知らないよ、
ぼんやりと窓の外を眺めていると、陰影をくねらせながら雲が流れていく様子に心奪われた。風が吹けば砂ぼこりが舞う乾燥したグラウンドと、校庭を取り囲む木々の緑が鮮やかなことはミイコに夏を実感させる。
先生に注意されて窓から机に向き直り教科書を開く。隣のアヤカに咎められないかとひやひやしながら地図張をさっき開いた教科書の下に滑り込ませる。
今は国語の時間だ。周りの皆は辞書で一心に調べものをしている。私はふいに地図張が読みたくなったのだから、国語を勉強する力が湧いてこない。
カラフルに彩られた世界地図は美しく惚れ惚れとする。世界地図上の日本は小さい。地図はより広大な海や大陸で埋め尽くされている。かつて旅行した海岸ですら果てしなく思えたけれど、それは海のたった一部に過ぎない。事実は寧ろリアリティーがない。
マイブームは国の名前を覚えること。アフリカ大陸は昨日の理科の授業中に大方覚えてしまった。アジアにするかオセアニアにするか迷っていたらしびれを切らしたアヤカが耳打ちしてきた。
「ねえいい加減にしなよ、また怒られるよ」
いいよ怒られても、と私はアヤカに目配せする。肩を落としてアヤカはため息を吐く。何度かアヤカとの攻防を繰り返すうちにチャイムが鳴った。
お昼休みになると急いで購買に行く。弁当を忘れてしまうことが多い。帰ったら間違いなくお母さんに怒られるに違いない。
コロッケパンを受け取ってテラスに出る。テラスからはサッカー少年たちの叫び声が聞こえる。動物園に来たような錯覚を得られる。
「また弁当忘れちゃったの?」
軌道をそれたボールを取りに来た安田の額に汗が滲んでいる。こくりと頷いてパンをかじる。
コロッケパンうまいよな、とはにかんで走り去っていく安田の背中がサッカー少年の一群に飲まれて消えた。
明日も弁当を忘れてしまいそうだ。そして堪忍袋の緒が切れたお母さんは弁当を作らなくなる。弁当箱洗う手間を考えるとそれでよいと思った。
再び安田の姿が飛び出してゴールに向かう姿が見えたときには、卒業するまでのコロッケパンにかかる費用を計算し始めるところだった。
安田はチクチクしそうな直毛で、日に焼けた浅黒い肌をしている。顎がシャープで痩せているけれど、ふくらはぎの筋肉のように私の一生を費やしても培うことのできない部分がある。
周りのサッカー少年たちも似たり寄ったりではある。他の連中もコロッケパンを好きなのだろうか。
ホームルームが終わって放課後図書室へ向かった。アジアの国々について詳細に描かれた厚みのある本を手に取った。ベトナムやマレーシアの名前は覚えた。ハノイとクアラルンプールも覚えた。
私はハノイの人々の暮らしを知らないし、クアラルンプールの景観をこの目にしたことがない。ページをめくると雑踏やいかにもトロピカルな街路樹が目に飛び込んできた。
しかし写真に手を触れても人いきれは感じない。勿論料理の味も分からない。静かに本を閉じた。
図書室を出る頃には辺りは暗くなっていた。夕立のおかげなのか蒸し暑い。駐輪場の電灯の下にある人影がこちらに気づいて手を振った。近づくと闇に紛れた浅黒い肌がぬっと現れた。
「遅くまで勉強?」
安田の質問にかぶりを振って自転車を校門まで引きずる。商店街までは道がまっすぐで、ほとんどの生徒はこの道を通る。当然安田も横にいる。
「青い星ってまだ出来て間もないんだって、知ってた?」
建物が少なくなってきた通りは遮るものがない。黒く深い空が抱える星々は明るい。
「青い星って地球のこと?」
「いや違うね。惑星じゃなくて恒星の話」
星には寿命があって、色で判別できるらしい。赤い星、黄色い星。
「波長が寿命のバロメーター」
そういうことなのかな、と首を傾げる安田をよそに地図張のことを思い出す。地図は人口密度やGDP、宗教なんかで色分けされることもあるだろう。けれど本当は単純な幸せとか単純な辛さで色分けできなければ現実味がない。
駅の手前の交差点で安田と別れてから自転車にまたがり速度を上げる。誰もいない坂道を猛スピードで下っていく。
ミイコは考えていた。遠い異国に滞在できる時間と出費を計算しようと努めた。そのために蓄えなければならない金額と方法に思い巡らせた。
自転車はどんなにペダルを漕いでも十分に加速しきっていた。同時にミイコの想像力も推進力を失った。
結局今日もなにも分からなかった。明らかなのは帰ったらお母さんに怒られる未来が待っていることだけ。知ったことか、私の夏はまだ始まったばかりだ。




