あなたのおかげで今、わたしは幸せです
(なんだか信じられないわ……)
フィオナは微笑みながら、自身のお腹をそっと撫でる。
夫であるハリーと結婚して四年、ふたりは子宝に恵まれなかった――つい数日前までは。
『おめでとうございます。妊娠していらっしゃいますよ』
『本当ですか?』
医師から懐妊を告げられ、フィオナは心の底から喜んだ。長年の夢が叶ったのだから当然だろう。
ハリーもフィオナの懐妊を喜んでくれた。これで両親を安心させられる、と。
(それにしても、ハリーは次、いつになったら帰ってくるかしら?)
考えながら、フィオナの胸が少しだけ痛む。
二年前からハリーは数日置きにしか家に帰ってこない。騎士であるため多忙なのは当然だが、彼が帰ってこないのは仕事が理由ではなかった。
(だけど、この子がそばにいてくれたら、わたしはそれで幸せだもの)
フィオナは首を横に振りつつ、お腹に手を当て目を細める。
「馬車を用意してくれる? 買い物がしたいの」
悩んでいる時間がもったいない。フィオナは使用人に馬車を用意させ、街へ出かけた。
(かわいい服。この布も。この子が生まれる時期は寒いから、毛糸も買っておいたほうがいいわよね)
数カ月後に会える我が子を思い浮かべながら、フィオナはそっと微笑んだ。着せてみたい服、一緒にやってみたいこと、行ってみたい場所がたくさんある。気が早いとわかっていても、それらを想像して準備をするのが心から楽しい。フィオナはもう一度、ゆっくりとお腹を撫でた。
「――やめてください」
と、前方で言い合いをしている男女が目に入る。どうやら女性の方が男性に言い寄られているようだ。女性は見るからに嫌がっているし、黙って通り過ぎるのは忍びない。
「あの……」
フィオナは意を決して男女に声を掛ける。男性はフィオナを見ると、チッと舌打ちをし、すぐにその場からいなくなった。
「助けてくださってありがとうございます! どうか、お礼をさせてください」
女性はそう言って、フィオナの両手をギュッと握る。
「え? そんな……わたしはなにもしていませんわ」
フィオナは本当に、少し声を掛けただけなのだ。お礼をしてもらうようなことは、何もしていないのだが。
「いいえ、それではわたくしの気が済みません。どうか、何かさせてください。……そうだわ、一緒にお茶などいかがでしょう?」
「え、お茶ですか? えぇと……そのぐらいなら」
どうしてもと言われては断りづらい。フィオナは女性についていった。
「わたくしの行きつけの店なんです。恋人ともよくデートで訪れていて」
「そうなんですね。恋人ってどんな人なんですか?」
「ふふ……とても素敵な人」
と、階段の一番上まで差し掛かった時、女性がふわりと口角を上げる。
「わたくしの恋人はね、ハリー様っていうの」
「――え?」
その時、トン!となにかが肩に触れ、フィオナの体が宙に浮く。気づいたときには、体に激痛が走っていた。
(痛っ! 痛い!)
声すら出せないような痛みに耐えながら、フィオナは必死にお腹を撫でる。フィオナの体は今、彼女だけのものではない。お腹の子を守らなければ――そう思うのに、痛みはますます強くなっていく。
(嫌だ)
なにが、どうしてこんなことになったんだろう? 混乱と動揺で、フィオナにはわけがわからない。けれど、涙でぼやける視界の中、勝ち誇ったような女性の笑みが、やけにしっかりと脳裏に焼き付くのだった。
「フィオナ!」
気がつくと、フィオナは自宅のベッドの中にいた。ベッドの周りには夫であるハリーや使用人、それから見覚えのない白衣を着た男性がいる。
「ハリー、わたし……」
つぶやきながら、鈍いお腹の痛みに気づく。次いで襲いかかる得も言われぬ喪失感――気づいたら涙が溢れ出していた。
「うっ……うぅ……」
フィオナにはわかる。赤ん坊はもう、お腹の中にはいないのだろう、と。
「残念ですが、奥様は今後、妊娠は難しいでしょう」
追い打ちをかけるかのように、白衣の男性がそう口にする。「そんな……!」と声を上げたのはハリーだった。
「先生、なんとかならないんですか?」
「すみません、こればかりは……」
頭上で繰り広げられるあまりにも残酷な会話。空っぽになってしまったお腹を抱えながら、フィオナは涙を流し続ける。
「離婚してほしい」
夫から離婚を切り出されたのは、それからほんの数日後のことだった。フィオナは虚ろな瞳でハリーを見つめながら、返す言葉が見つからない。
「君には本当に申し訳ないと思っている。だけど……これ以上、君と結婚を続けても子がのぞめないから」
フィオナの胸がズキズキと痛む。
「それで、わたしと離婚して……ストロベリーブロンドの女性と再婚をするの?」
「え?」
フィオナが尋ねると、ハリーは見るからにうろたえた。
ハリーに浮気相手がいることは知っていた。しかし、これまでフィオナは相手を特定することも、不倫を咎めることもしなかった。そうすることで、彼との結婚生活に波風を立てるのが嫌だったからだ。
けれど、離婚を切り出された今、敢えて黙っている必要はない。
