01-04 獣肉の鍋
熱湯がぐつぐつと吐き出す濁った泡を丁寧に掬い取り、器へ寄せて一息。視線を戻せば、鍋の底から新たな泡が浮かび上がってくる。その煮立った湯の中からお目当てのものを取り出すと、程よい熱気と香ばしい香りが漂う。
それに酔って惚けたティジーの隣からずい、と勢いよく顔を寄せてきたのはフォラン。
「まだでしょ」
「火ぃ通ってる色じゃね?」
解体した獣の一部は本日の夕食にするということで、殺伐とした解体授業を終えた後から賑やかに鍋作りを勤しんでいたティジーたち。一日の最後に調理学のある日は、学び舎で夕食を食べることが恒例となっているとはいえ、これほど授業と食事の空気に温度差があるのは珍しかった。
そして、無作為に分けられた四人班でフォランと共に火の番をするティジーの腹の虫はだいぶ前から元気に暴れ回っていた。調理学の教師には魚肉の気分だと言い切ったものの、やはり鼻腔をくすぐる獣肉の香りには抗えない。
そのティジーの希望に沿うかのように、鍋から取り出した肉は程よい煮え塩梅に見える。
「じゃあ、切って中を見てみましょうか!」
「うわっ!? 急に来んな! 話しかけんな!」
背後から突如現れたゾウォルに、反射的な暴言をぶつけるティジー。気配なく現れた教師に驚いたのか、フォランの表情も心無しか硬い。
そんな二人にお構い無しでゾウォルはまな板をそそくさと出したものだから、ティジーは大人しく手元の肉をそこへ置かざるを得なかった。
ストン、と小気味よい音がして教師が包丁でその肉を切れば、断面からほんわりと湯気が上がる。
「うん、大丈夫そうな火加減でふね」
「ほーら言ったろ、フォランは保守的すぎんの」
「解体しながら泣き叫んでたくせに」
「それはヴァイサーだろ!?」
さりげなく切った肉をはぐはぐと食べるゾウォルは無視して、得意げ火を消すティジー。先程の解体の話を持ち出すフォランはどこか悔しげだ。補足しておくとヴァイサーもティジーも泣き叫んではいない。
慎重な性格なのか、彼女の料理はいつも少し度が過ぎているのが特徴である。野菜を規定より細かく切ったり、生地を薄く伸ばしすぎたり、今回であれば火を通し過ぎたり。おそらくそのまま加熱を続けていれば、肉はカチカチに硬くなっていたはずだろう。
決して料理が得意と胸を張れるわけではないけれど、人並みに調理が出来るティジーとしては、こと料理に関しては彼女の判断を当てにしないことにしている。
「よーし、じゃあこの班も完成ですね。あっちの班の確認が終わったら皆で食べましょうか」
「はーい、了解っす」
「じゃあ私、人数分取り分けるわね」
結局試食が目的だったのか、そそくさと隣の班へ移動していくゾウォルをなんとも微妙な目で見つめるティジー。切り替えの早いフォランはてきぱきと人数分の器へ鍋の中身を移していく。
そして隣の班とはすなわちヴァイサーの班である。否、正確にはヴァイサーが介抱されている班である。
「ほら、ヴァイサーくんあーんして」
「や、その野菜はまだ早いんじゃない……かなあ」
「ちょっとーヴァイサーくんにはお肉でしょ、おーにーくっ! ほらほら、一番肉だよっ」
「選択基準が分からないけど、えと、その、肉は有難いかもしれない!」
「お肉と野菜の両方、どぞどぞ~」
「ああごめん、僕の口は一つしかないからそういうのは順番にしてほしいかな!」
無作為とはいえ、男子一人に女子三人の班を引き当てた彼は、ある種強運の持ち主であると言える。
気の早い女子たちの鍋の味見と称した合法的餌付けに囲われる姿は、他の学友たちからの妬みの視線を十二分に集めていた。性別問わずというところが実に彼らしい。
仏の目でその経過を見守っていたティジーは、ゾウォルが背後に滑り込んでその空気を台無しにしたところまで見終えてから、視線を自班の鍋へと戻した。
