『或る倫理を超えた技術の総体』
『或る倫理を超えた技術の総体』
㈠
自分には時折、文章の主体が揺らぐような憂鬱を覚えることがあって、それが尚、自分の技術の限度だと知る時に、危うい現実の手順を踏もうとする、一種のクライシスが、脳裡を過るのである。それは、何度も言う様に、自分の技術的閉鎖的限度に、打ちのめされるのである。
㈡
しかし、それらの云わば、総体として見れば、即ち自己の倫理観に依拠しているのであって、その倫理を放棄するか保守するかに、出来事の度に、苛まされるのである。常時、苛むことで、生きる度に脳が委縮していくかの様だ。
㈢
だから、自分の人生を開拓出来ない、自己に問題が有ることは歴然としているのだが、現実に対峙する刹那において、その思考は白痴化されてしまう。だから、或る倫理を超えた技術の総体としては、白痴時に置いて、そこに倫理の打破を降臨させること、結句、それが、総体をも変容させてくれることを、今後、願う必然性が、自己には必要なのである。