フィオナはお腹の子を失ったあの日に出会った女性を思い返しつつ、静かに涙を流した。
「どうしてフィオナが彼女のことを? いや……僕は君ともう一度、夫婦としてやっていこうと思っていたんだ。フィオナに子どもができて嬉しかったし、幸せにしてあげたいって思った。それで、彼女との関係を清算しようと思ったんだ。だけど、こんなことになって……」
「……そう」
ハリーは伯爵家の嫡男であり、跡継ぎが必要な立場だ。子をなすことのできないフィオナと一緒に居続けることはできない。
……そうとわかっていたから、ハリーの浮気相手はフィオナに近づいてきた。ハリーと離婚させるために、フィオナからお腹の子を奪い取ったのだ。
(もう、どうでもいいわ)
差し出された離婚届にサインをしながら、フィオナは静かにため息をつく。こうなることはきっと、最初から決まっていたのだろう。悲しむだけ時間の無駄だ――そう思うのに、胸が痛くてたまらない。
「さようなら」と言い残し、フィオナは夫と暮らした家を出た。
***
実家に戻った後、フィオナは死んだように日々を過ごした。眠れる限界までベッドに潜り、朝食と昼食を一緒に済ませる。正直なところ、食欲なんて一ミリもわかなかった。それでも、両親や使用人たちが望むから、申し訳程度に食事をする。
食事を済ませてからは、自室にこもってぼんやりと過ごした。なにかをしたいなんて思えなかったし、何をしていても楽しくない。時々、使用人たちが散歩や買い物に連れ出してくれたが、フィオナの気持ちは沈みきったままだった。
(――はやく終わってくれないかしら)
この世の中のすべてが無意味で、無価値なものにしか思えない。今後、フィオナの気持ちが上向くことなんてないだろう。だったら、空虚な一日を過ごす必要は――こうして生きている理由なんてないのではないか――そう思わずにはいられない。
それでも、気づけばまた、次の朝がやってくる。その事実にフィオナはまた絶望した。
「フィオナに話があるんだ」
ある日のこと、フィオナの部屋に両親がやってきた。どんな話をされるのか、心当たりなんて山ほどある。けれど、フィオナにはもうどうでもよかった。心はすでに傷だらけで、誰かの慰めも苦言も、受け入れる余裕なんてまったくなかったから。
虚ろな瞳で「なんでしょう?」と返事をするフィオナに、両親は顔を見合わせた。
「ジョルヴィア公爵家に働きに行ってみる気はないか?」
「え?」
それはあまりにも思いがけない提案で、フィオナは少しだけ顔を上げる。
「ジョルヴィア公爵家って、あのジョルヴィア公爵家よね?」
ジョルヴィア公爵家は王家と縁の深い筆頭公爵家だ。ああいった名家は外から使用人を雇うことがほとんどない。両親の雰囲気からして、フィオナを元気づけるための話題なのだろうが、あまりにも突拍子がないと感じてしまう。
「ああ。一年ほど前に代替わりをし、現在は二十三歳のアシェル様が当主を務めているそうだ。アシェル様は独身なんだが、生まれて四カ月ほどの息子さんがいるらしくてね」
「四カ月の息子さんが……?」
つぶやきながら、思わず涙が込み上げてくる。それはフィオナが欲しくてやまなかったもの――今後、絶対に手に入れられないものだ。小さく鼻をすするフィオナを、母親がそっと抱きしめた。
「その息子さんなんだが、ある日突然、手紙とともに公爵家の前に置き去りにされていたんだそうだ。そのせいで使用人の数が足りなくなり、公爵様が新しい使用人を――とりわけ、将来公子の教育係を務められるような女性を探しているらしい。それで、交流のあった先代公爵から直々に打診があったんだ」
「そうだったのですね……」
こんな込み入った事情を打ち明けられるぐらいだから、父親と先代公爵に交流があったというのは本当なのだろう。もしかしたら、フィオナの身に起こった出来事も伝えていたのかもしれない。フィオナはそっと顔を上げた。
「もちろん、この話は断ってもいい。フィオナの気持ちが一番だからな。けれど、もしかしたらお前の気が晴れるかもしれないと思って……」
「ありがとうございます、お父様」
お礼を言いながら、フィオナの瞳から涙がこぼれ落ちる。
誰もフィオナの気持ちを理解なんてできないと思っていた。わかってほしいとも思っていなかった。慰められることも、かといって放って置かれるのも嫌で、もはやどうしようもないと思っていた。
けれど、このままではいけないことはフィオナ自身が一番わかっていた。どこかで立ち直り、前を向かなければならない、と。
「わたし、行ってみたいです。もちろん、わたしに務まるかはわかりませんが、それでも……」
フィオナの言葉に、両親がそっと目を細める。ふたりはフィオナを抱きしめると、一緒になって涙を流した。
***
それから数日後、フィオナはジョルヴィア公爵家を訪れた。
(さすが、立派なお屋敷ね……)
実家の子爵家とも、夫と暮らした家とも違う、格式高く美しい建物。自然と背筋の伸びるような凛とした空気に、フィオナはゴクリと息を呑んだ。
「ようこそ、お待ちしておりました」
使用人頭に連れられて、フィオナは早速屋敷の中に入る。それから、一通り邸内を見て回った後、早速公子の元へ案内された。
