第36話 価値のある愛情
ミディの中にあったのは正に「泥」のような嘘だった。澱んだそれは心の表面にじっとりと纏わりつき、輪郭を曇らせ、鼓動する度に濁った感情を底から巻き上げる。
「アトスは死んだ」「彼はもう戻らない」「魔王は倒さなければならない」――そんな偽りの記憶が泥濘となって彼女の自由を奪っていた。
一方、泥濘の中には硝子細工の様に繊細で儚い本心が静かに息を潜めていた。
* * *
――誰からも、必要とされなかった。
「役に立たない子だね」
安酒特有のアルコール臭が充満する薄暗い部屋の中、娼館勤めの母が何の躊躇もなく口にした言葉を十数年経った今でも覚えている。
生まれつき身体が小さく、無口で人付き合いが苦手だった私は母が望む様な金蔓にはなれなかった。いや、最早それすらも期待されていなかったのかもしれない。
金を生み出す価値が私にないと判断した母の態度はあまりに素っ気ないもので、同じ屋根の下で暮らしているのに会話どころか目を合わせることすらほとんどなかった。
私が家を出たのは、母に必要とされていないと知って暫くのことだ。厄介払いも兼ねて、どこかの物好きな貴族に私を売ろうとする母の独り言を耳にしたのがきっかけだった。
本当はあったかもしれない温もりを夢見ながら、寒空の下をひたすら歩き続けた。そうして月日を費やすことだけを考えて生きること数年、冒険者になることで私はようやく魔法師としての自分の価値を見出した。
魔法はいつも私に可能性を見せてくれる。中でも高位の魔法を使っている時は私の身体に魔力という価値あるものが流れているという感覚を強く得られ、それが実際にモンスター討伐として成果になるのがたまらなく嬉しかった。
最初のうちは上手くいっていた。色んな冒険者が私の力を必要としていて、私はそれを喜んで引き受けた。
だが、いくら成長しても魔法が上手くなっても、体が小さい・力が弱いというだけで冒険者としての価値はどうしても下がってしまう。加えて元来の無口で人見知りな性格が災いし、パーティ内での連携にも徐々に影を差すこととなった。
――魔力使いすぎなんだよ。歩くのも遅いし、援護するのも楽じゃないんだけど?
――なんでそんな危ないことばかりするの? 周りのこともっと見てよ。
――バランスってものがあるだろ……。もういいよ、お前がいると却って依頼がムズくなる。
『そんなこと言われても……これが私…………。私には、これしかないから…………』
彼らの意見が正しいことは分かっている。だからこそ、私は私を貫いた。せめて私だけは、私を肯定していたかった。
そしていつか、私ではない誰かがありのままの私を必要としてくれるかもしれないと、心のどこかで信じていたかったのだ。
その一心で冒険者を続けていく内に、私は出会った。
「――俺はアトス。よろしくな、ミディ」
初めは警戒していた。こういう一見好意的な相手ほど、辟易した時の落差が大きいからだ。
だが、彼は違った。私の戦い方を見ても、私の在り方を知っても何一つ変わらなかった。
「…………どうして、嫌な顔しないの?」
気づけば、そんなことを口にしていた。せっかく私を認めてくれる相手に出会えたかもしれないのに、余計な事を言ったとあの時はひどく後悔したものだ。
だが、彼は言った。
「俺、魔法とか全然使えないだろ? だからミディは俺の分も魔法で頑張る。逆に俺はろくに剣も使えないミディの分まで前に出て頑張る。な、お互い様だろ?」
「誰だって得意不得意はあるし、相性だって当然ある。だから無理に合わせる必要なんてないし、俺たちは俺たちのまま助け合っていけばいい。その方がいいパーティになれるって、俺は思うからさ。気楽にいこうぜ」
あの時、自分の世界に初めて日が差したような気がした。彼にとっては取るに足らない一筋の日差しでも、私にはその温もりが何物にも代えがたい宝物だった。
「それにしても、ミディの魔法ってすごいよな。どうやったらあんな魔法撃てるようになるんだ?」
「…………ふふっ。知りたい…………? それはね――」
彼に褒められるのが嬉しかった。
彼の為に頑張れる自分が好きになった。
…………だからこそ、私よりもたくさん褒められる誰かが時には羨ましかった。
「――凄いなリプレ! また足速くなったんじゃないか!?」
「――ありがとな、エイシア。やっぱりエイシアがいると、安心して前に出れるな!」
私が持っていない物を彼女たちは持っている。だからアトスに褒められる。それだけの事なのに、心は否応なしに焦りと不安を募らせていく。
……もしも、このまま彼女たちが私よりも活躍し続けたら?
……もしも、私よりも優秀な魔法師が仲間になったら?
……その時、果たしてアトスは私のことを見てくれるだろうか。
『…………ダメ。取られたくない、誰にも…………』
心の奥底に眠っていた願望を餌にして、嘘が剥き出しの欲望へと姿を変える。
『…………そうだ。アトスを連れて、どこかに行こう…………。邪魔者はみんな排除して、アトスが私だけを見てくれるように……』
そうでもしないと、アトスはきっと私のことを…………。
――バカ、そんな風に思ってたのかよ……安心しろ。そんなことしなくても、お前に対する気持ちは変わらねぇよ。
ふと聞き覚えのある、温かくて心地いい声が胸を満たす。同時に、奇妙な感覚が私の中を駆け回った。
ドロドロとして、不気味で、それでいて私のことを分かってくれるような黒い何か。そんな不思議なものに、私は自然と身を委ねていた。
黒い何かは私の心を優しく包み、目障りだった泥を飲み込んで一緒に虚空へと消えていく。
やがて最後の一滴を飲み込んだ時――私の心はこれまでの人生で一番輝き、最も価値ある偽りなき愛情へと姿を変えていた。
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