01-07 魔王問答
麗らかな午後の日差しに照らされ、木の香りで満たされた室内で静かに船を漕ぐ。
村にある学び舎は勇者見習いを育成する教育施設であると同時に、一部の区画は公共施設として村民が誰でも使えるように解放している。
とはいえ今や昼食の真っ最中。屋内では大人は食事と雑談に耽っており、屋外では食事を終えた子供たちが外を駆け回って遊んでいるものだから図書室はその静謐さをよりいっそう極めていた。
「ぐう」
否、間抜けな寝息が静寂をぶち壊していた。
長椅子に腰かけて本を読もうとしたのか、その少年の手には分厚い本が握られているものの、当の本人の意識はここにはない。
「ヨダレ付いちゃうでしょ。寝るなら本を離して寝なさい」
「んあ!」
突如横から声をかけられ、びくりと目を覚ますティジー。勢いよく身体を起こしたため、真後ろにある本棚に頭をぶつけた。痛い。
隣を見れば、ティジーの持つ本をむんずと掴むフォランの姿が見えた。
「な、なんだよフォラン。読書なんて珍しいな」
「心外ね。その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
寝起きで頭の回らないまま軽口を叩くが、この時間に図書室で人と出くわすこと自体珍しいことは確かだった。
ティジーが起きたためか、本を掴んだ手を離し、その隣に座りなおすフォラン。二人がけの長椅子とはいえ、少し距離が近いと思ったティジーは僅かに身体をフォランとは逆の方向に傾ける。
「や、まじで何? オレはアレだよ、明日から始まる〈成人の儀〉のために、そろそろ本気を出し始めてたんだけど」
「そうよね、歴代の魔王についての本を読むくらい勉強熱心で感心するわ」
あろうことか本の内容まで察されていたようだ。少々不満に思って、開いていた手元の本をぱたんと閉じる。古紙の香りがふわりと香った。
そうしてフォランの方を見ることなく、片手でその本を差し出すティジー。彼女は内容を確認するまでもなく大人しく本を受け取ったので、やはり図書室へ来た目的は同じだったようだ。
目次を開き、紙に指を滑らせる姿はなかなか様になっているな、などと膝に肘をつきながらティジーは思う。
「当たり前だけど、〈隷属の魔王〉は書かれてないか」
「冒頭に書いてたけど、倒された魔王しか書かれてないっぽい。だからまあ、本物なのかもっていえばそうかもしれないんだけど」
ティジーが呼んでいたのは所謂、魔王全集と言うべき魔王の記録だった。書物として存在する以上、その情報はいくらか古いことは承知の上で、見知った魔王の情報を得られるか期待して手に取ったのだ。
目当てである〈隷属の魔王〉が記載されていないことが、まだその魔王が健在であることの裏付けではないかとティジーは言う。
そうして脳裏に浮かぶのは、昨日の魔獣探索のつもりだった村歩きだ。
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昨晩出会った勇者と魔王。
かつて尊敬していた先輩にあたる人物が、どうして魔王とそれほどまで親しくしているのか。魔王とは倒されるべき存在である、と学んでいたティジーはただひたすらに困惑した。
ギサディットがヘビの正体を告げた時点でヴァイサーは怒りを露わにして、すぐにその場を立ち去ったけれども、ティジーは怒るという選択肢にすらたどり着けなかった。
ティジーと同じく困惑していたのか、はたまた警戒していたのか、フォランも無言で立ち尽くしており、呆然とした二人を見かねたのか、先輩勇者はこう言った。
『驚かせて悪かった。けど、危害を加えるつもりは無いから安心してくれ。俺はこの魔王に――キッチーに世界を見せてやりたいと思って旅をしているだけなんだ。あと数日もしたらウレイブを発つつもりだから、俺とキッチーのことは口外しないでくれないか』
ティジーはギサディットを尊敬していた。
いや、おそらく今も尊敬している。何せ好感度が高いまま彼は村を出ていったのだから、評価を下げる要因がそもそも存在しないのだ。
だからティジーは反射的にその言葉に頷いてしまって、その後に礼を言うギサディットの姿を見て少しだけ嬉しくなってしまった。
今思えば、軽率だったと思わざるを得ない。
世界の脅威である魔王を、かつての勇者見習いだったころのギサディットに免じてそれを見逃すなんて。その一方で、あのギサディットならば本当に魔王とすら心を通わせたのかもしれないと羨望の眼差しを向けてしまう気持ちもある。
ティジーが勇者になりたくない理由の一つ、「勝てないから」の根底にあるのは、ギサディットのような性格も体力も技術も申し分のない人間がいる場に並び立ちたくないという羞恥でもあった。
結局、見知った人間が勇者であるが故に、また自らが魔王について何も知らないが故にこの気持ちに結論が出ないのだろうと、一夜明けてもなお悶々と考え続けたティジー。昼時になってからようやく、図書室で魔王の情報でも集めてみようかと思い立ったのである。
