春の日
時代設定など多めに見てください。。
春麗ら。桜の花弁が散りたる今日この頃。
いかがお過ごしでしょうか。
…
ぐしゃ。と紙を握り締める。
「だめ。やり直し」
四月の暖かさに包まれながら、気怠い眠気と白猫の体温をひざに感じる。桜の花弁はこちらが書くのを待たずにまた、はらはらと散っていく。
筆を執りなおし、日光を浴びてなめらかに光る墨汁をそっと付ける。
いかがお過ごしでしょうか。
私は貴方様のことを思って今日も胸が高鳴っております。
貴方様も同じ気持ちでいてくだ
ぐしゃ。
「ちがう!!!」
にゃあ、と白猫は声を上げて飼い主の奇行を下から睨め上げた。ひざから体温が離れていく。
それでもやはり、この、人を駄目にしてしまう暖かさを前にして、冬の存在というのはもはや、みる影もない。
「シロ…。恋というのは難しいものなのね」
前足をぺろぺろと舐める白猫は、なんら気にはしていない。しかし、彼女に茶トラのボーイフレンドがいるということを私は承知しているのだ。
「あの方は今頃何をされているのかしらね。町の方へ行けばきっと、外国の美味しいものが食べられるのでしょうね。」
はぁ、とため息をつく。筆は自然に「めろんそおだ」というものの絵を生み出していた。
いつか一緒に町の喫茶店でいただこう。
そう言った彼は、広い背広を来た紳士であった。
彼への憧れは町への憧れになり、それは膨れ上がるばかりであった。
町に住む彼を、こんな田舎からひたすらに想うことしかできないのは、辛い日々である。
町にいるのはモダンガールという今風の女の子ばかりと聞く。髪は短くさっぱりとして、脚の見えるミニスカートを履くのだ。
彼を想えば想うほど、胸が苦しくなる。
だからこうして手紙を書こうというのだ。せめて自分の気持ちを伝えようと。彼にとってはただの紙切れ同然になるかもしれないが、それでも方法がないのである。
ここに自由はなかった。
次期党首を生まれた時から約束され、何重にも重ねた重い着物をしつらえられ、散りゆく桜を見つめるのを十何回と繰り返してきた。
牢獄というには余りに立派で恵まれており、自由というには余りに息苦しい環境であった。
彼に会ったのは十六の時。彼が二十の時だった。
彼は辺鄙な田舎を営業で割り当てられた、同情に値する人であった。若さを武器にどんな場所でも行ってみせますと言ったら、本当にこんな場所にまで行ってこいと言われてしまったのだと言う。
そのおかげで彼に会えたのだから、今となってこちらとしてはありがたいことなのだが。
彼は、大手会社の若手として主に製薬の売り込みを行っていると言っていた。
あまりよくは分からなかったのだが、大変な仕事らしいというのは彼の顔が物語っていた。しかし、だからと言ってそこに暗い影などは落とさなかった。
快活であり、誠実であり、紳士的であった。
彼は父様への営業のためにこの家にやってきた。
辺鄙な所であるから、薬が売れると見た上司の判断らしかった。
結果として、上司の目利きというのは当てになっていない。この辺りは町に頼らず、自足の生活を営んでいる。生薬に詳しい家というのがあるため、わざわざ町の薬を使おうという者はここにはいなかった。
この家はこの辺りを治める地主の家系であったから、まずはこの家となったのだろう。
彼は人懐こい見事な営業スマイルで父様に立ち向かい、そして見事に完全大敗したのであった。
縁側から玄関前の一部始終を見ていた私は彼が不憫でしょうがなかった。
この時、一世一代の勇気が湧き上がり、私は父様に撃沈した彼の後ろ姿に向かって走り出したのだった。
彼は驚いた顔を私に向けた。
私もなぜこんなことをしたのか、自分でも分からなかった。私自身、驚いていた。
今思えば、この生活に知らず知らず鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
あの時私は、彼に助けて欲しかったのだ。
彼は私に多くの話をしてくれた。
彼の仕事のこと、街のこと、モダンガールやミニスカート、そして「めろんそおだ」
知らないことばかりだった。私はこの町で生まれ育ち、ここ以外を知らなかった。初めてここを出てみたいと、確固たる意志を持ったのだった。
彼はまた来ると言った。
営業の基本は諦めないことだと。
私は待つことにした。
いつか彼と喫茶店というものに行くと約束したから。
あれから二年がたった。
彼は未だ、現れない。私はいつのまにか彼に好意を抱いていた。
きっと彼の上司がやはりあそこはだめだ、見当違いだった、今度はここだと、また見当違いを起こしているのだろう。
もう彼がここに来ることはないだろうと頭では理解しているのだ。
分かっているはずなのに、なぜこんなものを書いているのか。
情けない。
春の木漏れ日は少しずつ傾きかけている。
桜の花弁はきっと今日で散り終わるだろう。