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「ちょっとあんた、ね、そこの……三谷藤、さん! 待ちなさいよ!」


 再び廊下で声を掛けられたのは、学校へ通い始めて二週目の、金曜日のことだった。私は声のする方へゆっくりと顔を向けた。

 夕暮れ時。長く伸びた影の中から、先日声を掛けてきたあの失礼な女生徒が現れた。


「……まさかあんた、あたしの声が聞こえてる? 見えてるのね、あたしの姿が!」


 彼女は、最初に会った頃とは違い、全く余裕がなくなってしまったらしい。髪は櫛が通されておらず、シャツはよれてリボンは失われ、ブレザーもスカートも綻びだらけになっていた。顔は蒼白、唇はがさがさだ。


「ねえっ、あたしは何で、こんなことになってるの?」


 私は首を傾げた。女生徒はだんっ、と足を踏み鳴らし、一歩近づいた。


「どうして? どうして誰もあたしのこと見てくれないの、どうして声が届かないの、どうして学校の外に出られないの、どうしてっ」


 興奮しているのだろう、一旦言葉を切り、大きく息を吸って、


「日が陰ってくると、いつも変なモノに追いかけられなくちゃいけないの!?」


 叫ぶように言い放った。身体がぶるぶると震えている。


「黒くてでかくてぶよぶよしてて、目がいくつもあって! アイツら昼間は追いかけてこないけどいつも隅っこにいて、ずっとこっちを見ながらぶつぶつ呟いてるの、たまに笑ったりして凄く気持ち悪いの! 夜はっ、夜は逃げても逃げても、どこにでも目があって、全然逃げられなくて……ねえ、アレは何なのよ!?」


 私は反応せず、息を荒げる彼女をじっと見つめていた。


「何とか言いなさいよ、私は何で、あんな変なモノに見られてるの!? あたしは観察するのは趣味だけど、あんな、得体の知れないモノに四六時中見られるなんて、そんなの要らない!」


 ああ、そんなの、私だって要らなかった。


「……あなたは」


 彼女は、最初に声を掛けられた私と同じように身体をびくりと揺らした。


「ああ、そう。あなた、私の声が届くようになったんだね」


 私の溜め息交じりの言葉に対し、女生徒は、何を言っているだと言わんばかりに眉を顰める。


「あなたは、自分の興味本位で人を観察していた。観察して得た情報は、正しいものだと思い込んでいるのでしょう? だからこそあなたは自分が他者よりも優れていると認識している。もしくは、他者に対抗するための強い武器を手にしていると思っているのかな。

 でもそれはあなたの中での正しさであって、真実ではない。あなたが勝手に見て、思い込んで、決めつけて、押しつけて、かつ人に吹聴して回ってる。

 でも、そういう行為を嫌だと思う相手がいる、ってことを全く想定していない」

「え、何これ、説教?」


 睨む女生徒に向けて、私は人差し指を突き付けた。


「あなたのその不愉快な視線が、本来見てはいけないものまで捉え始めただけのことだよ。そうしてあなたは、見てはいけない世界と繋がった」

「はっ? どうして」

「あなた自身が呼び寄せたから」

「はあ!? 意味分かんない、いい加減なこと言わないでよ! とにかく、あたしの状況が理解できてるんでしょ、だったらぐだぐだ言ってないで助けなさいよ! ねえ、何をしたら良いの? どうしたら学校の中を逃げ回らなくて済むようになるの!」


 女生徒は私ににじり寄り、ブレザーの裾を掴んでぐいぐいと引っ張る。


「どうにかしてよ、あんた、何か出来るんでしょ? だって誰もあたしのこと気付いてくれなかったのに、あんたにはあたしが見えて、話が出来るんだから!

 ねえ、あんたになら負けを認めてやっても良いわ、だから助けて……」

「逆だよ。私と話せて触れられることこそが、あなたが魑魅魍魎の世界の存在になっている証。あなたは()()()()()()()()()()?」

「……?」


 女生徒は困惑した表情を浮かべた。


「あなた、人の話を全然聞いていないんだね」

「いや、何の話よ。意味不明なことばっか言ってないで、あんたこそあたしの話を聞きなさいよ! そうよ、だいたいあたしの状況が理解できてるなら、あたしのこと可哀想って思うでしょ、あたしを助けようっていう気持ちにならないの? そうじゃなきゃおかしいでしょ、普通そうでしょ!?」


