02-23 約束
いそいそとカバンから取り出した布の塊を手の上に乗せて念じてみれば、それは当たり前のように輝いて、真っ直ぐと前方に一筋の光を放った。
「……生きてる、ってことか」
サナーリアが手元に持っている〈御玉鎖〉が示したのは黒い球体――すなわち〈猥雑の魔王〉。
周囲のものを無作為に吸引する能力を持つ魔王は、サナーリアが数日かけて探していた〈怨毒の魔王〉をいとも容易く吸い込んでしまった。
しかし、魔王が絶命すれば魔王を探知する〈魔王水晶〉はその効力を失う。
今現在手元の水晶が光ったことから、まだ〈怨毒〉が存命しているのは明らかだ。
「ま、時間の問題だろうけど」
〈猥雑〉の能力は無尽蔵に対象を吸い込み続ける、というもので、その口に入ってさえしまえば、なんでも飲み込んでしまうことは確認済みだ。
共に魔王を観察した上司は、口の中は亜空間と繋がっているのではないかと語っていたが、サナーリアもその推測はおおよそ正しいものだと認識している。
〈猥雑〉に吸い飲まれたら外に出る手段はない、という仮定は実証されていないが、わざわざ検証しようとする気にもならない。
故に、亜空間という得体の知れない場所へ飛ばされたら、いくら魔王でも近いうちに絶命するだろうというのがサナーリアの見解だった。
とはいえ、今現在〈怨毒〉は生きている。
曲がりなりにも仕事で調査に来ているのだから、魔王の容姿くらいは記録するかと、サナーリアは閉じた手帳を開いて、再度ペンを走らせた。
最早先ほどの記憶を呼び起こす作業になっているが、人が報告する以上、主観は入って当然のものと割り切る。
興が乗ったので、ついでに写生もしておこうかと頬をゆるめるサナーリア。
クモの上に煙突が乗ったような造形だから、絵心がなくても多少はそれらしいものを描写できるはずだ。
「よしよし。これ描き終わったらフォランとちっこいのを呼んでさっさと帰ろ……」
余白に写生を始めたサナーリアは、背後で草が擦れる音がしたことに気づいて手を止める。
足音だ。
同伴していた二人は、先ほど見知らぬ男が何かを見つけたとかいう叫び声に反応してそちらに向かったが、目視した限り、二人はまだサナーリアの左前方にいる。
その叫び声のあとに誰かが目の前を走り抜けたことは覚えているが、わざわざぐるりと回ってサナーリアの後ろにやって来るものだろうか。
そういえば〈怨毒〉が吸い込まれたのはその後だったことに気づいたサナーリアは、いい迷惑してくれたのではないかと今更になって見知らぬ男に対して不満を覚える。
しかし、こんな盆地に人などいるだろうか。
どちらかというとメリパルカ寄りではあるが、公道沿いではないこの地に偶然人が居あわせるなんてことはないはず。
であれば、この足音は順当に考えて野を彷徨う獣が妥当だろう。
渋々と手帳を閉じたサナーリアは、足元に置いた弓を掴む。野外では矢を当てたことはおろか、弓を引く段階になるほどの危機に遭遇したことすら無い。
仮にそういう状況になったとしても、剛腕な上司が前に出てなんとかしてくれたからだ。
「ふっふっふ……。なんでこういう時にいないのさ、あの糸目は」
肩を縮こませて、足音を立てぬよう後方に向かってゆっくり歩くサナーリアは、迷子になった子供のようであった。
足音は既に止まっていた。
こちらに気づいたのだろうか。
木が乱立する見通しの悪い視界に舌打ちしながら、木以外の何かがいないかと辺りを見回してみる。
と、サナーリアは左前方に人影がいるのを視界に入れた。
地面に座って休んでいるように見える。
念入りに周囲を見回すも、獣の姿は発見出来なかったので先ほどの足音はあの人間のものだろう。
眼前の危険がなくなったことに安堵しつつも、近くには魔王がいる。
ここで休むのは愚策だと忠告するのが〈対策室〉の役目だろう、と判断したサナーリアはしゃんと背すじを伸ばして人影の方へ歩き出した。
「……ん? なんか、見たことあるような」
相変わらず人に興味がなく、記憶力の悪いサナーリアは、中性的な顔の美少年を見ても、それが誰だか思い出すことが出来なかった。
さらに近づくと向こうもこちらに気づいたようで、わざわざ立ち上がって近づいてきた。
すらりとした細身の美男子を見ても、サナーリアはひたすらに誰だろうと眉を寄せる。
ところどころ破けた外套は野性的だが、歴戦の旅人と判断するには歩き方に緊張感がない。
そして、結局歩いている最中に思い出すことが出来なかったので、美少年の目の前で止まったサナーリアは、腕を組みながら小首を傾けた。