「こちらがアシェル様のご長男、ダニエル様です」
「まあ……!」
ベビーベッドの中にいたのは、世にもかわいい赤ん坊だった。
色素の薄い金の短髪に、宝石みたいにキラキラした大きくて丸い青の瞳。真っ白な肌に薔薇色の頬。ダニエルはふっくらと肉づいた腕や足をバタつかせながら、こちらをじっと見つめている。天使もかくや、という愛らしさだ。
「なんてかわいいの……!」
苦しくてたまらなかった胸が、じわりと温かくなる。思わず身を乗り出したフィオナの頬に、ダニエルがふにふにと手を伸ばした。
「あぅ……んだっだっ」
「あぁ……!」
柔らかく温かい手のひらの感触、甘いミルクの香り、何よりダニエルが見せた無垢な笑顔がたまらなく愛しく、フィオナは思わず涙を流す。
己の子を失った時――今後、妊娠することも叶わないと知った時には、他人の子どもを見る度に苦しくなるだろうと思っていた。公爵家に働きに出ると決めた時にも、絶望に打ちひしがれるかもしれないと覚悟していた。
けれど、フィオナは今、まったく別の感情に包まれている。
「あの……! 抱っこしてもいいですか?」
「ええ、もちろん。きっとダニエル様も喜びますよ」
使用人頭に微笑まれ、フィオナはダニエルを抱き上げた。
「重たい……」
いや、むしろ軽い気もする。ダニエルはキャッキャッと笑い声を上げ、甘えるようにしてフィオナにすがりつく。
「わたし、真心を込めてダニエル様にお仕えしますわ」
かわいくて、愛しくてたまらず、フィオナはダニエルをギュッと抱きしめた。
その日から、フィオナはダニエルの世話係の一人として働きはじめた。
太陽が昇ると同時にダニエルの部屋のカーテンを開け、朝の挨拶をする。ダニエルの顔や手を拭き、おむつを替えた後は授乳を済ませて庭の散歩へ。部屋に戻るとうつ伏せや寝返りの練習をしたり、抱っこをして絵本の読み聞かせをする。ダニエルが昼寝をしたのを見守ったら休憩だ。
「フィオナさん、ダニエル様は私が見ておきますから、ゆっくり休憩をなさってください」
「ありがとうございます。だけど、わたしもここにいさせてください。少しでもたくさんダニエル様の側にいたいんです」
他にもお世話係がいるのだから、フィオナがダニエルの側を離れたってなんの問題もない。けれど、フィオナはそうしたくなかった。
ふっくらした頬を、あどけない寝顔を見る度に、とてつもなく幸せな気持ちになれる。空っぽだった心と体が満たされて、胸が温かくなるのだ。
(もう二度と、こんな気持ちになることはないと思っていたのに)
絶望のどん底にいたフィオナにとって、ダニエルは希望の光だった。本当に、感謝してもしきれない。フィオナはそっと目を細めた。
「それにしても、旦那様はダニエル様の様子をちっとも見にいらっしゃらないのね」
働きはじめてから数日経つが、フィオナはアシェルと顔を合わせていない。公爵が忙しいのは承知しているが、こんなにもかわいいダニエルの成長を見守らずにいられるなんて信じられない、という気持ちだ。
「まあ、旦那様は……ご事情がご事情ですから」
と、他の世話係が言葉を濁す。フィオナは少しだけ首を傾げつつ、ダニエルの寝顔を見守った。
***
「ダニエル様、見てください。昨日まで蕾だった花が咲いてますよ。綺麗ですね」
それからさらに数日後のこと、フィオナはダニエルを連れ、日課の散歩に出かけていた。公爵家の庭園は広く、いろんな花が咲いている。花や蝶を見て満面の笑みを浮かべるダニエルを見つめながら、フィオナは目を細めた。
「――君がダニエルの新しい世話係か?」
と、背後から声がかけられる。振り返ると、そこにはフィオナと同じ年頃の美しい男性が立っていた。
色素の薄い金の髪に、彫刻作品のように整った目鼻立ち、瞳はサファイアのような深い紫色で、見るからに高貴なオーラが漂っている。彼がこの屋敷の主――アシェルなのだろう。フィオナはダニエルをいったん他の世話役に預けると、深々と頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。フィオナと申します。先日からお世話になっております」
「いや。私こそ、もっと早くに会いに来るべきだったのだが……」
アシェルが返事をしているとダニエルが「んっ! んっ!」と声を上げる。見れば彼はフィオナに向かって必死に手を伸ばしているではないか。
「ああ、ダニエル様! お待たせしてすみません」
フィオナはダニエルを他の世話係から受け取ると、ふわりとやわらかな笑みを浮かべた。
「……この子は随分君に懐いているのだな」
アシェルはそう言ってダニエルとフィオナとをじっと見る。フィオナは目を丸くすると、クスクスと笑い声を上げた。
「懐いているだなんて、そんな大層なものではございません。だけど、わたしはいつでもダニエル様のお側にいたいと思っておりますので、こうして機会をいただけてとても嬉しく思っております」
嬉しくてたまらないといったフィオナの表情に、今度はアシェルが目を丸くする。それから彼は頬を紅く染めつつ、ふいと顔をそらした。