そこに昨晩同席した、幼なじみがやって来ることは想定外であったが。
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「キッチー、かあ」
「キチキチ言ってたからよね、きっと」
聞くからに安直なその名を呟く。
慣れ親しんだ存在の名を、鳴き声由来で付けるのはどうなのだろう。真意は名付け親と思われるギサディットのみぞ知る。
「ちなみにティジーは〈隷属〉の意味、分かってる?」
「あー、なんかアレだろ。奴隷みたいな」
「奴隷まではいかないと思うけど。確か、手下とか部下って意味だったかな」
かの有名な〈漆黒の魔王〉に比べれば随分と具体的に「悪そうなこと」をしていそうな魔王だなとティジーは思う。
ギサディットの言葉を借りるなら、「〈隷属〉はその名の通り人懐っこい」とのことだが、それはつまり魔王自らが〈隷属〉と化するのだろうか。名前の印象からすると〈隷属〉を増やすような魔王に聞こえるが、昨晩のギサディットにぺたぺた擦り寄るヘビは――ああ思い出しただけでもおぞましい。
ティジーは〈隷属〉のことをあまり考えないことにした。
「フォランはさ、魔王は悪いヤツって思ってる? 授業で習う知識とかじゃなくて、一個人の意見として」
勇者は魔王倒すもの、というしきたりがあるため、今まで魔王は倒されて然るべき存在と思っていた。けれども昨晩の光景を見てからは、本当にそれは正しいことなのだろうかという疑問が湧いてきた。
生憎とティジーは勇者となっても魔王を討伐する予定も無いし、したいとも思わない。けれども、もし全ての魔王が悪いヤツでなければ、魔王を放置していることに後ろめたい思いをしながら日々を過ごさなくてもよいのかもしれない。
とはいえ、魔王を倒さない勇者は職務怠慢――つまり不労勇者になってしまう――ということだから、いずれにせよ表立って堂々と暮らすことは叶わないのだが。
「私は、魔王って存在そのものが悪くなくても周りの人たちが悪いって言うなら、それは悪いヤツだと思う」
「……多数決の話?」
「なんだろ、集団心理の話かな。でも結局は多数決の話になっちゃうんだろうな」
断言してくれると思ったフォランが語尾を濁したことに少し驚くティジー。それこそ、普通に考えて、とか、一番常識でいえば、とかいったような枕詞も付けてくると思っていた。
「それ、フォランの意見は入ってないよな」
「私一人の物差しより、大人数の言葉の方が当てになると思うんだ。よそ者が独自の倫理観で物を語るより、現地の人の価値観に合わせて物を語る方が理にかなってるだろうし」
「……その方が現実的?」
「そうじゃないと、やってけないんじゃない? 私たちが相手にするのは世界をどうこうする魔王なんだから」
まるで世界を救うために自らの意見は捨ておく、といったような主張。魔王を倒すこと自体、広い目で見ると世界を救うことと同義ではあるけれど、この世界にはあまりにも魔王が多すぎる。
ティジーはかつて、魔王って実は倒さなくても問題ないのでは? と壮年の教師に告げたところ、拳を一発食らった経験がある。勇者がそんな心構えでどうするんだ、と大声で勇者の心構えを説かれたが、大元の問題である魔王については語られていなかったため、この教師は慣習で頭がガチガチになっているだけなんだろうなとティジーは内心呆れていた。
そういう意味でもティジーは魔王を倒すということにあまり意味を見いだせないでいたのだった。
「世界をどうこうって、〈漆黒の魔王〉レベルじゃないと難しい気がするけどな」
「……〈漆黒〉もそういう意味では悲しい存在だと思うけどね」
「どういう意味?」
ちらりとこちらに目を向けてきたフォランの目に惑いが混ざってる気がしたが、すぐに視線を逸らされる。
「授業聞いてなかったんだっけ。教えてあげるわよ、〈漆黒の魔王〉はなぜ倒されなければならなかったのか」
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最も世界で有名だとされている勇者シャルキに倒された魔王が〈漆黒の魔王〉である。
シャルキの物語は絵本、小説ひいては演劇など多岐にわたって展開されている。
童話の如く広く知れ渡っているシャルキは、今から二百年ほど前に存在していた実在の人物である。
もちろん彼もこの〈勇者村〉出身の勇者であることから、少なくとも魔王は二百年前から存在しており、なおかつ〈勇者村〉のしきたりもその当時から機能していたと言えるだろう。
絵本では「とても悪い魔王」としか記述されていない〈漆黒の魔王〉だが、実は各媒体あるいは物語の編集者によって、どんなことをしたかという点は異なっている。このことから〈漆黒〉が実は何をして悪い魔王だと認識されたのかがとある界隈では歴史の研究課題とされている。