「やっぱりさ、物事には限度があると思うんだ……」
「はふはふ、この肉んまい」
「フォランさん!? 先生に、皆で一緒に食べましょうって言われたよな!?」
控えめな声で鍋の感想を述べるフォランに思わず大声を上げるティジー。
そしてフォランの差し金か、はたまた匂いにそそられたのか、残りの二人の班員もちびちびと鍋を食していており、誰もヴァイサー班のことを見ていないのは明らかだった。
「みんなでたべまひょ、とはいっへたけど、んぐ、いっひょにとはいっへないよ?」
「わかった、わかったから食いながら喋るな」
図太い女子班員の一人がもごもご口を動かしながらティジーの揚げ足を取る。この女子は恋より食い気、ヴァイサーより鍋のようだ。
残る一人のもっちりした男子班員も、女子三人に囲まれている美少年など目に入らないようで口いっぱいに具材を頬張っている。美味しそうにそれを咀嚼する姿を見ていると、ついにティジーの腹の虫が鳴る。
「ティジーの分もあるよ。てかみんな食べてるから、別に食べちゃっていいと思うんけど」
たしかに辺りを見渡せば各班とも椅子に腰かけて食事を開始している様がうかがえた。横に視線を動かせばヴァイサー班も密集しながら仲睦まじく鍋を食している。この際本当に仲睦まじいのかは置いておく。
当の教師はといえば、またどこぞの班に近づいてそのお零れを貰っているようだった。生徒たちの鍋作りを手伝うこともあり、自らの分は用意していないことは明らかだったが、先ほどの試食といい、どうにもちゃっかりしているように見えてしまうティジーであった。
「ったく、真面目に他の班を待っていたオレは何なんだよ……」
ようやくティジーは丸太型の小さな椅子に腰を掛けて、机にひとつだけ置かれている器をとる。
根菜と発酵食品と獣肉を雑多に煮込んだだけで特にこれといった料理名のない鍋だが、捌いた肉の処理方法の一つとしてはかなり楽で覚えやすいレシピである。
匂いから味の予想はできていたものの、実際に舌に乗せると野菜の出汁と肉の脂が予想以上に絶妙で思わずティジーは溜息をつく。簡素な味付けというのも、田舎の村の子としては慣れ親しんだ味でとても食べやすい。
余熱で火が通ってしまったせいか、肉はやや噛みごたえのある食感ではあったけれども、柔らかい葉野菜で包めば、とろりとした野菜がその硬さを緩和してくれてむしろちょうど良いくらいだ。
懸念していたのは、女子たちが大量に振りまいた臭み消しの香草だったが、肉を噛むと爽やかな香りがほんのりと鼻を抜ける程度だったので、なるほどあれくらいの量でも問題ないのだなと心の中でメモをとる。
「やあしかし、これ美味しいけど作る前の工程が大変なんだよなあ」
「……んぐ、ボーヨウに激しくどーかんっす!」
既に三杯目の男子班員ボーヨウがしみじみと隣の班――すなわちヴァイサーを見つめながら呟けば、鍋派の女子班員は高らかに肯定。彼女の視線の先はもちろん手元の器の中である。
ティジーは自らにいっぱいいっぱいで、他人がどの程度解体出来たかなどまるで把握していなかったのだが、案外苦手としている者は多いようだ。
「でもチェテーレは慣れているように見えたけど?」
「え、やっぱそう見える? いやー私、刃物と相性良いみたいで!」
フォランの言うところによれば女子班員チェテーレは手際が良かったらしい。彼女の両親は民宿を経営していたはずなので、料理を手伝う機会でもあったのだろう。そばかすのついた頬をでれりと緩めて笑う姿は満更でもないといった様子だ。
しかし、かくいうフォランも授業中は淡々と作業を行っていたため、さほど苦手意識が無いのだろうなと眺めていれば、バチッと視線が交差する。本日二度目である。
