勇気が決め手
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夫の不意打ち攻撃からやっと回復したかすみは、昔のことを思い出していた。
高三のあの時、片思いの彼にバッサリ振られて。
社会人になって勤めたのは思いっきりブラック企業で。
もうやってられるかと思い切ってフリーランスになったら想像以上に大変で。
そんな時に再会したのが夫だ。
忘れるはずもない。あの時の自分はボロボロだった。
◆◇◆◇
夕暮れ時のスーパー。
かすみは、夕食の買い物をする客たちの間をくぐり抜けて、お惣菜コーナーにずんずんと進んでいった。
コートの下は普段着。すっぴんを隠すためにキャップ帽をかぶっている。
一秒でも時間を節約したい。でも、腹が減っては、回る頭も回らない。だが、さすがに普段着にすっぴんで外に出るのはいかがなものか、という苦肉の策なのだ。
朝からまともな食事はしていない。ゼリー飲料で何とか腹の虫をごまかしていたが、夕方、ついに力尽きた。
冷蔵庫を開けると、かすみはがくりと膝をついた。
一人暮らし用の小さな冷蔵庫はがらんとしていて、ブーンという冷却音だけが虚しく響く。
ため息をついて、かすみは外出することにした。
このスーパーは夜閉まるのが早いから、割と早めの時間から割引セールを行っている。狙い目は、丸い黄色いシールに赤字で何割引きと書いてあるもの。美味しいか美味しくないか、食べたいか食べたくないか、はこの際、脇に置いておくとする。すべては節約のためだ。
フリーランスになってから、お金が入ってくることの大切さと、お金が出ていくことの恐怖をかすみは初めて実感した。
どんなに仕事がブラックであろうと、月に一回きちんと銀行口座にお金が振り込まれていた会社員時代が懐かしい。
いつ振り込まれるかわからないお金、いつ何どき必要になるかわからない出費。お金のことを考えるだけで胃がきりきりする毎日。
何件かクライアントを掴んだが、そのうちの一件はお金を振り込むのが非常に遅い。こちらから何度かそれとなく、次第に露骨に催促しないと振り込んでくれないのだ。
くそ、もっと仕事が安定してきたら絶対に切ってやるあんな会社。
そんなことを悔し紛れに思ってみても、悲しいかな、今のかすみには命綱なのだ。
目の前のおばあちゃんが、かすみが狙っていたお惣菜をさっと取ってしまった。
「あっ」
思わず声が漏れる。
おばあちゃんはそれを聞こえなかったふりをして、すたこらとレジに向かってしまった。
「ああ」
今日は客が多いからか、それともあまり作っていないからか、割引シールを貼っているお惣菜がほとんどない。
その中でも、有力候補だった私の五目そばが……
仕方がない、あまり好きではないが、がんもどきにするか。でもすぐにお腹がすきそう。
時間が惜しいのだ。
また外に買い物に出てくる時間などはない。他のものを定価で買うか?それとも、もう少し待つ?
でも割引されるかなんてわからないし……
もうお腹すいたよぅ。
食べ物を前に空腹で力尽きるなんて、プールで脱水症状になるようなものだ。
とにかく何かを買って帰らないと……
あっ!シールが貼ってある!
喜んで手にしようとした唐揚げに貼られていたのはピンクのハートだった。
なんで、ハートなんか……?
よく見ると、『バレンタイン』と書いてある。
バレンタインに唐揚げなんか贈るかっ!
空腹で怒りの導線が短くなっているかすみは、思わず唐揚げを投げつけたくなった。
「あれ?井上じゃないか?」
誰かに呼ばれた気がした。
確かに私は井上だけど…
かすみが振り向くと、そこに立っていたのはすらっと背の高いサラリーマンだった。かすみと同じく、買い物かごを手に持って、こちらに向かって笑いかけている。
人懐っこい笑顔、目尻に笑い皺があるのはよく笑うからだろうか。
きちんと切り揃えられた黒髪。健康そうな肌艶、清潔感のあるコートとスーツ。
かすみは、無言でくるりと惣菜の方に顔を戻した。
こんなイケメン、私知らない。つまり、人違いということだ。
そんなことより私のから揚げ!
「あぁ!」
かすみは声を上げた。かすみが一瞬目を離している隙に、かすみの唐揚げは中年のおっさんにかっさらわれたようだ。
「井上、なんかごめんね?」
イケメンが後ろから話しかけてくる。
違う。それは私じゃない。それよりどうしてくれよう。私の夕食。
でもイケメンなんて久しぶりに生で見たから、ごちそうさまとでも言うべきか。
前に勤めていた会社はみんなヘトヘトに疲れていたから、イケメンも美人もそうじゃない人も、みんな等しく不健康に見えた。
後からは、まだ男がこちらに向かって話しかけている。
「井上、もしかして僕のこと覚えてない?高校の同級生で、ほら、明の友達だよ。野球部の明、覚えてない?」
…明くん?私が高校のとき、片思いしてたあのキラキラした明くん?