唯一明らかなことは、〈漆黒〉を倒そうとした若者――絵本ではそう記述されていたが、実際にはシャルキ以外の勇者――が、〈漆黒〉によってその命を奪われたということである。そういった意味では、とても悪い魔王とはすなわち多くの人を殺めた魔王、と解釈出来る。
けれども逆説的に考えれば〈漆黒〉は、自らを殺めようとする火の粉を振り払っただけに過ぎず、その殺人は目的ではなく結果である。
世界の脅威とされている魔王に同情するわけではないが、〈漆黒〉による被害が仮に殺人だけだったとしたならば、それは同時に彼が無実だったのではないかという解釈も出来る。
つまり、なぜ〈漆黒の魔王〉が倒されなければならなかったのかに対する解はひとつ。
――王国に魔王と判定されてしまったから。
実害の有無に限らず、王国は「短期間では大した影響は受けないが、長期間放置していれば確実に人々に害をなす」存在を魔王と定義している。
故に〈漆黒〉は、まだ大きな被害を出していない「短期間」にあたる時期に、シャルキによって倒されたと言える。
被害が出てから討伐するよりも、討伐をして被害を未然に防ぐことの方が利点が大きい。
すなわち世界で最も有名とされる〈漆黒の魔王〉は、その身が大成する前に討伐されてしまったと言えよう。
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「……オレたしか、授業で『魔王だから』って答えたと思うんだけど」
「間違いではないけど、先生的には『理由は特にない』って答えが欲しかったみたいだけどね。ティジーの答えだと〈漆黒〉である意味がないじゃない」
なんだかんだで正解を答えていないのではないかと言うティジーを諭すフォラン。
それでも、その答えはイジワル問題の類ではないかとティジーは唸る。他の魔王だって何かしたから討伐したからではなく、魔王として存在したから討伐されるのだから、倒すべき悪があったとしてもその理由自体は後付けのものではないのか。
と、言い返してもフォランにうまく論破されるだろうなと思い、その不満は胸の内に留めておくティジー。
「もっとも、みんなが笑ったのはティジーがすっごく真面目な顔して全く捻りのない答えを言ったからかな」
「……オレの顔かよ」
爆笑の原因はどうやら質問の答えでは無かったようだ。
釈然としないものの、悩みが一つ解決したのでひとまずティジーは昨日の話から〈漆黒の魔王〉の話へ頭をシフトさせる。
「けど、なんつーかこの〈漆黒〉の話、かなり魔王寄りじゃね?」
「それを言うなら、世間も勇者に寄りすぎているから中立なんてないと思うけど? でも、だからこそ私は勇者として魔王を討伐するなら、世間の意見に寄るべきだと思うの」
一個人の、しかも勇者が魔王の善し悪しを己の物差しで測ることで混乱を招くくらいならば、その判断ごと世間に任せてしまえばいい。
フォランの主張はそういった、勇者という「仕組み」に適したものだとティジーは思った。
「すごいな、フォランは。オレはそこまで勇者のこと考えてなかったや」
「人によっては思考停止って言うかもしれないけどね。でも勇者が魔王を討伐しなければならない前提条件がある以上、そいつが良いか悪いかなんて考えるだけムダよ」
キッパリと、そう言いきったフォランだが、その声のトーンは普段より幾分か低い。
そもそもティジーがどうしてその質問をしたのか、その意味を考えているのだろう。
「……ギサディットパイセンのさ」
「うん」
「キッチーってさ」
「うん」
「……いいのかな、あれで」
ティジーはギサディットがどのように〈隷属の魔王〉と出会い、心を通わせ、旅をしてきたのかわからない。
そもそも魔王の姿すら、ティジーは黒い人の影のような想像をしていたのだが、〈隷属〉はヘビの形をしていたのだ。その時点で魔王という存在に対して、知識不足していることは否めない。
とはいえ、だ。
〈漆黒の魔王〉も具体的に悪いことをしていたわけではないにしろ、実害が出る前に討伐されてそれが英雄譚となったのだ。
〈隷属の魔王〉を放置していたら取り返しのつかないことになるかもしれない。
けれども本当にそうなのだろうか?
もしかしたら何かの手違いで魔王と判定されたけれども、実は何の害もないヘビということも有りうるのでは無いか。
「〈隷属の魔王〉討伐を任された勇者はギサディットさんよ。……私たち、勇者見習いが手を出すべき問題じゃないと思う」
部外者であることを逆手に、フォランは早々とその問題に終止符を打った。
ぱたんと閉じた手元の本をティジーへ渡し、すっくと立ち上がる。
暖かな日差しが窓から降り注いで、本が密集した閉鎖的な空間をきらきらと照らす。
昼食の時間も終わりにさしかかり、屋外から聞こえてきた賑やかな子供の声は今や風の音と化している。
今日は本当に天気が良いな。
ティジーは図書室で一人、本を抱えながら天井を見て息を吐いた。