 私は静かに女生徒から距離を取り、ブレザーを掴んだ彼女の手から逃れた。


「……これ以上話しても時間の無駄。残念ながら、私にはあなたのいまの状況をどうすることもできない。手遅れなんだよ。

 それに私は霊感や特別な力なんて持っていない。無力な、ただ彷徨うだけの魂だ」


 人の視線に怯える、臆病な死人。


「誰かから聞いたことは無かった? 魑魅魍魎に遭遇した時、視線を合わせたらもう逃げられないって。

 残念だけれど、二度と会うことはない。さようなら」

「はっ、なっ、どういう意味……あ、ね、ねえ待ってよ、ちょっと置いてかないで! ねえ――」




「おかえりなさい、おねえちゃん!」


 すぱん、と大きな音を立ててふすまが開かれる。萌菜は、今日もやはりノックをしなかった。


「きょうはずいぶんとおそかったね。学校、たのしかった?」


 私が大きく頷くと、萌菜も満足げに頷いた。


「ゆうれいでも学校にかよえるって、すごいねえ」


 萌菜はくふふふふ、と笑う。

 私は、冷え込みが厳しくなってきた十一月初旬の夕暮れ時、死んだ。

 生まれた時から心臓に障害を持っていた私は、身体が極端に弱く、十歳までもたないだろうと診断されたという。それでも皆と同じように起きて、ご飯を食べて学校へ行って部活をして、家に帰ってご飯を食べて家族団らんをしてお風呂に入って寝るというごく普通の生活が送れると思って、ずっと頑張り続けた。今年、やっと高校に入学できたのに、結局一日と通わずに終わってしまった。

 熱と力が抜け落ち、身体も魂も冷えて止まっていくのを感じながら、私はどうしても学校に通ってみたい、入院ばかりしていた私を毎日見舞い可愛らしい笑顔で無邪気な愛を与えてくれた幼い妹を姉として側で守りたいと願った。目を閉じ、そのまま醒めない眠りについた、はずだった。

 なのに次の瞬間には、自宅で一人、立ち尽くしていたのだった。

 きっとどこかの神様が憐れんで、私の魂をこの世界に留めてくれたのだろうと思う。

 私を認識できるのは、妹の萌菜だけだ。両親は私のことを目視できなかった。萌菜の後を追って自分の葬式に出て、更に確信を得た。誰も、お坊さんですら私に視線を向けてこなかったのだ。

 声は萌菜にすら届かないが、些細なことだ。あんなに苛まれていた他人の視線から私は解放され、自由でいられるのだから。


「萌菜もねー、きょうたのしかったよ! えっとね、同じクラスのみさきちゃんが……」

「萌菜、ご飯よ! そんなところにいないでさっさと来なさい!」


 萌菜はリビングからの呼び声に振り向き、助けを求めるように私の方へ向き直って、小さくうなだれた。


「あの子ったら、学校から帰ってくるとすぐ、仏間に入り込むんだから! あなたからも言ってやってよ、気持ち悪いから止めなさいって! あの気味の悪い独り言もおさまらないし」

「場所もわきまえずに色んな場所でぺらぺらと話していた時よりましだろう。あの子だって寂しいんだよ。それにお姉ちゃんと話すためには仏間でないとダメだと理解できるようになったんだから、そう文句を言うな」

「あなたねえ、葬式の時の騒ぎ以来、うちが親戚やご近所さんにどんな噂されてるか知らないからそうやってのんきに構えてられるのよ。若菜が生きてた時だって散々言われて大変だったのに!

 だいたい矢面に立たされるのはいつもいつも私ばっかり――」


 両親は、私が物心ついたときからよく言い合いをしていた。諍いの原因は大抵、私自身か私に関することだった。萌菜が生まれて数年は落ち着いていたものの、再び小さなことでもめるようになった。

 いつまでこの生活がつづくのか、いつ逃れられるのか、いつ、私が死ぬのか。終わりの見えない看病生活に、両親は疲弊していた。かといって当事者である私に対して直接話すわけにはいかない。二人は私に対し、常に笑顔で接して誤魔化そうとした。しかし、長い苦しみの中、二人はいつしか私に向けて探るような視線を向けるようになった。私の中に答えなど有るはずもないのに。二人は私がその視線の意味を察していることに気づいていた、だからこそ、二人は互いに言い争うことでしか、悲しみも苦しみも怒りも、発散できなかったのだと思う。

