チョコレートチップカップケーキ
『成功』か『失敗』って言葉にしてしまうと、0か100かになってしまうけど、リアルな世界では、0と100の間には数字がたくさん並んでいる。1刻みでカウントすれば1から100までの数字だけど、小数点を入れてみればそれこそ無限に数字は広がる。
それと同じように、成功と失敗の間にも様々なニュアンスがあるのだ。
100%の成功も、100%の失敗も現実には起こりにくい。
私たちは、普段から、誰かが切り取って、加工して、わかりやすく咀嚼したストーリーばかりを目にしているから、少しでも失敗があったら、『世の中の全てが終わり』だと思ってしまうし、成功とは全てを手に入れることだと思いがちだ。
でも、現実的に見て、全てを手に入れている人なんていないし、いたとしてもそう思い込んでいるだけかもしれないし。
逆に、何もかも失ったなんて思っていても、さらにその下の不幸に出会うと、『あぁ、あの時はまだ恵まれていたんだなぁ』なんて思ったりするものだ。
だからね、娘よ。
母かすみは続ける。
「これは決して失敗ではないのよ」
キッチンテーブルに置かれているのは、オーブンから出したてのカップケーキだ。
チョコレートチップを練り込んだダブルチョコレートのカップケーキは、ふんわりと甘い匂いをキッチンに充満させている。
……それと同時に漂ってくるのは、焦げた匂いだけど。
キッチンテーブルの向かい側で、腕を組んで今にも泣き出しそうな顔で怒っているのは、娘のみのりだ。
「これが成功なわけないじゃん!焦げてるし、チョコチップもドロドロに溶けてるし!表面もひび割れてるし!こっちなんか、カップの方から出ちゃってるし、こんな犬のうんちみたいなやつ持ってけるわけないじゃん!」
「……その表現はどうかしらね」
一応親として注意はしてみたものの、悲しいかな、確かにそう見えなくもないと思ってしまうのはさすがにひどいか。
「いいじゃない。チョコレートなんてどうせ茶色いんだし、チョコチップだってそのうち冷えたら固まるわよ。問題ないない」
母かすみはひらひらと手を振った。
「問題大ありだから!見てよ、この写真。カップケーキの表面はツヤツヤだし、チョコチップだって原型をとどめてるし。このハート型のチョコチップ!ね、見えるでしょう。ここ!わかる?ハート型してるの!色だってこんなに黒くないし、もちろん焦げてもないし、それに……それに……ちゃんとに膨らんでるじゃん!」
娘みのりは、スマホの写真をガンガンと指さしながら叫んだ。
そう、そうなのだ。なぜかカップケーキが全く膨らんでいないのである。
「膨らまないな、おかしいな。もうちょっと焼いてみる?」なんて言っている間に、どんどん焦げていってしまった。
元々生地が茶色いから、オープンの扉越しに見ても焦げているのかどうかの判別がつかなくて、やばい、なんか焦げた臭いしない!?と慌てて取り出したときには、既に遅く……
表面は焦げ、ハート型のチョコレートチップはドロドロに溶けた上に焦げている。
母かすみとしては、ちょっと前(のような気がするけど結構前かもしれない)に、焼きチョコなんていうのも流行ったし、これはそれでいいんじゃないかとのんきに考えていたのだが……
熱々のカップケーキをつついてみると、確かに硬い。
「おかしいわね。ちゃんとにベーキングパウダーを入れた?」
「入れたし。……なんだったら膨らまないと困るから倍量入れたし。なんで膨らまないの?このベーキングパウダー腐ってるんじゃないの?」
娘はベーキングパウダーが入った缶を目の高さまで持ち上げると、中が透けて見えるのかというくらい睨み付けた。
「ベーキングパウダーは腐らないでしょう」
「不良品なんじゃないの?どこで買ったの?」
「どこって駅前のスーパーよ」
昨日のお昼過ぎ、自宅のパソコンで納期に合わせるために必死に仕事をしているところに、娘からメッセージが入ったのだ。
カップケーキの材料を買いたいんだけど、私、今日部活で遅くなるから買っといて、と。
マジかよと思いつつ、寝不足の頭で何とか部屋着からのそのそと着替えると、駅前のスーパーまでママチャリをこいで買い物に行ってきたのだ。
「おかしい……きっと不良品なんだよ、あのスーパー、訴えてやる」
駅前の便利なスーパーは娘に敵認定されたらしい。
ベーキングパウダーが膨らまないぐらいで訴えられたら、スーパーなんてとっくに倒産しているだろう。
「まあいいじゃない、こっちとこっちとこっちはそれなりに見栄えがするんだから、これを持っていったら?」
「でも、なんでこんなに膨らまないの!」
どうしても膨らまないことが、お気に召さないらしい。この子は昔から気に入らないことがあると、ずっとそれを覚えているのだ。
まったく、誰に似たんだか。
かすみはため息をつきながらスマホ検索をした。
『ベーキングパウダー 膨らまない 何で』
優秀なAIはすぐに答えを弾き出してくれた。
「ベーキングパウダーは水と反応して炭酸ガスを出すから、しけってると膨らまないんだってよ、あんた、昨日の夜、生地の準備してたでしょ?だからきっと夜の間に炭酸ガスが抜けちゃったんだろうね」
「なっ……」
娘は、声が出ないほどショックを受けているようだ。
「だって、今朝、どうしても焼きたてのカップケーキを持ってきたかったんだもん。でも朝はきっと時間がないだろうから、前の日に準備しておこうと思ったのに……」
おおっと、本格的に泣き出しそうだ。やれやれと、かすみは頭をかいた。
「……大体……」
娘が涙目で、かすみを睨んできた。
「なんで止めてくれなかったの!主婦ならそれくらいのことを知ってるはずでしょう!?」
はあ?こっちにやつあたりか。
「そんなの知るわけないでしょう。ベーキングパウダーなんてめったに使うもんじゃないし、だからホットケーキミックスのレシピにしとけって言ったのに」
「それじゃあ手作りじゃないし!」
どうしても、手作りのお菓子をあげたかったらしい。誰にとは言わないが、あげたい人がいるのだろう、そういうお年頃である。
「ホットケーキミックスなんて邪道だし」
「はいはいわかったわかった。それよりいいの?さっさと支度しないと遅刻するわよ?」
「遅刻してもいい、もう一度作り直す」
「それは駄目。学校に行きなさい」
「でもこんなの恥ずかしくて渡せないし!」
「遅刻していく方がよっぽど恥ずかしいわよ。なんて言い訳するの?『カップケーキが失敗したんで、朝作り直したので遅刻しました』っていうの?クラスで笑いものになるわよ」
「生理痛でしたとか言えばいいじゃん。先生に連絡してよ」
「却下」
母親が折れないことを悟った娘は、ドアに机に、いろいろなものに八つ当たりしながらリビングを出ていた。自室のドアをバタンと閉めて叫び声をあげている。
ばたん!と言う音が響くたび、寝不足のかすみの頭がズキズキとする。
朝っぱらから近所迷惑だわ。
かすみは頭を抑えながら、本日何度目かになるかわからないため息をついた。