朝のラッシュアワー
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もう本当に嫌になる。
ママってば、何でベーキングパウダーのこととか知らなかったの?普通大人ならそれくらい知ってるでしょう!普段から手抜き料理ばっかりしてるから!パパはなんであんなガサツな女と結婚したんだろう? もっと料理上手でおしとやかな人と結婚すればよかったのに。……まぁそしたら私が生まれなくなっちゃうんだけど。
みのりは駅までダッシュしながら、頭の中で母に悪態をついていた。
今日のために新しく買ったマスカラは、走っているうちに汗が出てきて、滲んできている気がする。本当はマツエクをしたかったのに、目に悪いから駄目とママに止められてしまったのだ。
髪の毛だって本当はちゃんとに巻きたかったし、昨日の夜、お風呂で念には念を入れてトリートメントをした髪の毛も、もうボサボサだ。
吐き出す息は白い。くるぶしソックスオンリーの足にだって、冷たい風がびゅう吹いている。
なのに、なんで私はこんなに汗かいてるのっ!
息を切らしながら駅まで着くと、ちょうどいつも乗っている電車が出発したところだった。
「ああ!」
ため息をつきながら定期を取り出す。
有名なお菓子メーカーの紙袋に入れておいたカップケーキのラッピングを見ると、げっ、くしゃくしゃになってる。
なんで!?あんなに綺麗に詰めておいたのに!
ピンク色のラッピングペーパーはへにょへにょに折り曲がっていて、あんなに頑張って練習したリボン結びは、チョウチョ結びになっている。
「最悪」
みのりはテンションだだ下がりのままで、駅の階段を上っていた。
休んじゃおうかな、このまま風邪をひきましたって言えば、明日もう1回、バレンタインをやるなんてことも。
でも今日友達と交換するって約束しちゃったし、藤太は今日いっぱいバレンタインのチョコをもらうだろう。その波に乗り遅れるわけにはいかない。
一番綺麗なラッピングの、一番美味しいチョコをあげたかったのに。
『こんなの作れるなんてお前すごいな。他のやつのチョコなんて目じゃないよ』
『そんなことないよ。朝、パパッと作っただけだから』
『料理できるんだ。すげえな。いいお嫁さんになりそうだな』
『そうかな?』
なんていう会話をしたかったのにっ!
みのりは怒りながらずんずんと人をかき分けてホームを歩いていった。すると、突然誰かにぐいっと手を引っ張られた。
何なのっ!?痴漢!?
後ろを振り向きながらきっと睨むと、そこに立っていたのは大柄の高校生男子だった。スポーツ少年らしく、短く刈り込まれた髪の毛。大きなスポーツバックを肩にかけ、2月の寒い時期だと言うのにコートを着ていない。大人に怒られない程度に気崩した制服で、緩くネクタイをしている。
えええ!藤太!
みのりの剣幕に押されたのか、藤太は両方の手のひらを顔の前に広げて降参のポーズをとった。
「おっ、おはよう」
みのりはごまかすように笑った。
「おは。どうした?何かあったか?」
藤太がみのりの顔を覗き込んだ。
近い近い、近いってば!
「いや、何もないよ。ちょっとママと喧嘩して。ははっ」
2人は何となく同じ列に並んだ。
「あのっ」
「あのさ」
「いや、何、どうぞ」
「や、そっちこそどうぞ」
口を開こうとしたところで、電車が来た。
この電車は、みのりがいつも乗っている電車より混むらしい。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれながら、みのりは何とか反対側のドアの近くにたどり着こうとしたが、すでに先客がいいポジションを取ってしまっていた。ちょうどドアとドアの中間地点の、つかまるところが何もないところで電車が出発してしまった。
「大丈夫か?」
すぐ後ろから藤太の声がしてびっくりしたみのりは、キャっと言いながら飛び跳ねてしまった。
途端に、周りの視線がみのりに集まった。
顔を赤くしながら、みのりは慌てて藤太の方を振り向いた。
みのりのせいで痴漢扱いされてしまったら、かわいそすぎる。
「大丈夫!こんなに混むと思ってなくて。いつもこの電車に乗ってるの?」
思わず大きな声が出てしまった。
「いや、俺は朝は朝練があるから」
藤太がボソボソと話した。
「そっ、そうだよね。朝練!」
そうだ、いつも朝練をしている藤太を見ながら、朝の校舎を歩くのが好きだったのに。
今日も頑張ってるなとか、もしかして今こっちのことを見たかもしれないとか。
頭がパニックになって慌てたみのりは、さらに話しかけた。
「今日は朝練はないの?」
「うん、部長が今日は休みにするって」
さっきからボソボソと話すので、声が聞こえにくい。
ずいっと体を藤太に近づけたその瞬間、藤太はみのりから距離を取るように後にのけぞった。
「いてっ」
「すいません!」
藤太は後ろに立っている人に頭がぶつかったらしい。急いで謝っている。
あれ、私、もしかして、臭い……?
どうしよう、朝走ってきたからか!
うっ、動かないようにしよう……
みのりはうつむいて固まった。
突然、キーと急ブレーキがかかって、体が前に引っ張られた。
「うわっ!」
野太い変な声が出た。とっさの事とは言え、乙女としてどうなのだ、自分。
藤太が、腕を伸ばしてみのりを抱き留めた。
「大丈夫?」
藤太が小さい声で、みのりの耳元に唇を寄せた。
しかも近い。
ピシッと固まったみのりは、コクコクと声を出さずにうなずいた。
危険物を感知したので、急ブレーキをかけましたというアナウンスが流れた。
「危ないから。いやかもしれないけど、俺に掴まってろよ」
ぶっきらぼうな声で、藤太が言った。
掴まるってどこに?
みのりは恐る恐る藤太のブレザーの裾を握った。
恥ずかしくて死ねるかもしれない。
その様子を藤太がじっと見ていたことをみのりは知らなかった。
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