「えーっと。どちらさまでしたっけ?」
「……そうですか。覚えていないんですね」
表情を変えずに淡々と語った少年を見て、まずいと感じたサナーリア。人付き合いが悪いので、こういう顔は見慣れている。
それらは総じて機嫌を悪くした時の顔だった。
「あ、や。顔は見た事ある、見たことあ……ッ!?」
必死に弁明しようと、首を引っ込めて思案し始めたところで、サナーリアは顎に強い衝撃を感じて呻く。
ぐらりと頭が揺れる感覚。
視界と思考がちぐはぐになって、だんだんと意識が黒に溶けてゆく。
顎の痛みで正気は保てない。
音が光がぐるぐる回って、それらを理解するのはとても出来ないとわかった時。
サナーリアの意識はぷっつりと途絶えた。
◆
「っとと」
「……知り合いかの?」
よろけた銀髪女を受け止めたヴァイサーは、下から聞こえた声に、目を瞬かせた。
目を閉じた女は完全に意識を失っている。
人を気絶させるのは初めてのことだったが、あまり良い気分ではなかった。
それは少なからず彼女のことを知っているからだと思うが、向こうはそうでもなかったらしい。
「この人は覚えていないみたいだから、一方的な知り合いかな」
「ほう?」
「〈魔王対策室〉の人だよ。……ってもボスは知らないか。勇者の支援をしてくれる国の役人さんってこと」
何故ここにいるかは分からないが、顔を忘れられていたのは不幸中の幸いだった。
淡々と説明しながら、ヴァイサーは意識を失った少女を地面に横たわせる。
ゆっくり置いたおかげで目は覚まさなかったようだ。
ふうと小さく息を吐いて、肩を下ろすヴァイサー。
眠る銀髪女を見つめる白獣は、いつのまにかヴァイサーの左隣に座っていた。
「ワチがおるから気絶させたのじゃな」
「一時的とはいえ、魔王と協力してるからね。この人が起きて面倒なことになる前に、とっとと〈クロアナ〉を倒さないと」
「……ソサーカはどうするのじゃ?」
立ち上がったヴァイサーの背にチコラハは、ごく単純な疑問を投げかける。
ヴァイサーはそれに答えぬまま、右前方の木陰に横たわる人影を見つめた。
ソサーカの右半身は、謎の紫煙によって火傷を負ったように焼けただけていた。
かの煙は外套も服をも溶かし、色白なソサーカの肌は肩口から腕にかけて真っ赤になって露出している。背中の大半も煙を浴びてしまったようなので、現在ソサーカはうつ伏せで寝かせられている。
それは一歩踏み間違えればヴァイサーがそうなっていた負傷であり、その点で言えばソサーカはある意味ヴァイサーの盾となったともとれる。
しかし、勇者であるヴァイサーにそれを悲観する時間はない。
ヴァイサーには彼の手当てより優先すべきことがあるのだ。
「……自業自得だよ」
「そうかの」
「セセルカを悲しい顔をさせるお前に手助けなんて頼まない、って啖呵切った矢先のことだし。僕がここまで運ばなきゃ全身やられてたと思う」
〈クロアナ〉に気づかれるから大声を出すなと注意したところから口論は始まった。
口火を切ったのはソサーカだが、火種を巻いたのはヴァイサーだろう。
案の定ヴァイサーに不信感を抱いたソサーカが忠告を無視して前線に飛び出たところで、ソサーカは謎の黒い塊が吹き出した煙をめいいっぱいに浴びたのだ。
それを見たヴァイサーは咄嗟に背中と膝裏に腕を回してソサーカを抱き抱え、その煙から逃げるべく野を駆けた。
大きく弧を描くように走り、昨日〈クロアナ〉がいた木々の隙間に戻ってきたのがつい先程のこと。
ヴァイサー自身も多少は煙を浴びたものの、量が少なかったからか、外套が溶ける程度で被害は済んだようだ。
結局、居心地がいいと思っていたのは錯覚で、ヴァイサーが態度を変えた途端に彼らはいとも容易く手のひらを返してきた。
分かっていたことだけれど、あまりにも捻りが無さすぎてつまらないとも思ってしまう。
けれども、勇者である自分はひとつの場所に長く留まる理由は無いのだから、これでいいのだと心のどこかで安堵したのも事実だ。
「僕は勇者だ。魔王を倒してみんなを助けるんだ。……ソサーカにはまだ意識がある。だから早くあいつらを倒して」
「おにいちゃん!!」
自らに言い聞かせるように、チコラハに決意を語っていたヴァイサーは、悲鳴のような少女の声を聞いて目をそちらへ動かす。
全速力で駆けてきたであろうセセルカは、肩を大きく上下させながら兄の傍らへ膝をついた。
このままではせっかく気絶させた〈対策室〉の女が起こるかもしれない。