「私、上手かったでしょ」
「見てたからわかるわ! こっち見ながら言わんでいいっつの!」
僅かに口角をあげてにやりと微笑まれても、そこから連想するのは手に赤い何かを持ったあの時のフォランなのでどうにも心臓に悪い。
その視線から逃げるように器に入った出汁汁をずびびと飲み干し、二杯目を目指して鍋の元へ向かう。そそくさと後ろにボーヨウが並んだが、どうやら四杯目に突入するらしい。
「そういや、ティジーもなかなか元気だったよなあ。ヴァイサーほどじゃあなかったけど」
「ヴァイサーは声もなく倒れてたからね! それに比べたらね!」
「どれも事実だけど、ちょっとはヴァイサーのこと考えてやれよ……」
器に鍋の中身を移しながら小さくぼやくティジー。
整った見た目に反して弄られ体質なヴァイサーだが、今回の授業に関してティジーは彼を弄る気になれない。そして気絶が発覚した要因が近場の女子の声だったことを思い出し、授業中で良かったなどと人知れず安堵する。
これが同行者の誰もいない一人旅だったならば、それこそ魔獣の格好のエサになっていただろう。魔獣が人間を食べるのかは分からないが。
「ヴァイサーだってゆくゆくは勇者として魔王を倒す義務があるんだから、臆病な気持ちを汲んで優しくしすぎるのはタメにならないと思うけどね」
ティジーの小さなぼやきに対して、さりげなく厳しい言葉を投げつけてくるフォラン。
その「義務」という言葉がティジーに深深と突き刺さった。
ウレイブで育ったからには、勇者になる、というしきたりに従わなくてはならない。人によってはシャルキのように有名になって後世へ語り継がれることを望む思う者もいるが、もちろん誰しもが前向きな気持ちを持っているわけではない。ヴァイサーとの腕相撲に連戦連敗中のティジーがこうして勇者見習いの授業を受けているのも、ひとえに義務だからである。
決められた枠組みの中で生きることが得意なフォランだからこそ、義務という言葉を「そういうもの」と受け入れられているのだろう。けれども誰しもがそういった考え方や生き方が出来ないことをティジーは知っている。
「んな事言っても、お前だって苦手なものあるだろ。ほれ見ろ、そこにヘビいるぞ」
うまく反論が出来なくて揚げ足を取る作戦に移行するティジーだがフォランは動じない。
「こんな人が多いところにヘビなんて出てくるわけないでしょ。もう少し考えて反論しなさいよ」
「言葉を発している時点で思考は出来てんだよ! てか女子なら嘘でも動揺しろっつの」
「あんた好みの振る舞いが出来なくてすみませんね。というかおたまを振り回すのはやめなさい。ボーヨウが睨んでるわよ」
はっとして振り向けば、そこには恨みがましそうな視線を向けるボーヨウが。けれどもその豊かな頬が怒りの雰囲気を幾分かまろやかにしていており、圧は弱い。
片手で謝りつつティジーがおたまを手渡せばにやりと笑い、ボーヨウは笑顔で残り少ない鍋を掻き回し始めた。
「やーしかし、旅に出た後のボーヨウってものすっごい痩せる気がするよね?」
「チェテーレさん、それ禁句!」
そのふくよかな見た目通り食事が大好きなボーヨウ。安全な食と住が確保されているからこその体型であることは明白だ。
機敏な動きは不得手だが、それ以外であれば柔軟に対応が出来るため実践科目の成績はなかなかに良い。しかしそれ以上によく食べるので身体はいつまで経っても引き締まらない。
勇者となって旅をするとなると、主に食糧面で過酷な日々を送るのではないかという懸念はある。あるが、本人の不安を助長する気がしたためティジーは口外していなかった。
「うーん、痩せたらおれもヴァイサーみたいになれるかなあ?」
けれどもティジーの心配は杞憂に終わり、ボーヨウは前向きに体型変化のことだけを想像し始めた。
