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かすみの初恋

「カップケーキか。懐かしいな」

 夫が目を細めて笑った。


 朝からこんなにのんびりしていて、この人はいいのだろうか?


 かすみの視線に気がついた夫は、朗らかに笑った。

「今日は直接取引先に行くから、いつもよりは余裕があるんだよ」

 それならいいけど、と思いながら、かすみはカップケーキを一口食べてみた。


 朝っぱらから甘ったるい匂いでお腹がいっぱいになってしまったので、実はまだ何も食べていない。一口食べた途端にぐーっと腹が鳴った。

 うーん、空きっ腹にブラックのコーヒーと甘いカップケーキ。中年にはなかなかヘビーだ。


 夫がマグカップを片手にチラチラとこちらを見ている。

 話を聞いて欲しいそうな夫の表情に気づいたかすみは、「カップケーキがどうしたの?」とおざなりに聞いた。

 どうせ昔の女にもらったとかだろう。あ、ここほんとに固いわね。じゃりっとするのは砂糖の塊だろう。あの子、ちゃんとに混ぜたのかしら?

 カップケーキに気をとられていたかすみは、夫の方を向いてすらいない。


「高校の頃さ、かすみ、僕の親友のこと好きだったろう?」

 ぶっ!

 いきなり食らったパンチに、かすみは思わず咽せた。

 ゴホゴホ


「変なところに詰まった!何すんの!」

 ごめんごめんと言いながら、夫はキッチンでグラスに水を入れると持ってきてくれた。

 ありがたく、それを一口飲む。

「なんであなたがそのこと知ってるの?」


 夫の親友は、かすみが高校時代に密かに片思いをしていた相手だ。夫の友人として結婚式にも来てくれた彼に淡い感情を抱いていたことは、夫には秘密にしていたはずだけれど。


「なんでって……僕のいる前で告白してたじゃないか。高三のときに」

「そんなことしてないよ!」

 かすみは反射的に否定した。

「いや、した」

 夫の思いのほか確信のある答えにかすみは首をかしげた。

「そうだったっけ?」


 高三のバレンタイン、高三のバレンタイン……

 昔の記憶を引っ張り出す。

 かすかに香るチョコレートの匂い、かじかむ指先、耳元で鳴る早い鼓動。

「そういえば、ああ、すっかり忘れてた。初めて手作りっていうものをしたんだよね」

 勇気を振り絞って渡したのに、あっさり振られちゃったんだった。

「何あげたんだったっけな、何かのチョコレートだったっけな?」

 頭をひねらないと出てこないほど、昔の記憶は朧げな輪郭しか見えない。


「チョコレートのカップケーキだよ」

「カップケーキだったっけ?全然覚えてない。それより、振られたことのショックが大きくて……あんなにきっぱり振られたのなんて、あとにも先にも、あれが初めてだわ」


 ある意味、初めての男ってやつね。

 彼は元気だろうか。確か、オーストラリアかどっかに移住しちゃったんじゃなかったっけ?


「そのカップケーキ、どうしたか覚えてる?」

「そのときのカップケーキ?いや、どうだろう。振られちゃったから、家に持って帰って自分で食べたのかな」

「それ、僕に渡してきたんだよ。あいつが振った後で、じゃあ隣にいる君にあげるって」


「……私そんなひどいことした?」

 さすがにそれはないだろう自分。

「なんかごめんね?」

 そんなものを渡されても迷惑だろう。でもこの人は優しいからきっと受け取ってくれたんだろうな。


「あいつがあんなにきっぱりとかすみのことを振ったのは、あいつ、僕がかすみのこと好きだって知ってたからなんだよ」

 夫は面白そうに笑った。

「そうなの?」

「そうなの。結果的にかすみから、バレンタインのチョコはもらえたんだけど、すごい複雑な気分だった」

「それは大変申し訳ない」

 きっと、その時の自分はよっぽどテンパっていたんだろう。……そして黒歴史として封印した……んだろうなぁ、きっと。


 高三の受験シーズン。

 不安と期待でいろいろなものがごちゃまぜになっていたあの頃。叶うはずはないと思っていたけど、どうしても渡したかった、初めての本命チョコ。


「思い出した。あのカップケーキ、うちに帰って残りを食べたら、中が生焼けだったんだった。大丈夫?お腹壊さなかった?」

「腹は大丈夫。でも心が痛くて泣きながら食ったけど」

 夫は胸を押さえて、泣きまねをする。

「なんでそんなこと私忘れて……そっか受験の年だったから、なんかバタバタしてたんだよね」


 振られちゃったから、もう私には勉強しかないと思って、がむしゃらに勉強したんだった。で、確か卒業式も早かったから、それっきりだったな。


「ホワイトデーにお返しを渡したかったんだけど、連絡先を知らなかったから、かすみの家まで行ったんだ。そしたらもう引っ越したって言われて」

「うちまで?」


「うん。自宅まで行くのはさすがにハードルが高かったから、勇気を振り絞ったんだよ、僕も。どうしてもかすみに渡したかったから」


 義理だっていうのは十分わかってたんだけどさ、僕もちょっと意地になってたっていうか、と夫は苦笑いしながら頬を掻いた。


「えー。そんな話聞いてないんだけど、お母さんから」


 他県の大学に受かったから、その寮にちょっと早く入れるってことで、さっさと荷物をまとめて引っ越したんだった。


 お母さんが言い忘れてたのかもしれないし、私が聞いても覚えていなかったのかもしれない。うっかり者なのは遺伝ね。


「まあいいけど、僕は今幸せだからね」

 夫はかすみのほっぺたにちゅっとすると、キッチンを出ていった。

 かぁっとかすみが頬が赤くなる。


 夫相手に赤面するなんて、私は乙女か。


 学生時代の思い出に、気持ちを引っ張られているのかもしれない。


 かすみは熱を持った頬を手で覆った。

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