それに、この声量は今のソサーカには刺激が強すぎる。
あまりセセルカとは会話をしたくなかったものの、仕方ないと言い聞かせて、ヴァイサーは兄妹のもとへゆっくり歩み寄った。
「おにいちゃん、おにいちゃん! やだ、しなないで、しんじゃやだよ、おにいちゃんっ」
「セセルカ。あんまり大きな声は出さないで」
「ヴァ……ヴァイサあ」
うつ伏せに寝た兄の状態から尋常ではないと判断したであろうセセルカは、涙をめいいっぱいに溜めた瞳をヴァイサーの方へ向ける。
それから、傍らに立つヴァイサーのボロボロになった外套をひしと掴む。
ヴァイサーはそれを目で見ただけで、膝をつくことはしなかった。
「おにい、おにいちゃん、だいじょうぶなの?」
「僕は医者じゃないから分からない」
「いきてる? いきてるんだよね?」
「うん、それはわかるよ。ちゃんと生きてる」
「しな、ない……? ずっと、いきてる? だいじょうぶ?」
「……だから、それは」
先ほども告げたでは無いかと言葉を投げる寸前、チコラハがセセルカの持っていたカバンに頭を突っ込むのが見えた。
皮の水筒をくわえてカバンから頭を出したチコラハは、その栓を強引に引き抜いてソサーカの上に水を不器用に振りかけ――否、殆どの水は水筒の口から地面に垂れ流れていた。
家のネコが、水筒の栓を思わず引っこ抜いてしまって水がだばだばにこぼれちゃった風な現場である。
「ぼ、ボス? なにしてるの?」
「火傷を被った時は冷やすのが良いのじゃろ?」
驚くセセルカに向かって得意げに語るチコラハ。その足元は水だらけで少々みっともない。
しかし、ヴァイサーは怪訝な顔のままで呆れたように返答する。
「ソサーカは火傷をしたわけじゃないと思うけど」
「じゃが、肌は火照っておる。冷ますのは悪手ではないと思うぞ」
「わ、わかった!」
怪我の手当が出来るとわかったセセルカは、白獣から水筒を奪い取り、円を描くように水を撒く。
すると空中に弧を描いた水は一瞬で氷になり、そのままの形でソサーカの身体にぽとりと落ちた。
セセルカはそれを見ても驚くことなく二度三度と水筒の水が無くなるまで水を撒き散らす。
「……水を凍らせる能力」
「正確には水の状態を変える能力じゃ」
かくして、歪な形の氷がソサーカに積み重なることとなった。
ソサーカは多少呻き声を上げたものの、特に良いとも悪いとも言わずにそのまま地面に横たわっている。
惜しみなく自らの能力を行使した魔王のおかげで、ヴァイサーはひんやりと周囲の空気に冷気混じったのを肌で感じる。
絵面としてはとても処置のように見えないが、気が晴れたセセルカは赤い目を擦りながらボスにお礼を告げた。
「礼には及ばんよ。ワチがいる間はその氷は溶けさせぬから、ソサーカのことは頼んだぞ」
案の定、にこやかに応える白獣。
正しい応急処置なのかは甚だ疑問であるものの、少女が大人しくなったのを見たヴァイサーは、当初の目的は果せたと判断し、これ以上余計なことを言うのはやめることにした。
「うん。じゃあ僕もそろそろ行くから」
「あ……まって!」
足早に去ろうと踵を返したヴァイサーの外套を、セセルカが力強く掴んだ。
予期していたことが起こってしまった。
だから少女とは話したくなかったのに、とヴァイサーは内心舌打ちをする。
「……い、行かないで」
「どうして?」
「おに……兄者みたいに、なっちゃうから」
どうやら兄者呼びは後付けらしい。
そこは直さなくてもからかったりしないのに、と思いながら、振り返ることなくヴァイサーは返答する。
「セセルカは僕のこと、信用してないんだね」
「し……んよう、はしてるよ! でも、キケンじゃん!」
「危険だから、僕もソサーカみたいに怪我するって言うんでしょ。僕が弱いから。魔王を倒せるって信じてないから」
「ちがう! アタシは心配してるのっ! 〈クロアナ〉は魔王なんだよ? ヴァイサーが強くても弱くても心配はするよ!」
落ち着いたと思ったらまた声量が大きくなってきた。
興奮の原因はヴァイサーの返答ということは分かっているけれど、これ以上はどう返したらいいのか分からない。
分からないから、ヴァイサーは振り向くことが出来ない。
「……セセルカは、僕みたいな意地悪な勇者のことも心配するんだ」
「するよ! ヴァイサーがイジワルな勇者でも、ムキムキのおじさんでも、バインバインなおねーさんでも心配するよ!」
「ゴホッ」
思わず吹き出してしまった。
