01-13 妹
背後の扉から僅かに漏れる灯りを見て、入口の扉が閉じられた時の光景が脳裏を過る。
人によっては狭い空間や暗い場所を苦手としているようだが、彼女にはそれが理解出来なかった。
それならば夜、寝床で目を瞑る時すらあなたは恐怖するのか。けれども彼女が他者にそれを問うことはない。
人というのは、時として純粋な疑問でさえ攻撃と認識する生き物だということを、彼女は知っているからだ。
冷たく硬い土の上を歩きながら周囲を見渡す。
迷路。道が悪い。保険。
楽観的な教師の言葉を反芻して遺跡の中を進むも、特に障害や分かれ道は見当たらない。
それどころか驚くほど真っ直ぐだった。
「ここ、どこ?」
自らの存在を確認するかのように声を出すフォラン。
外観からしてこれほど直線に道が続くほど、この遺跡は広かっただろうか。
これで地下に道が続いているのならばまだ理解出来る。というかそもそも地下へ道が続いているものだと思っていた。
一人だけの空間は、フォランの言葉を反響することもなく闇だけがあった。
正確にはところどころに小さな燭台があったので、完全な闇の中にいたわけではない。
けれども振り返ってみれば、来た道は暗く塗りつぶされたようで、燭台が輝くのはフォランがそれに近づいた時だけなのだと彼女は理解した。
一本道なのだから引き返す意味はない。
どこへ向かうか分からない道を歩き続け、ようやく分かれ道に遭遇した。
ご丁寧に看板まで用意されている。
燭台の僅かな光を元に、看板の文字を読んでフォランは腕を組む。
どちらも身に覚えがないものだからだ。
とはいえ提示されたからには、これをヒントに道を選ぶしかない。
「……全く見に覚えないと言えばウソだけど」
――右は妹、左は弟
記された言葉は道の先に妹ないし弟がいることを示唆するものだったが、生憎とフォランは一人っ子だ。正確には下に妹か弟が出来る予定だったが、彼ないし彼女はこの世に生を受けることなく亡くなった。
随分前のことだし、それを最も悲しんでいたのは両親だったからフォラン自身に弟妹への渇望はない。
故にこの不可解な看板に対しても、彼女が心を揺さぶられることもなけれは、選択を悩むこともない。
「いや悩む。正直どっちでもいいし」
どちらが正解の道かは進んでみなければ分からない。
そこで彼女は目を瞑りその場で軽く十回周る。回り終えた後に目を開けば、丁度右の通路が目の前にあった。
進むべきは妹コースだ。
「お母さんは妹がいいって言ってた気がするわ」
道が選ばれた偶然に理由をつけて、右の道へ進むフォラン。
父は弟が良いと言っていたことも同時に思い出すが、存在しない弟妹へ思いを馳せるのは無意味と、早々に頭の中からそれらを排除する。
自分が生きているのは現実なのだ。
たらればを語るのは非生産的で、後悔を語るのは非効率。
淡々と心の中でそう言いきって彼女は前に進んだ。
######
「おねーちゃん、おかえりなさい!」
いつの間にかフォランは帰宅していた。
振り返ってもそこにあるのは生まれ育ったウレイブの道で、目の前にあるレンガ造りで赤い煙突がついた家は紛れもない自分の実家だ。
ただ一つ見慣れないモノがあるとすれば目の前の少女である。
モノ、と表現するのは少し人情味がなかったかと内心反省する。けれどもふわふわした桃色の髪とあどけない瞳はまるで小動物のようだった。つまりはとても愛らしい。
「あら、おかえりなさいフォラン。この子ったら真っ先に飛び出していくんだから、ビックリしちゃったわ」
「だって、おねーちゃん勇者なんだよ! 勇者ってすごいんでしょ! お祝いしなきゃ!」
なるほど、どうやらこの子は自分の妹のようだ、ということは理解した。
本来自分に妹などいないのだが、家から出てきた母までこの子が妹だと思い込んでいるようだ。ひとまずは適当に話を合わせて情報収集を行おうと、フォランは妹を見て微笑む。
「あなたもそのうち勇者になれるんだから、お祝いなんて、大層なことしなくても大丈夫よ」
「そ、そうかなぁ。私もなれるかな? まだ中級なんだけど」
