裏に、ひんやりとした、しかし確かな抵抗を感じる。
次の瞬間、視界が白く染まり、体がぐっと引っ張られるような、
強烈な浮遊感が私を襲った。
まるで、真空のチューブを高速で落下していくような、平衡感覚を失う感覚。
全身の細胞が軋むように感じられたが、生徒たちを追いかけるという使命感が、その全てを上回る。
気がつけば、しっとりとした土の感触を足裏に感じていた。
あたりは鬱蒼とした森で、夕暮れ時特有の薄暗さが支配している。
遠くから、聞き慣れない獣の鳴き声が響いてくる。
「ここが……異世界……」
茫然と立ち尽くす私の目の前に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。
『ようこそ、異世界へ。あなたは【冒険者】としてこの世界で生きる力を得ます』
『武器を選択してください:剣、斧、槍、弓、杖、素手』
私は一瞬躊躇した。
戸惑いや驚きよりも先に、冷静な分析が始まる。
この状況で最適なのは何か。自身の体幹の強さを活かせる、リーチのある武器。
「……槍を」
私がそう選択すると、手の中に硬質な感触が生まれた。
見れば、質素ながらも精巧な造りの銅の槍が握られている。
そのずっしりとした重みが、ここが現実ではないことを如実に物語っていた。
『スキルを獲得しました:槍術習熟(微小)』
『新たな力が覚醒しました。戦闘を経験することで、その能力は明らかになるでしょう』
私の頭を最初に過ったのは、明日の学校の授業と、出勤のことだった。
(いけないわ!明日は朝から会議があるし、生徒たちを放っておくわけにはいかない!)
私は一人暮らしだ。
家族に心配をかけることはないが、教育者としての責任感が強く、無断欠勤など考えられなかった。
一刻も早く、あのゲートを通って現実世界に戻らなければ。
その時、森の奥から、複数の低い唸り声が聞こえてきた。
「グルオオオオ!」
現れたのは、醜悪な顔をした緑色の肌の生物――ゴブリンの群れだった。
5、6匹のゴブリンが、手に粗末な棍棒を持って、私めがけて襲いかかってくる。
「ふっ!」
私は槍を構え、冷静に応戦した。
普段から体幹を鍛え、教師としての体力には自信がある。
ゴブリンの棍棒を軽くいなし、鍛えられた体幹から繰り出される槍の一突きは、正確にゴブリンの急所を貫いた。
『経験値を獲得しました。』
ゴブリンはあっけなく倒れる。
私は生徒を心配する一心で、無我夢中だった。
一匹、また一匹と、次々にゴブリンを撃退していく。
『レベルアップしました!』
『スキルを獲得しました:ライトシールド』
ゴブリンの棍棒を受け止めた瞬間、私の左腕に淡い光の盾が具現化した。
私は驚くことなく、その光の盾で次の攻撃を受け流し、槍を振るった。
「こんなところで、時間を取られている場合ではないわ!」
私は急いで森の中を駆け抜けた。
生徒たちを探さなければならない。そして何より、現実世界に戻らなければ。
数時間後、夜のとばりが降りる頃、私は疲労困憊になりながらも、一つの街の門にたどり着いた。
門番の兵士に、ここはどこかと尋ねる。
「ここは、始まりの街コレットだ」
無愛想な返答に、私の胸に鉛のようなものが沈んだ。
始まりの街。ということは、ここが異世界の入り口だ。
そして、どうやら私はまだ、元の世界に戻る方法を見つけられていないらしい。
(まさか、戻れない……?いいえ、そんなことはありえない。必ず方法はあるはずだわ)
冷静になろうと努めながら、私はふと、違和感を覚えた。
意識を集中すると、アイテムボックスというメニューが目の前の半透明のウィンドウに現れた。
開くと、そこには倒したゴブリンやスライムの魔石が数個と、そして、現実世界で身につけていた教師の制服やカバン、財布までがそのまま入っていた。
(これは便利だわ……でも、現金がない)
財布の中身は空っぽだった。
異世界で使える通貨を持っていないことに気づき、私は途方に暮れる。
その時、視界の隅に、「冒険者ギルド」と書かれた看板を掲げる建物が目に入った。
私は迷わずギルドの扉を開けた。
中に入ると、受付にいた男性職員が対応してくれた。
「冒険者登録をしたいのですが、可能でしょうか」
私は毅然とした態度で尋ねた。
事情を説明し、魔石を売却することで、ようやく異世界で使える通貨を手に入れた。
手に入れた僅かなレムを握りしめ、私はギルドの紹介で『羊飼いの憩い』という宿屋へと向かった。
宿屋のカウンターに立つ主人に声をかける。
「一泊、おいくらになりますか?」
「お客様、一泊60レムになりますが」
主人の言葉に、私は手元のレムを確認した。
持ち合わせているのは、わずか40レム。
やはり足りない。
急いでゴブリンの群れを突破してきたため、稼ぎが少なかったのだ。
私はギルドに戻り、再度男性職員に話しかけた。
「もう少し、効率よく稼げる依頼はありますか?宿泊費が足りないもので」
男性職員は、地図を広げて説明してくれた。「一角うさぎ」の討伐依頼は、1匹100レムと高額な報酬だという。私は背に腹は代えられず、その依頼を引き受け、バンバカバンの丘へと向かった。
バンバカバンの丘に到着すると、私は血生臭い光景を目にした。
大きな白いうさぎが、ゴブリンらしき肉を貪り食っている。
「ッ……!」
私は思わず顔を背けた。
いくら魔物とはいえ、同族を喰らうような醜悪な光景に、私は生理的な嫌悪感を覚えた。
だが、宿のためだ。
私に気づいた一角うさぎは、低い唸り声を上げ、血に濡れた口元を歪ませながら、真っ直ぐにこちらに向かってきた。
その突進は、見た目からは想像できないほどの速度と威力を持っていた。
私は『ライトシールド』を具現化し、迫りくる角を光の盾で受け止める。
衝撃で腕が痺れるが、私は教師としての冷静さを保っていた。
一角うさぎが体制を崩した隙を突き、槍でその胴体を突き刺す。
硬い毛皮と肉を貫く感触が、手のひらに伝わってくる。
「ぐぅ、グルルル!」
一角うさぎは苦悶の声を上げながら、それでも猛攻を仕掛けてくる。
私は盾で受け、槍で突き、少しずつ、しかし確実にその巨体を弱らせていった。
やがて、巨体は血溜まりの中に倒れ込んだ。
ギルドに戻り、報酬と魔石の売却価格を合わせて180レムを手に入れた私は、ようやく『羊飼いの憩い』の簡素な部屋にたどり着いた。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。
異世界での初の夜。
(一体、生徒たちはどこへ消えたのかしら……)
田中、花、由紀子、そして茜。あの四人の姿が脳裏をよぎる。
彼らもこの世界に転移しているのだろうか。
そして、無事なのだろうか。
(そして、私は……どうするべきなのか)
教師としての責任感が、この未知の世界で私を突き動かす唯一の理由だった。
疲労と、途方もない現実に、私は静かに眠りについた。
私の大切な教え子たち。
特に田中くん、佐藤さん、鈴木さん。
彼らは、この数ヶ月でまるで別人のように変わってしまった。
担任として、私は彼らの成長を喜ぶと同時に、その異常なまでの変化に大きな不安を抱いています。
もし、この物語を通して彼らのことを心配に思ったなら、ぜひ【評価】と【ブックマーク】で、彼らの無事を祈ってください。
あなたの祈りが、彼らに届きますように。