「そうか……それはよかった。これからもダニエルを頼む」
「はい! 精一杯務めさせていただきます」
***
はじめて会った日以降、アシェルは頻繁にダニエルの部屋に顔を出すようになった。
「なにかかわりはないか?」
「まあ、アシェル様! ダニエル様はつい先程、寝返りに成功なさったんですよ! 首もしっかりと据わっていらっしゃいますし、そろそろ離乳食にチャレンジできそうなんです。目覚ましい成長でしょう?」
赤ん坊にとっての一日はとても大きい。昨日できなかったことがいきなりできるようになったりするし、体もぐんぐん大きくなる。もったいなくて一秒たりとも目が離せないし、アシェルにも同じように思ってほしいとフィオナは願う。
(よかった。アシェル様もきっと、ダニエル様の愛らしさに気づいたのね)
こんなふうに様子を見に来てくれることがとても嬉しい。フィオナはそっと目を細める。
「そうか。それは……よかったな、ダニエル」
「……う?」
アシェルがぎこちなくダニエルを撫でる。が、ダニエルは不思議そうな表情でアシェルを見上げ、むっと唇を尖らせた。
(あらあら)
「なっ……私では不服か?」
ショックを受けるアシェルがなんだかかわいくて、フィオナはふふっと口角を上げる。
「大丈夫ですよ、まだ慣れていないだけです。ね、ダニエル様」
フィオナが笑いかけると、ダニエルはキャッキャッと声を上げて笑った。アシェルはそんなふたりの様子を見つめた後、そっと自身の口元を隠す。それから「だといいのだが」と口にした。
「せっかくの機会です。アシェル様、ダニエル様を抱っこしてくださいませんか?」
「え? だが、私は……」
困ったように視線を彷徨わせるアシェルだが、表情はまんざらでもない。フィオナは目を細めつつ、アシェルとの距離をずいと詰めた。
「大丈夫です。わたしも隣で支えますから。こうして――おしりを腕で支えてあげるんです。ダニエル様の背中がアシェル様の体にそうようにして」
「こう、か?」
おそらく、これがはじめての経験なのだろう。アシェルはビクビクしながらダニエルに手を伸ばす。
ダニエルは少しだけ不安そうな表情を浮かべていたが、アシェルのぬくもりを確認すると、キャッキャッと声を上げた。
「まあ! ダニエル様、とっても嬉しそう! よかった! よかったですね、ダニエル様」
フィオナがとても嬉しそうに笑う。すると、アシェルは目を見開き「かわいいな……」とつぶやく。
「そうなんです! 旦那様、ダニエル様は本当にかわいいんですよ!」
「――君のことだよ」
フィオナに聞こえないようささやきつつ、アシェルは目元を和らげた。
そうこうしているうちに、アシェルの訪れはどんどん増え、気づけば二日おきに顔を合わせるようになっていた。
公爵というのは領地の経営や王族絡みの仕事など、かなり忙しいらしい。アシェルはまだ若い上、爵位を継いで間もないからなおさらだ。けれど、彼は相当な努力をして時間を作ってくれている。
(アシェル様は素晴らしい男性だわ)
短い付き合いだが、真面目で誠実な人だということは間違いない。
それだけに、どうしてダニエルの母親が彼のそばを離れてしまったのか、フィオナには解せなかった。
「――ダニエルが離乳食をはじめたそうだな」
「はい。パンや野菜をすりおろしたものを召し上がってます。現状好き嫌いもなく、よく食べていらっしゃいますよ」
きっと、仕事の合間にも、使用人たちにダニエルの様子を尋ねているのだろう。質問の内容が少しずつ父親らしくなっていくアシェルの様子が微笑ましく、フィオナは胸が温かくなる。
「――そろそろ、私と一緒に食事ができないだろうか?」
アシェルはそう言って、ダニエルの手をギュッと握る。
「よかったら君も……」
アシェルの言葉はそんなふうに続く。それから彼は、フィオナのことをじっと見つめた。ほんのりと頬が赤い。……が、フィオナはそれには気づかず「いい考えです!」と手を叩いて喜んだ。
「ダニエル様はまだ一日に一回しかお食事をなさりませんが、きっとお喜びになりますよ。早速手配をしてもらいましょう」
その日から、ダニエルとアシェルは毎日食卓を共にするようになった。
もちろん、食べているものは全く違うし、ただ同じ空間にいるというだけだ。けれど、ふたりの距離が近づいたようでフィオナは嬉しくてたまらない。
「……赤ん坊の食事とは、そのようなものなのだな」
「そのようなもの、とは?」
「思ったよりもドロドロしているし、そんなふうにつきっきりで食べさせねばならないとは思わなかった」
ひとさじひとさじ、丁寧に離乳食を口に運ぶフィオナを見つめつつ、アシェルは本気で驚いている様子だ。
「そうですね……まだ上手に飲み込めないので、見守りが必要な状態です。だけど、もう少ししたらご自分でスプーンを持っていただいて、お食事の練習をはじめようと思ってます。たくさんこぼして、途中から飽きて遊んでしまうでしょうね……。スプーンじゃなく、手づかみで食べることもあると思います」
「……なんだか嬉しそうだな」
大変だろうに、とつぶやきつつ、アシェルはフィオナをじっと見る。