「十四歳になれば準級になれるんだから、問題ないわよ」
中級、ということは年齢は十から十三歳だろう。
母が死産したのはフォランが三歳の時だったから、もし無事に生まれていたならばその子は今ごろ十一歳。
ちょうどこの子と同じくらいの年齢だ。
ということまで考えて、かぶりを振るフォラン。自分は一人っ子なのだ。たらればを考えていてはキリがない。
「〈成人の儀〉で服汚れちゃったでしょ。着替えるついでに身体も洗ってきたら?」
「ああ、うん。そうするわ」
「私も私も! おねーちゃんと一緒にお風呂いくーっ」
ぺったりと砂と土に塗れたフォランにしがみつく妹だが、フォランは自らの服を見てだんだんと状況を把握してきた。
〈成人の儀〉に準級の皆と一緒に挑んで、それで合格したんだ。だから今はもうゆっくり休んでいいんだ。
朧気な記憶が線で繋がっていく。
そうして擦り寄る妹を撫でながらゆっくり引き剥がし、その手を繋ぐ。
「おっふろ、おっふろ! おねーちゃんとおっふろ!」
「もう、いつも一緒に入ってるでしょ」
「でもこれで最後かもしれないんだもん! ちゃんと入れるの!」
じゃれつく妹を軽くあしらいながら家の中へ入るフォラン。
いつも、なんて口にしてしまったけれど、確かに考えてみれば、この子と風呂屋へ向かうのは初めてではない。そもそもあんなに一緒に過ごしていたではないか。どうして疑問に思ってしまったのだろう。
部屋に戻って、着替えとタオルを手にしたフォランはふと鏡を見つめる。
ウェーブがかった桃色の髪。
タレがちの目。
傍から見れば間抜けな村娘にしか見えない、その凡庸な容姿が嫌いだった。
けれども愛くるしい妹の姿を思い浮かべて見れば、それは幼い自分にとてもよく似ていることに気づく。
つまるところ嫌いなのは自分の内面なのかもしれない、とフォランは鏡を背に向けて部屋を出た。
「████」
「お、おねーちゃん」
玄関にはもじもじと足を絡める妹がいた。どうやら落ち着かないようだ。それを見てフォランはその頭を撫でる。
ふわふわしたそれはとても触り心地が良くて、撫でられた彼女と言えば、満更でもなさそうに微笑んでいる。
「いこっか」
「うんっ」
そして小さな妹に手を差し伸べた。
温かい手だった。
######
風呂屋は空いていた。
村で唯一湯浴みが出来るこの施設は、時間帯によっては浴槽が窮屈になってしまい、満足に湯に浸かることが出来ない。とはいえ、ある程度の人数が利用出来る大きさであることは事実だ。
ときたま村を訪れる旅人は、いかつい顔の番頭を見て無言で逃げ帰ることもあるけれど、幼い頃から風呂屋に通っているフォランは見慣れたもので、軽く挨拶をしてから脱衣場へ向かう。
フォランはがらんとした脱衣場を珍しく思いながら服を脱ぐ。これほどまで人がいないのはかなり稀だ。〈成人の儀〉を終えてそのまま直帰したからだろうかとあれこれ推測するも、答えは出ないと判断して途中で思考を打ち切る。
ふと自らの腕に手甲が着いていることに気付いた。〈成人の儀〉の前に教師が身を守るよう道具を選ぶように伝えられ、着けたものだ。
興味はあったが小物の類はやはり不得手で、試しに鞭を取ってみたが不相応と判断して諦めた結果がこの手甲である。興味や憧れだけで行動すると、湿布を貼るような怪我に繋がってしまうのは、身に染みて学んでいたからだ。
その手甲を取り、白い素肌を見て少しだけ違和感を感じる。けれども怪我ひとつしていない手に、何を違和感を感じているのか分からなかったので、その感情は後ろへ放り投げることにした。
それから妹と手を繋いで浴室へ向かった。
砂利を固めた床は熱湯を浴びてほんのりあたたかいものの、足の裏を容赦なく痛めつけてくる。
過去に、濡れた地面を走ると危険、と忠告を受けたこともあったが、こんな床は走り回りたいとも思わないのでむしろ余計な心配だ。
ちゃぽんと温かい湯船に浸かれば、緊張した脚や腕の筋肉がほぐれていくようでフォランは溜息をつく。
「はぁあ〜良い湯ですなぁ〜」
「それ、オヤジっぽいわよ」
