第四章:僧侶、回復に失敗する
「……ここが“死者の谷”か……」
岩と枯れ木ばかりの荒れ地に、低くうなる風が吹きつける。空には黒い雲がたちこめ、気分までどんよりとする不吉な場所だった。
「ちょっと、ここ空気悪すぎない? 髪がパサつく!」
「今それどころじゃないだろ、リリィ」
「湿度は重要なのよ! ね、ノエル?」
「え? 湿度って何ですか?」
「そこからかよォ!!」
死者の谷には、過去に魔王軍が秘密基地を置いていたという情報があり、魔族の残留思念が多く漂っているらしい。つまり、おばけの巣窟。まさに僧侶の出番……のはずだった。
「さっきから視線を感じるんだが……」
ゴードンが剣の柄に手をかける。
「カイくん、あそこ!」
ミナトが指差す先、崩れた祭壇のような場所に、不気味な白い霧が漂っていた。
「来るぞ……構えろ!」
ふわり、と霧が集まり、一つの形を成していく。
髑髏の顔、腕のない幽霊のような姿、冷たい怨念に満ちた声が響く。
「……人間たちよ……なぜこの地に……」
「それはこっちのセリフだバカヤロー!!」
リリィが反射的に火球を放つ。
ボンッ!!!
霧が一瞬で吹き飛び、後ろにいたゴードンがまるごと巻き込まれて黒焦げになった。
「おい!? ゴードンが死んだぞ!?!?」
「死んでない、まだ生きてる……息してる……たぶん……」
「ノエル! 回復魔法だ! 今度こそ頼む!!」
「わかりました! では……ヒール・ライト!」
ノエルが唱えると、手のひらに神聖な光が集まり、ゴードンの頭上に降り注ぐ。眩しい閃光、温かな光……その直後、
バリバリバリバリバリィィッッ!!!
雷が落ちた。
「ギャアアアアアアアア!!??」
ゴードンがびっくりするほど真っ直ぐに感電し、煙を上げて地面に倒れた。
「どこがヒールだよおおおおおお!!!」
「おかしいですね……昨日まではちゃんと回復してたんですけど……神様が“この男は試練を受けるべき”って」
「お前の神様どんだけゴードン嫌いなんだよ!!」
「……いや、わからんでもないな……」と誰かが小声でつぶやいたが、たぶん全員同意していた。
なんとかゴードンを引きずって洞窟に避難した一行。
その内部は魔力のこもった霧に包まれ、亡霊たちがふわふわと浮かんでいた。
「うわぁ……おばけ多すぎじゃない?」
「ミナト、怖いのか?」
「違うし!? こ、これは戦略的な後退だし!!」
(半泣き)
「ノエル、君の出番だ。神聖魔法で祓ってくれ」
「はい!」
ノエルが両手を掲げて、祈る。
「偉大なる神よ……悪しき霊を浄化し、我らに癒やしと安らぎを――」
ずん。
背後から現れた巨大な亡霊が、そっとノエルの肩に手を置いた。
『ふふ……やっと見つけた……』
「えっ、怖ッ!?」
ノエルの顔が青ざめ、次の瞬間、彼女が詠唱を失敗する。
「ヒール・ブライトォォォォ……あれ!? あれぇ!?」
パァァァァァン!!!
また雷が落ちた。今度はパーティ全員が感電した。
「なんで全体攻撃になってんだよおおおおおおお!!!」
「たぶん神様が、“全員で試練を分かち合え”って……」
「神様ァアアア!!!」
結局、全員感電で倒れている間に、リリィが「もういいやー!」と火球を投げて亡霊たちを追い払い、ミナトが罠で床を崩し、ゴードンが重さでさらに床を崩し、全員が地下一階に落ちた。
地下一階、誰もしゃべらず、ただ横たわっていた。
焦げた髪、すすけた服、立ち上がる気力もなかった。
「……ノエル、あのさ……」
「はい……」
「ヒールって、敵には効かないの?」
「えっ……」
「試してみようぜ……」
30分後、神聖魔法をそのまま敵にぶつける運用に切り替えた結果、なぜか魔族にはめちゃくちゃ効果があり、「攻撃僧侶」として覚醒した。
「うわ、ゾンビ一撃じゃん」
「俺より強くね?」
「私、攻撃タイプだったんですね……!」
「……回復はもう、しなくていいから……」
涙目のゴードンを前に、全員がそっと頷いた。
こうして、僧侶の職業概念が音を立てて崩壊した日を、勇者カイは「最も痛かった一日」として記憶することになる。
死者の谷を脱出し、次なる地は「西の大湿原」。
だが誰も、そこが地獄の始まりであることを、まだ知らなかった――