「多分顔の殴り合いで負けるわね」
「あの、どうしてオレのことも見ながら言うの……?」
いまひとつ分かりにくい指標で体型変化後の容姿を一蹴したフォラン。そしてフォランの視線から何故か自らも格付けされていることに困惑するティジー。
美少年の域には到達していない自覚はあるため、この手の話は苦手である。
「私はね、身長の時点でティジーは論外かな!」
「うん、ありがとう! 可能なら顔と身長以外で判断して欲しかったぜ!」
「それをとったらティジー、何も無くなるじゃない」
女子二人による猛攻で、あっけなく存在が抹消されてしまうティジー。
反論の言葉を探すティジーだが、ふと下げた視界の先にあるものが入る。
「……ヘビ」
「だから、人の多いところにヘビなんて」
「ほんとだー! 見て見てフォラン! 真っ黒いのがいるよ!」
ティジー以外からの人物からの目撃証言からようやくそれがいつもの冗談でないことを悟り、口を紡ぐフォラン。彼女を正面にして左の茂みに黒いヘビのようなものがいる。
フォランはチェテーレが指し示す指の先を見ることはせず、静かに立ち上がる。そしてそのまま鍋に背を向けて歩きだそうとしたところでティジーがその肩を掴む。自分の肩より位置が高いのが解せない。
「片付けまでが夕食、だろ?」
「…………」
先ほどまでの軽口はどこへ行ったのか、明らかに様子が変わったフォランを見てティジーは内心ほくそ笑む。しかしティジーもヘビは得意ではない。ただ、指先で触ることは出来る。
さて、どうからかってやろうかと思考を巡らせていると背後から「あー!」という声が聞こえたので二人揃って振り向く。
「んもーボーヨウ。すぐ食べたがるの、めっ! なんだから!」
「食べようとしたんじゃないって。ただあんな真っ黒いから、もしや炭かなんかじゃないかって……」
「テカテカしてたっしょー! それに炭だと思ったなら遠くからツンツンしなくても、近づいて確かめればよかったじゃん!」
どうやらボーヨウが手を出してヘビはいずこへ消えたらしい。フォランとティジーはほっと肩を下ろすも、ティジーはすかさず背筋をぴんと張る。からかおうとした側がなにを安心しているのか。
「あんたもヘビ苦手なの知ってるから、別に取り繕わなくていいわよ」
「……へいへい。なんでもお見通しなんすね」
「幼なじみだもの」
予想していたよりも腹を立てられていないことに安堵したティジーだが、ふと先程のヘビのことを思い返して考え込む。
向こうで言い合っているボーヨウとチェテーレの声を聞きながら、フォランはそんなティジーをじっと見つめる。
「どうかしたの? まさか毒ヘビだったとか?」
「……いや、違うと思う、けど。あまりにも黒すぎたなと思って」
それこそ調理学の授業でヘビを捌いたこともあるため、近くの山に生息している大まかな品種は記憶している。
「わざわざ人のいるところにやってきたってことは余程のバカか、余裕があったのか……。黒かったのよね?」
「うん黒かった。めっちゃ黒。けど生き物ってのはわかった。目が付いてたから」
もちろん授業で全ての品種を学んだ訳では無いので知らないヘビがいたとしてもおかしくはない。けれども人間を警戒せずに近くまで寄ってきたというのはどうにも不自然である。一見人を襲うという印象の強い生き物だが、ヘビはおよそ臆病な性格なのだ。
そうして二人はひとつの仮定を脳内に浮かべる。
「……このあと、行くか?」
「ま、確かめてみないことには報告もできないからね」
「りょーかい」
軽く二人で口約束をする。
思い浮かべた仮定はなんだったのかは互いに口にはしない。
けれどもおそらくは「魔獣」だろう。
口頭で確認せずとも、二人はヘビの正体についてそんな予測を立てていた。