「ふふーん、いつかのおねーちゃんのマネだよーだ」
さて、それほどまで間抜けな声を出したことがあっただろうかと、表情をとろけさせた妹を見つめながらフォランは頬を緩める。
現実主義の自分とは真逆で、本能のまま生きている妹の姿は時々眩しく感じる。
そもそもどうして自分は現実に拘っているのだったろうかと天井を見上げるフォラン。
湯気が冷やされ、天井に敷き詰められた水滴はいまかいまかと落下する機を伺っているようだ。落ちてもバラバラになってしまうだけなのに、フォランは何故か目が離せないでいた。
「おねーちゃん」
「ん?」
上を向くフォランの視界に妹が入った。
立ち上がって覗き込んでいるようだ。
その背後で水滴が一粒落ち、小さな波紋が広がった。
妹で見えなかった。
「〈成人の儀〉って、どんなのだった?」
「……それは」
フォランもかつて父や母に同じ質問をしたことがある。二人とも村で育った元勇者だからだ。
けれどもその回答はどちらも、よく覚えていない、というものだった。
何年も前の出来事だからという訳ではなく、記憶がぼやけているようなそういった感覚であると父は話していた。
幼い頃から可愛くない子供であったフォランはその言葉を聞いて、なんて下手なウソなんだと呆れた。子供にウソだとバレるウソをつく大人は、自分たちをバカにしていると信じて疑わなかったからである。
けれども今、自分によく似た愛らしい妹を前にしてなんと言おうとしているのか。
もしや父や母は真実を語っていたのではないかという疑惑が脳裏を過ぎるも、そんな都合の良い話があってはたまらない。
「私がタネあかししちゃったらつまらないでしょ? 十四歳になるまでのヒミツよ」
「えー! おねーちゃんのけちぃー」
唇をとんがらせた妹は、そのまま勢いよくフォランに抱きついてきた。
「わあ!? こらっ、ケガしたらどうするのっ」
ばしゃりと水しぶきがあがって、フォランはその子を振り落とさないよう必死に抱きしめた。けれども妹からフォランに手が回されることはなかった。
白くみずみずしい肌は僅かに赤みを帯びており、腕はぐったり垂れていた。その変化に気づいたフォランは即座に立ち上がる。
「んもう、世話がやける子なんだから!」
大急ぎで浴槽を出て、脱衣場にある長椅子の上にその小さな身体を横たわせる。
火照った体を冷やすために近くにあった扇で風をおくれば、僅かにその目が開く。
「ごめんなさい、おねーちゃん」
「……謝るのは元気になってからにしなさい」
湯あたりしやすい体質を失念していた。
弱く息を吐く妹を見つめながら、フォランは頭が締め付けられるような感覚に焦燥を抱いていた。
おかしいことはなにもないはずなのに、なにかおかしいと思ってしまうことがおかしい。
そんな非現実的で不明瞭な思いが胸の中で渦巻く。渦のようなそれは決して胸の外に出ることはなく、フォランもまた外に出そうとすることはない。
「大丈夫? 少しは楽になった?」
「んーん。まだ少し……」
「ちょっと待ってて、今飲み物でも」
「おねーちゃん」
席を外そうとしたフォランの腕が掴まれる。
横たわる妹の姿は弱々しくて、何か、思い出したくない何かが頭から出てきそうで、フォランは視線を逸らした。
「ごめんね」
「なんで謝るのよ。あなたが謝ることなんてなにもないのに」
「生まれてきてごめんね」
理解してしまった。
フォランは、大きく息を吸い込んで再び妹を見た。
少女は泣いていた。
彼女は最初から解っていたのだろう。
「生まれてもいないのに、おねーちゃんなんて言ってごめんね」
「……これは、そういう、ものなんでしょ」
繋がったと思った記憶の糸を、フォランはぶつりと切る。
これは〈成人の儀〉。
フォランの〈成人の儀〉はまだ終わっていないのだ。だから儀式の内容を覚えていなくても何ら不自然ではない。
「一体どういう仕組みなのかわからないけど、つまりあなたはハズレってことかしら」
制限時間内に〈禊刀〉を見つけるという儀式の内容からすれば、この場にそれがないことが答えだ。
