第五章:勇者、ついに悟る
死者の谷を抜けた勇者一行は、西の大湿原へと足を踏み入れていた。
しかし――
「ズボッ」
「ぬあっ!? 靴が……沈んだ……」
「ちょっと!? スライムよりぬるぬるしてるんだけどコレ!!」
「ミナト! 足元に罠仕掛けんな!!」
「いやそれ地形!!」
――地獄だった。
足元はぬかるみ、湿気は凄まじく、虫の大群が耳元を飛び交い、全身がかゆくなる。
リリィの髪はもはやボンバーヘッド、ゴードンの鎧にはナメクジが三匹張りついていた。
「なあ、カイ」
「なんだよ、ゴードン……」
「この旅って……楽しいのか?」
「今更かよ!!」
一行は疲労の極みにあった。ノエルは神様と電波が悪くなったらしく、今日一日“無言の神託”とか言ってぼーっとしていた。
(つまり何も考えていない)
「……オレ、ちょっとだけ本気で転職考えてるんだけど」
カイは独り、湿地の水面に映る自分の顔を見つめていた。
髪は泥まみれ。マントは半分カエルに食われている。足元からは謎の泡がポコポコと立ちのぼり、なんとなく“もう戻れない”感じがする。
「俺……いつから勇者だったんだっけ……」
遠い目になる。そう遠くない過去、神殿の祭壇で光に選ばれたあの日。
「おぉ……この者こそ、光に選ばれし真の勇者!」
「うおぉぉぉ! 俺が世界を救うのか!!」
あの感動が……今ではどうだ。
毎日が泥と爆発と、謎の井戸との恋愛バトル。しかも一方通行。
「カイくーん! ナメクジって火で炙るとパチパチするよー!」
「その情報いらねぇよ!!」
リリィは湿原で完全に野生化していた。杖の先で火を灯しながら、まるで虫取り少年のような顔をしている。
「俺の旅、こんなんじゃなかったよな……」
そのとき、カイの背後から、ふわりとした声が聞こえた。
「……勇者カイよ……」
「……!?」
誰かの呼び声。振り返ると、濃い霧の中に、一人の老婆が立っていた。
「な、なんだお前!? こんなとこに人間が!?」
「我は……この湿原に迷い込んだ古の賢者……汝の悩み、全て見えておる」
「……ほんとに?」
「うむ。おぬし、最近パーティの無能さに絶望しておるな?」
「めっちゃ見えてるゥ!!」
カイはついに誰にも言えなかった心の内を吐き出した。
「俺さ……魔王を倒すって使命は本気で背負ってるんだ。世界を守りたい。平和な未来のために剣をとった。でも……!」
霧の中、背後ではリリィがカエルを口説き落とし、ゴードンは泥沼に沈んで気絶し、ノエルは空に向かって「本日のサイレントメッセージ、受け取りました」とか言っていた。
「――なんで俺だけ働いてるの!?」
カイの叫びが、湿原にむなしく響く。
老婆は頷いた。
「おぬし、よく頑張っておる……だがな、覚えておくがよい」
「えっ……何か救いの言葉、くれるのか?」
「――“無能は突然覚醒したりしない”」
「現実的すぎるううううう!!」
そこへミナトが、足にヒルを絡ませながら飛び出してきた。
「カイ!! たいへん! リリィが巨大ヒルに乗って突っ込んでくる!!」
「は!? どういう状況!?!?!?」
リリィ「うおおおおおおおおおお!!!!」
「乗り物みたいにすんなあああああああ!!!」
巨大ヒルに騎乗し、火球を連射する魔法少女(自称)と化したリリィは、湿原の生態系を完全に破壊しながら駆け抜けた。
老婆「……おぬし、心を強く持て」
「無理です!!!」
夜、湿原の外れで野営を取った一行。
焚き火の明かりの中、カイはぼーっと空を見つめていた。
「なあ、みんな……俺たち、いつか本当に魔王を倒せると思うか?」
ゴードン「筋肉があればなんとかなるだろう」
リリィ「お腹すいたー!」
ノエル「神様、今は夢の中におられます……」
ミナト「そもそも魔王って、まだ生きてるの?」
「お前ら誰一人まともに答えてくれねぇぇぇ!!」
カイはそのとき、悟った。
この旅は、戦いではない。**“試練”**でもない。これは――
「……日常だ……」
そう、この旅は「ポンコツどもと過ごす日常」だったのだ。
「――なるほど。これが“耐久型ストレスRPG”か……」
焚き火にパチン、と小枝がはぜる。
世界を救うその日まで、カイの胃は鍛えられ続けることになる。