興味をそそられたかすみはくるりと男の方を振り向いた。
「よかった。明のことは覚えてるんだな?あいつの親友の日下部 宗だけど…」
くさかべたかし、
日下部たかし、
日下部宗…
糖分の不足した頭はうまく回ってくれない。
「ああ!」
そういえば、明くんがよく宗って呼んでたっけ。
「日下部宗くん」
かすみは呟いた。
「そうそう。良かった、井上に思い出してもらえなかったら、僕、変質者扱いだったよ」
日下部が頬を掻きながら苦笑した。
かすみが周りを見ると、確かに周りの客が不審者を見るような目で、彼のことを見ていた。
ついでに人の流れを遮って突っ立っているかすみのことも邪魔そうな目で見ている。
「井上はこれから飯?僕もそうなんだけど」
日下部は空のバスケットを持ち上げて言った。
「うん。でも私のから揚げが今なくなっちゃったところで…」
「じゃあさ、僕んちで一緒に食おうよ。何か作るから」
「いや、私今仕事中で、無理」
「でも井上、今にも倒れそうな顔をしてるよ。うち近くだから寄ってきなよ、貧血で倒れたら危ないよ」
かすみの空のバスケットをひょいと奪うと、日下部はさっさと買い物を済ませた。
日下部宗くんってこんなタイプの男の子だったっけ?明くんの方がどっちかっていうとやんちゃな感じで、日下部くんは隣で困ったなと笑っていたような。
そういえば笑いながら頬を掻くのは昔から変わらないかもしれない。
通されたのは、本当に近くのワンルームのマンションだった。
かすみの部屋よりもよっぽどきちんと整理整頓されている。
「その辺座って。なんか飲む?」
「あっお構いなく」
そうは言ったものの、一度ソファーに座ってしまうと、眠気がどっと襲ってきた。
学生時代の徹夜とは、訳が違う。
あぁ、社会人、世知辛い……
「井上起きて。飯できたよ」
なんかいい匂いがする。
クンクンと鼻を動かしながらかすみは目を開けた。
目の前のローテーブルに置いてあるのは——
「焼きそば……」
皿いっぱいにてんこ盛りの焼きそばが、美味しそうな湯気を立てている。
「大したもの作れなくてごめん、すぐに食べたいかなって思って」
「いえいえ、十分でございます。ありがとうございます日下部様」
かすみは正座をして頭を下げた。
「そんな大げさな。冷めないうちに食べよう」
かすみはソファーの前の、ちょうどテレビが目の前に来る特等席に座らされた。日下部は左角に座った。
手を合わせていただきますをすると、割り箸を割って焼きそばを口に入れた。
「……美味しい」
熱々の麺を口に入れるたび、酸っぱいような甘いような湯気が、かすみの顔を包む。
キャベツの芯は固いし、人参はきちんと火が通っていない。豚バラ肉も塊になっている。
でも、こんな、人の手が作った、作りたてのご飯を食べるなんて、なんて久しぶりだろう。
レンチンする焼きそばでは絶対に醸し出せない作りたての麺の味。
「美味しい。美味しい」
つんとするソースが湯気となって、かすみの目を濡らす。鼻からも水が流れてくる。
「美味しいぃぃ」
かすみは、鼻をすすりながら焼きそばを食べた。
「井上、そんな泣くなよ」
日下部がティッシュを押し付けてきた。
「だって、こんな美味しいものを食べたの本当に久しぶりで」
「そんな大げさだな、ただの焼きそばじゃないか」
「でも、でも…」
かすみはティッシュで目を拭って、ついでに鼻をかむと日下部に向き合った。
「結婚してください」
……しまった。何言ってんだ私。
日下部はキョトンとした顔をして固まっている。
「っていうのは冗談で、それくらい焼きそばが美味しいってことで——」
「いいよ」
はははとこわばった笑いを貼り付けたかすみにかぶせるように日下部が言った。
「……え?」
「いいよ、結婚しよう」
「や、いきなりそういうわけにも……日下部くんにもいろいろご事情があると思いますし」
かすみは少しずつ腰を後ろに引きながら、日下部と距離をとった。
「僕は結婚してないし、バツもついてない、付き合ってる人はいないし、定職についてる。お買い得ですよ、奥さん?」
日下部は、にっこりと笑ってかすみにそう告げた。冗談ぽい、軽い雰囲気ではある。でも、その割に…
……目が笑っていないんですが。
「ええ。いやその」
「井上は誰か付き合ってる人はいるの?」
「いや、いないけど」
「じゃあ問題ないね」
そう……なのか?
え?結婚てそういうもの?
いいの?この優良物件もらっちゃって?
「よろしくお願いします」
かすみは、意を決して頭を下げた。
日下部はとびきり嬉しそうな顔をして破顔した。
◆◇◆◇
日下部はソファーでぐっすりと眠りについているかすみを見た。よっぽど疲れていたのだろう。日下部が食器を洗っている間に、ソファーで船を漕ぎ出したのだ。
「ちょっと寝てから帰れば?」
「でもまだ仕事が終わってなくて」
「一時間経ったら起こすから」
しばらくむにゃむにゃ言っていたが、そのうち規則正しい寝息が聞こえてきた。
食器を洗い終えた日下部は、手を拭くとかすみの体にブランケットをかけた。
目元にかかっている髪の毛を後ろに流す。
「まさかプロポーズしてくれるとは思わなかったけど……待った甲斐があったな。でもこんなにやつれちゃって、これからは僕が幸せにしてあげるから」
日下部は愛おしそうにかすみの頬を撫でた。
◆◇◆◇
かすみは思い出に浸っている間に冷めてしまったコーヒーを口にした。
うろ覚えの高校生時代よりも、ずっとしっかり立派に成長していた彼に恋におちて、勢い余って逆プロポーズをしちゃった時は、本気でやらかしたと思ったものだ。
でも、今こうして幸せに暮らしているのだから。
一つ一つのイベントを点で見れば、失敗だらけの人生だったけど、長い目で見ればこれも成功なのだろう。
成功と失敗の間に明確な区切りなんてないものだ。
あの逆プロポーズは、勇気を振り絞ったと胸を張るにはいささか唐突過ぎたけど。
でも、行動を起こしたからこそ、今の私があるわけで。
「勇気が決め手って、案外真理を突いてるのかもしれないわねえ」
かすみはカップケーキの最後の一口を口に放り入れた。
焦げた硬い部分がじゃりっとして、それからチョコチップの甘さが口の中に広がった。