「ええ! わたしはダニエル様の成長が見られるのが本当に楽しくて、嬉しいのです。心の底から幸せだと思います」
「――ずっと前から気になっていたんだが、フィオナはどうして、他人の子供にそこまで親身になれるんだ?」
「どうして……?」
フィオナの表情から明るさが消える。ややして、フィオナの瞳に涙が滲んだ。
「す、すまない! 君を傷つける気はなかったんだ。私はただ、君をすごいと思って……」
予想外の反応にアシェルが慌てふためく。フィオナは「いえ」と相槌を打ってから、ゆっくりと顔を上げた。
「理由がなければダメでしょうか? 誰かに親身になること――愛することに、理由がないといけませんか?」
亡くなった自分の子のかわり――はじめはそんなふうに思っていたのかもしれない。少なくとも、フィオナが抱えていた悲しさ、寂しさ、苦しさを埋めてくれる存在だったことは間違いないだろう。
けれど今、フィオナはダニエルに対してそれ以上のなにかを感じている。自分の子供だからとか、他人の子供だからとか、そんなことは関係ない。ただただかわいくて、愛しくて、大切でたまらないのだ。
「……いや、君の言うとおりだ」
ややしてアシェルがそうこたえた。その表情は今にも泣きだしそうな笑顔で、フィオナは思わず目を見開く。
「ありがとう、フィオナ。君のおかげでようやく決心がついた。これからは私も、ダニエルの父親として、きちんとこの子と向き合おうと思う」
温かく優しい表情のアシェルに、フィオナは満面の笑みを浮かべた。
***
宣言通り、アシェルはそれからさらにダニエルのことを気にかけるようになった。毎朝ダニエルの部屋に顔を出し、たっぷりと抱っこをしてから仕事に向かう。それ以外の時間も暇さえあればダニエルのもとにやってきて、彼の世話をしたり、遊んでくれたりするようになった。
(ダニエル様、とっても嬉しそう)
はじめはアシェルが触れる度に不安そうな顔をしていたダニエルも、今では彼が来る度に弾けるような笑顔を見せてくれる。そうすると、アシェルも嬉しそうに笑うので、フィオナは一層幸せな気持ちになった。
「ダニエル……と、寝ているのか」
ある時、ダニエルの昼寝中にアシェルがやってきた。彼は音を立てないようベビーベッドに近づくと、ダニエルの寝顔に目を細める。
「かわいいでしょう?」
「……ああ」
幸せそうなアシェルの笑顔を見つめながら、フィオナは胸がいっぱいになった。
「それは……なにを書いているんだ?」
「これですか? 実はここに来てから毎日、ダニエル様の成長録をつけているんです」
「ダニエルの?」
目を丸くするアシェルに、フィオナは革張りの冊子を手渡す。
「はい。どんなふうに一日を過ごしたのか、その日のご様子、わたしが感じたことなどを書き綴っております。そしたら、いつかダニエル様のお母様が戻っていらっしゃった時に、お渡しすることができるでしょう?」
「……そうか、それで」
ダニエルの母親について、使用人たちは頑なに口をつぐんでいる。今どこにいるのか、どんな事情があってダニエルを置いていったのか、どうしてアシェルがそれを受け入れたのか、フィオナには知る由もない。
けれど、もしも自分がダニエルの母親なら、どれだけ離れていても我が子の様子を知りたいと思う。だから、もしも彼女が再び公爵家に現れたときのために記録を残そうと思ったのだ。
「ありがとう、フィオナ」
アシェルはダニエルの成長録にひととおり目を通した後、泣きそうな表情で微笑む。
「けれど、ダニエルの母親は――妹はもうこの世にいないんだ」
「え?」
アシェルの言葉に、フィオナは目を見開く。
「アシェル様の妹……?」
「ああ。実は、ダニエルは妹と身分の低い男性との間にできた子なんだ。だが、妹は出産の時に命を落としてしまった。相手の男性も病気でこの世を去ってしまって……それで公爵家の子として育てることにしたんだ。けれど、そんな事実を大っぴらにするわけにもいかないし、ダニエルの将来のことも考えると、私の子と偽るのが一番だろうということになった。私は女性が苦手だし、後継者も確保できてちょうどいい、と」
「そうだったんですね……」
返事をしながら、フィオナはそっとダニエルを見た。
ダニエルとアシェルはよく似ている。言われなければ永遠に気づかなかっただろう。
「だけど、そんな秘密をわたしに打ち明けてよかったのですか?」
「……君だから打ち明けたんだ」
アシェルはそう言って、フィオナの手をギュッと握る。フィオナの心臓がドキッと高鳴った。
「どうか、これからもずっと、私とダニエルの側にいてくれないだろうか?」
「それは……もちろんそのつもりです。ダニエル様の成長をこの目で見守り続けたいと願っておりますわ」
眼差しが熱い。フィオナはアシェルから目をそらしつつ、そんなふうに返事をする。
「使用人としてではない。私の妻として、ダニエルの母親として、共に生きてほしい。……フィオナのことが好きなんだ」
アシェルはそう言って、まじまじとフィオナを見つめた。
(アシェル様がわたしのことを……?)