フォランは道を間違えたのだ。
どうやってここに来たのか覚えていないけれど、一刻も早くあの分かれ道に戻らなくてはと物思いに耽るフォランの腕が強く握られる。
「私、ハズレじゃないよ」
「は……?」
「ハズレなんかじゃないよ!」
刹那、フォランは手を振りほどき、その一閃を避けた。戦闘訓練を受けていて良かったと心の底から安堵した。
弱々しく身体を起こした少女の左手には短刀が握られていた。
本能的にフォランはそれが〈禊刀〉だと悟った。
「どうして? いなくなったら悲しむでしょ? また会えたら嬉しくなるでしょ? どうしてそんなに冷たいの?」
「……あなたが何を言っているのか、私には分からない」
「ウソだ!」
少女は刀を振りかぶる。躱した。
フォランの腕にはなにも付けられていない。というか少女も自分もタオル一枚だ。一体何のための手甲だったのか。
幼く拙い刃は何度振るわれても、フォランに当たることはなかった。
刃渡りが短い分、真剣でも片手で持てるのだろうが、一振ごとに息を切らす姿は明らかに未経験者のそれだ。
「酷いよ、やっと会えたんだよ? やっと妹になれたんだよ? それなのにハズレなんて」
「言葉の綾よ。ハズレっていうのは儀式のことで、あなたの存在を否定したわけじゃ」
「ウソつき」
自分に似た少女は涙を流しながら何度も何度も、何度も何度も斬りかかってくる。
幼なじみには見栄を張ったけれど、やはり刃物を持ってきた方が良かったのかもしれない、と舌打ちをする。
「おかーさんは悲しんでた。すっごくすっごく悲しんでた。おとーさんも、声にしなかったけど悲しんでた。落ち込んでた」
「…………」
死産のことだ。
妹か弟が産まれると喜んでいた両親は新たな命が失われて、絵に描いたように塞ぎ込んだ。
そして、フォランは。
「あなたは悲しまなかった」
「…………」
「むしろくだらないと切り捨てた。生まれたかもしれない命を、存在してないって割り切った」
「……何よ。実際生まれてもいないのに、大した口聞くじゃない」
嘆く両親を見て何も思わなかったわけではない。
けれども彼らは、感傷に浸る時間があまりにも長すぎた。
今でもフォランの母は毎朝欠かすことなく、小さな祭壇に手を合わせている。
初めて見た時は、何をしているのか分からなかったけれど、生まれなかった命に毎朝挨拶をしているのだと父から聞いた時はぞっとした。
何故、それほどまでにいないものに固執するのだろうか。
今生きている自分よりも、生まれてもない存在のほうが両親に想われているのだろうか。
幼い頃はそんな不安があったけれど、今はもうない。そんな悩みは非現実的だからだ。いないものはいないのだから。
「一緒に過ごしてて分かったよ。あなたはとっても優しいの。それでとっても冷たいの」
「褒め言葉にしては矛盾してないかしら」
「ねえ、フォラン。勇者になりたい?」
「……なにそれ」
少女は刀を振るうことをやめた。
そして自らの首元に刃を突きつけた。
迷うことなくフォランはその手を右手で、腕を左手で掴んで止めた。
「バカなことはやめなさい。大体さっきから何なの、あなたは何がしたいの!」
「私はハズレなの」
「だから……それは、言葉の綾だからっ」
どうしてもフォランは、謝る、と口にすることが出来なかった。
謝るのは、自分に非がある時に言う言葉だ。
「ハズレじゃないなら、どうして私は生まれてこなかったの?」
生まれてもいない、人生のスタートラインすら立っていないこの少女が、どうしてハズレでないと言えるのだろう。
「勇者は魔王を倒してくれる。アタリなんだよ」
「……勇者は、この村の人が通るべき道でアタリなんかじゃないわ」
「ふふ、どこまでも現実主義」
そうしてふっと、少女は消えた。
文字通り、フォランの腕と手のうちから。
「……なに、なんなの」
こんなの非現実的だ。
一貫性がなくて非効率でかつ無意味な悪童の遊戯のような行動。
状況は全くわからなかったけれど、ひとまずフォランは服を着て風呂屋を出た。
ただひたすらに嫌な予感がした。