必死に込み上げる感情を堪えようとしても、震える肩は収まらず、息を止めて耐え忍ぼうとする。
けれども、ヴァイサーが黙ったのは機嫌が悪くなったからだと判断したセセルカは、さらにトンチンカンな弁明を続ける。
「兄者がこんなになるんだよ? あんなのに近づいたらトリだって丸焼きになっちゃうだろうし、ウマだって……ウマ焼き? 焼きウマ? みたいになっちゃうと思うし! だからヴァイサーも」
「せ、セセルカ、ごめ、ちょ、もう、やめて……っ」
「え?」
ぽかんとした少女は、そこでようやく少年の肩が怒りで震えているわけではなく、笑いで震えていることに気づく。
当の本人は至って真面目に心配を主張したつもりだったので、とても不思議そうに首を傾げた。
笑いを堪えきれずに膝を折ったヴァイサーは、ひいひい息を吐きながら咳き込む。
笑いすぎの弊害である。
ここまでくると、真面目な話をしていたつもりのセセルカは流石に頬をふくらませた。
「なんで笑うの。アタシ、シンケンに話してたんだけど」
「しっ、真剣な話の何処にバインバインのおねーさんがでてくるわけ!?」
そこでようやくヴァイサーは、お行儀よく正座で座るセセルカの方へ向き直った。
ヴァイサーの言葉に、セセルカはむぐぐと眉を寄せる。
「ほんっと……萎えさせるようなこと言わないでよ、セセルカ」
「だってヴァイサー、心配って言っても信じてくれなかったんだもん」
「僕の心配に比べれば、君の心配なんて無いに等しいからね」
「そ、そんなことないもん。いっぱいいっぱい心配だもん」
「……そっか」
尚も反論してくる少女を落ち着かせるように、ヴァイサーはセセルカの頭を撫でる。
目を瞬かせて、ぽかんとしている顔を見て、少年は再び頬を緩ませる。
「ほんっとだめだなあ、僕。何もかも中途半端だ」
「ヴァイサー?」
「……セセルカ」
頭を撫でた手を、そのまま下へ移動させ、頬に左手を添える。
艶やかな頬を親指の腹で優しくなぞり、けれども少女は依然としてぽかんとした表情のままで。
「君になんと言われようと、どれだけ心配されようと僕は行くよ。だって君までソサーカみたいになったら嫌だもん」
「……ヴァイサー」
「でも僕、死にに行くつもりはないよ。だからね、これは約束」
気の抜けた顔のまま、少女は少年の顔が近づいてくるのを見た。
それから、ちょんと唇が何かに当たって、すぐにそれが離れたのが分かった。
顔が離れても相変わらずぽかんとした顔のセセルカに、ヴァイサーはふにゃりと心底満足そうに微笑んで頭を撫でる。
「うん。じゃあ行ってくるよ、セセルカ。ちゃんと戻ってくるから、待っててね」
「……あ」
放心していた少女は、少年が立ち上がって外套を翻す様を見てからようやく意識を彼に向けた。
一緒に応急処置もどきをした白獣も、いつの間にか傍らを歩いている。
魔王なのだから戦いには慣れているのかもしれないけれど、あんなに小さな身体で何が出来るのかと疑問には思ってしまう。
そして結局、自分はまた置いてかれるのかと、一人取り残されたセセルカは唇に指を添える。
「やくそく」
足でまといの自分は一体何が出来るのだろう。
ヴァイサーはセセルカを邪魔だと言った。
けれども、心配している、とも言った。
セセルカはあまり頭が良くない。
言われたことは鵜呑みにするし、難しいことは何回も説明されなければ分からない。
ヴァイサーのことだって、一緒にいるとむずむずするから嫌いだと思っていたくらいだ。
「……わかんないよ、ヴァイサー」
絵本で読んだそれと同じ行為は、どうしようもなくセセルカの胸の鼓動を加速させる。
この感情は、自分の頭では理解出来ない。
セセルカは自分が足でまといだということはとっくに理解していた。
けれども、その足でまといの自分が、待って欲しいとお願いされたのだ。それなら、頼まれた役目を全うしなくては、と拳を握りしめる。
戦いの手伝いは出来なくても、おかえりと言うことくらいはセセルカにだって出来る。
セセルカは〈クロアナ〉がどれだけ危険か知っている。
セセルカはヴァイサーがどれだけ優しいか知っている。
だから、その両方を知る自分なら、ちゃんと彼の帰りを労わってあげられるはずだ。
そして同時に、これは他の人には出来ないことなんだということも分かって、なんだか心がぽかぽかしてきた。
「……だから、早く帰ってきてね、ヴァイサー」
頬を僅かに赤く染めた少女は、木々の先にいる少年の後ろ姿を見つめた。
遠くを歩く少年は、ちっとも小さくは見えなかった。