こんなふうに好意を打ち明けられたのは生まれて初めてのことだ。元夫のハリーとは完全な政略結婚で、夫婦としての義務的なふれあいしか経験していない。彼はすぐに愛人ができてしまったし、自分には縁がないとすら思っていた。
(嬉しい)
愛情には愛情が返ってくるなんて思っていない。それでも、誰かに想われていると思うだけで、心が温かくなる。フィオナ自身、アシェルに惹かれている自覚があったのだからなおさらだ。
けれど――。
「申し訳ございません」
アシェルの想いにこたえるわけにはいかない。フィオナは静かに首を横に振る。
「それはなぜ?」
「わたしは……一度離婚を経験しています。公爵夫人にふさわしくありません」
言いながら、涙が込み上げてくる。
本当は嬉しいと伝えられたなら――「はい」とこたえられたらよかったのに。そう思わずにはいられなかった。
「そんなこと、私はちっとも気にしないよ」
アシェルがフィオナの手の甲に口付ける。慈愛に満ちた温かな瞳。彼はフィオナと出会ってから大きく変わった。その理由がフィオナにあるのは間違いないだろう。
「無理ですよ。だってわたしは、わたしには――アシェル様の子を生むことができませんから」
「え?」
胸が引きちぎられそうなほどの痛みをこらえながら、フィオナはそっとアシェルを見上げる。
あの日のことを打ち明けるのは、フィオナにとってあまりにも辛いことだった。思い出したくない過去と、向き合いたくない未来。――けれど、アシェルがフィオナとの結婚を望んでいる以上、黙っているわけにはいかない。
ひととおり事情を終えると、アシェルは「そうだったのか」とつぶやいた。
(本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう?)
フィオナはお腹の子と夫を一度に失った。それだけでなく、他の誰か――アシェルと一緒になる未来まで奪われてしまった。あの時は、ハリー以外の誰かと結婚するなんて想像すらしていなかったけれど、フィオナにはそんな道はないのだと、現実を突きつけられたような気がする。
「――けれど、私はそれでも構わないよ」
と、アシェルが言う。フィオナは「え?」と目を見開いた。
「夫婦として、君と共に生きていきたい。フィオナを愛しているんだ」
力強いアシェルの言葉。フィオナの瞳から涙がこぼれ落ちる。アシェルはフィオナを力いっぱい抱きしめた。
「それに、私たちにはダニエルがいる。あの子は私の子供だ。……君がそう思わせてくれたんだ。だから、子供のことは気にしなくていい。私はフィオナと結婚したいんだ」
込み上げてくる幸福感。フィオナはおずおずとアシェルのことを抱きしめ返す。
「わたしも、アシェル様のことが好きです」
フィオナが言うと、アシェルは幸せそうに目を細めた。
***
「綺麗だよ、フィオナ」
アシェルは穴が空いてしまいそうなほどフィオナを見つめ、額や頬に口付ける。
今夜は王室主催の夜会。国王に結婚の挨拶をするため、フィオナとアシェルは城を訪れていた。
こんなふうに着飾るのは何年ぶりだろう? フィオナはアシェルにお礼を言うと、嬉しそうに目を細めた。
夜会がはじまると、アシェルと一緒にたくさんの人と挨拶を交わす。公爵である彼の周りには、ひっきりなしに人が集まってきた。
ハリーとも何度か夜会に出席したが、彼はまだ爵位を継いでいなかったし、社交界での顔も広くなかったので、あまりのギャップに驚いてしまう。
「疲れただろう? 飲み物をもらってくるから、少しだけ待っていて」
「ええ」
アシェルを見送り、フィオナがひと息ついたときだ。
「フィオナ……?」
と、誰かに気安く自分の名前を呼ばれた。ドクン、と心臓が嫌な音を立てて鳴り響く。振り返ると、元夫であるハリーがそこにいた。
「ひ、久しぶりだな」
「……そうね」
気まずそうに微笑むハリー。フィオナはハリーの顔を直視できないまま、震える声で返事をする。「それじゃあ」とその場を去ろうとしたところで、グイッと腕を引っ張られた。
「なっ……」
その瞬間、フィオナの胸が凍りつく。ストロベリーブロンドの女性――フィオナからすべてを奪った浮気相手が目の前でニコリと微笑んでいた。
「フィオナ様、お久しぶりです。わたくしのこと、覚えてます?」
女性が無邪気に尋ねる。
――忘れられるはずがないのに。
フィオナは眉間にシワを寄せ、女性から顔を背けた。
「わたくしたち、結婚したんですよ! ほら、見てください、この指輪」
小さなダイヤモンドが埋め込まれた結婚指輪を見せつけながら、女性が首を傾げる。
ハリーが「キャサリン、やめろ」と咎めるが、女性――キャサリンは「いいじゃない?」と笑みを浮かべた。
「フィオナ様のおかげで、わたくしは今、こんなに幸せになれたんですもの。感謝しなくちゃ、でしょう?」
「なんですって……? わたしのおかげで幸せになれた?」
キャサリンの言葉に、フィオナは腸が煮えくり返りそうになる。
「そうですよ? わたくしの幸せはフィオナ様あってのものですから。とーっても感謝してるんです! ね、ハリー様」
「いや……その……」
(よくも……よくも!)
フィオナの手のひらに爪が食い込む。本当は思い切り、殴り飛ばしてやりたかった。思うままに罵倒をして、辱めてやりたかった。フィオナが苦しんだ分だけ、苦しみを味わわせてやりたかった。――けれどそんなこと、フィオナにはできない。フィオナはギュッと唇を噛んだ。
「え、待って? 悪いのってわたくしなの? ……違うでしょう? ご自分の魅力が足りなくて、乗り換えられちゃっただけでしょう? それなのに、被害者ぶられるなんて心外だわ。大体、さっさとハリーと別れてくれていたらよかったのよ。それなのに、子供まで妊娠するから」
クスクスとキャサリンが笑う。これ以上は耐えられない――そう思ったときだった。
「フィオナから離れろ」
アシェルがふたりの間に割って入る。フィオナは目頭が熱くなった。
(アシェル様……)
痛くて苦しくてたまらなかった心が軽くなる。フィオナはアシェルの腕にギュッと抱きついた。
「あら、どなた? あなたには関係ないでしょう?」
「なっ……! ジョルヴィア公爵!?」
ハリーはアシェルの顔を確認すると、キャサリンの口を大急ぎで覆う。それから彼は深々と頭を下げ「ご無沙汰しております」と口にした。
「待って、ジョルヴィア公爵って、あの?」
キャサリンが瞳を輝かせる。ハリーはキャサリンに「そうだ。だから口を慎んでくれ」と伝えたが、彼女はグイッと身を乗り出した。
「さすがはハリー様だわ! そんなすごい人とお知り合いだったなんて。……でも、待って。公爵様はどうして、フィオナ様の名前をお呼びになったの?」
「フィオナは私の妻だからね」
アシェルが冷たく言い放つ。すると、キャサリンは「なっ!」と声を上げ、大きく目を見開いた。
「う、嘘でしょう? 信じられないわ。そんな……フィオナ様が公爵様の妻?」
「どうして信じられないんだ?」
アシェルはキャサリンを睨みつけながら、フィオナをそっと抱きしめる。
「だって……」
キャサリンはハリーとアシェルとを見比べ、グッと歯噛みをした。美しさといい、爵位といい、財力といい――どれをとってみても、アシェルの方が数段勝っている。キャサリンとフィオナなら、どう考えてもキャサリンのほうが上なのに――キャサリンはどす黒い感情を胸に抱えたまま、歪んだ笑みを浮かべた。
「だって、フィオナ様って四年間も子供ができなかった石女なんですよ! やっとできた子供も流産しちゃって、これから先に妊娠することもできないんですって。そんなの、女としての価値がないでしょう? だから、ハリー様もフィオナ様と離婚したんです。あっ……これってもしかして、公爵様にはお伝えしていなかった情報かしら? そんな、酷いわ……なにも知らずにそんな女性と結婚させられただなんて、公爵様が気の毒すぎます」
純粋無垢な女性を装いながら、キャサリンがフィオナを貶める。
フィオナの心臓が怒りのあまりドクンドクンと大きく跳ねた。もう我慢の限界だ――と思ったその時、アシェルがフィオナを押し留める。
「女としての価値が――いや、人間としての価値がないのはあなただろう」
「……は?」
アシェルの言葉に、キャサリンの口の端が引きつる。
「私はすべてを知っていて、フィオナに求婚した。フィオナ以外考えられなかった。フィオナほど愛情深く、魅力的な女性を私は知らない。そんな最愛の妻を君のような女性に侮辱されるなんて許せない。……公爵として、厳重に抗議させていただくつもりだ」
「抗議? だけど……」
「申し訳ございません、公爵。キャサリン、早く謝るんだ!」
ハリーが顔面蒼白になりながら、キャサリンの頭を無理やり下げさせる。「嫌よ!」と喚くキャサリンを冷たく睨みつけ、アシェルが再度口を開いた。
「それから、妻が不妊となったキッカケ――暴行を加えられた事件については、現在しかるべき機関に調査を依頼していてね」
「……調査? 事件?」
もう一度、キャサリンが勢いよく顔を上げる。キャサリンは己を押さえつけるハリーの手を振り払った。
「暴行だなんてそんな……冗談でしょう? フィオナ様はひとりで勝手に階段を落ちてしまわれただけだもの。大体、あれから何カ月も経っているのに、今更調査だなんて……馬鹿馬鹿しい」
「フィオナと彼女の実家が望んでいなかったからね……。だけど、夫となった私は違う。きちんと被害届を提出し、犯人には罰を受けてもらうよ」
アシェルはそう言って、フィオナの肩をそっと抱く。
フィオナが被害届を出さなかったのは、出したところでなにも戻ってこないからだ。そうすることでむしろ、自分の苦しみと向き合うことになるのが嫌だった。
けれど、それではいけないとアシェルから諭されていた。
『私はフィオナが傷つけられたことが絶対に許せないんだ。君がどれほど苦しんだのか、相手の女性は知る必要がある』
あの時フィオナは、そんな必要はないと思った。時間の無駄だ、と。けれど、それは間違いだった。
キャサリンは反省も後悔も、何ひとつしていない。このままでは近い将来、何人もの人間が彼女に傷つけられてしまうだろう。
「――フィオナの証言だけでも十分だけど、最近になって、事件を目撃したという人が見つかったらしい。近々、犯人の取り調べが行われる予定だと聞いているよ」
アシェルが言う。キャサリンはハハ、と乾いた笑い声を上げた。
「取り調べ? そ、そんな大げさな! ちょっと押したぐらいで暴行扱いだなんて」
「『ちょっと押した』ね」
キャサリンがハッと息を呑む。言質を取られた――もう逃げられないと悟ったのだろう。彼女はキッと瞳を吊り上げた。
「なによっ! そのぐらい……!」
「そのぐらい、じゃない! 私は君と、フィオナの元夫を許すつもりはない。絶対に、どんな手を使ってでも、罪を償ってもらう」
アシェルがジロリとハリーを睨む。
「……嘘だろう?」
アシェルの口ぶりからして、法外な慰謝料を請求されることは間違いない。おまけに、社交界でアシェルに目をつけられてしまったらおしまいだ。どこにも居場所なんてありはしない。おそらく、伯爵位を継ぐことすらできないだろう。
ハリーはガクッと膝をつき、その場でうずくまるのだった。
***
あれから二年の月日が経った。
「おかあさま、こっちにきて!」
フィオナの手を引き、ダニエルが笑う。
アシェルとの結婚を機に、ふたりは自然と親子として接するようになった。元々我が子のようにダニエルを慈しんできたフィオナだったが、本当の親子になってからはより一層、溢れんばかりの愛情を注いでいる。それはダニエルの方も同様で、彼はフィオナを誰よりも愛し、心から慕っている。
「おとうさまも、こっち!」
ダニエルがアシェルを呼ぶ。彼は微笑みながらふたりの元に急いだ。
「どうしたの、ダニエル?」
「あのね、さっき、赤ちゃんがぼくのことよんだんだ!」
ダニエルが指差すのは、彼が以前使っていたベビーベッドで眠っている小さな赤ん坊だ。フィオナはダニエルの頭を撫でながら「まあ、本当?」と尋ねる。
「うん! お兄ちゃんって、きこえたんだよ!」
そう言って満面の笑みを浮かべるダニエルに、フィオナとアシェルは目を細めた。
今から一年ほど前のこと、フィオナの妊娠が判明した。
当然、フィオナとアシェルは驚いたし、心の底から喜んだ。
『だけど、どうして?』
『これは私の推測だけど……フィオナに不妊を宣告した医師は、キャサリンに金で雇われた人間で、ハリーとフィオナの離婚を確実に成立させるために嘘の診断をくだしたんだと思う』
『それじゃあ……』
フィオナの瞳に涙が滲む。ぺたんこのお腹を撫でながら、嬉しさが込み上げてきた。
「ねえ、おかあさま! おかあさまはぼくのこと好き?」
「ええ、もちろん」
フィオナがダニエルを抱きしめる。自分の子供が生まれても、ダニエルへの愛情はちっとも変わらない。むしろ、毎日どんどん増え続けている。
「あなたのおかげで今、わたしは幸せです」
アシェルとダニエルを見つめながら、フィオナは満面の笑みを浮かべるのだった。