 萌菜には辛い思いをさせている。まだ小さいのに、たった一人で両親の怒鳴り合いを聞く羽目になっているからだ。やはり萌菜から離れるなんて、すぐには無理だ。


「おねえちゃん」


 困惑ぎみの声を出す萌菜に対し、私はリビングを指差し、次いで掌を上下に揺らす。

 萌菜がリビングに入れば、両親も少しは落ち着くはずだ。小さい我が子の目の前で争うなどという無分別なことはしないはずだし、そもそも原因である私はもう、彼らの目には見えない。きっと、もう暫くの辛抱だ。


「ここにいてね、おねえちゃん」


 私はそっと手を伸ばし、萌菜の頭を柔らかく叩く仕草をする。肌のぬくもりも、身体の重さも匂いも何もかも感じられない私が、ここ数日の間に編み出したやり方だ。真似事でしかないけれど、萌菜が喜んでくれる。

 案の定、萌菜はくふふと笑った。気を取り直したのか、(きびす)を返し部屋を出て行った。

 本当は抱き締めてあげたかった。触れることが叶わないのならばせめて、萌菜が傷ついた時には癒してあげたい。怖いものから遠ざけて、守ってあげたい。生きていた間は、全く出来なかったことだから。

 怖いもの、か。

 そういえばあの名も知らぬ女生徒は、私が死んだことを知らなかったらしい。別のクラスだったとはいえ、何故私の情報を掴んでいなかったのだろう。観察が趣味だという割に世事に疎い人だったのか。それとも、教えてくれるような友人がいなかった?

 いや、単に彼女のクラスに情報が届くのよりも、彼女がヤツらに目を付けられる方が早かったのだろう。うちの両親か、学校の先生達が生徒にわざと情報を流すのを止めていたのかもしれない。

私の席が空いているのはいつもの事だったし、特別親しい人もいなかった。先生達から伝えられなければ、私が死んだことなんて、生徒側は知るよしは無かったのだろう。 

 ともあれ、あの女の存在をヤツらに教えたのは私だ。

 ヤツらは学校の影の中、至る所にいる。日が落ち始めたら、校内の影は濃くなり、ヤツらは行動範囲を大幅に広げ活発になる。ヤツらに接触するのは意外と簡単なのだ。

 まあ、私を見ることが出来たのであれば、私が教えなくとも、早晩あの女自身がヤツらを目視して、ヤツらもあの女のことを認識していたに違いない。

 あの不躾な視線を送ってくる女、いまごろ髪の毛から足の爪の先まで嚙み砕かれ体液を吸われ、魂の欠片さえも残さず貪り喰われた頃だ。特にあの気色悪い目玉は丁寧に咀嚼するように進言しておいた。

 ああ、とても気分が良い。嫌なものを自分の意志で徹底的に排除することが出来るなんて、生まれて初めてのことだった。今日は本当に、心の底から学校が楽しかった。

 それに案外、あの女は幸せを感じているかもしれない。ヤツらのいる場所はほの暗く、生暖かい。中に入れば、目も耳も口も鼻も手も、ありとあらゆる感覚が鈍くなって、ただ身を任せ、揺蕩(たゆた)うことが出来る。意思さえ手放してしまえば、全てを受け入れてもらえそうな心地良さがあった。

 後ろめたさはほんのちょっと。逃れられぬ底なし沼、でもきっと、永遠のゆりかごだ。


 ――あれ、何を考えていたのだっけ。そうだ、萌菜。

 私をこの世にとどめてくれた存在に感謝しなくては。あの名も知らない女生徒のように、妹が変なモノに惑わされ、連れていかれぬよう、私があの子を見守り続けられるのだから。

 萌菜は、父さんと母さんが、私がもう治ることがないと医師に告げられた後に作った子どもだ。彼女は二人の思惑通り、家族を照らす光となった。

 萌菜は天真爛漫に私に接してくれたし、単に先に生まれた姉だというだけでひたすらに私を慕ってくれた。私は歪んでいるのに、真っ直ぐに見つめ、信じてくれた唯一の存在。

 ああ、なんて可愛くて愛おしい。

 私はそんな萌菜の側に少しでも長くいるため、常に萌菜に視線を合わせないように細心の注意を払っていた。何故目を合わせないことが重要なのか、自分でもはっきり分からない。自分自身、視線を向けられることが嫌いで、忌避すべき行為だと考えているからかもしれない。願掛けに似ている気がする。とにかく、どんな迷信に縋りついても構わないくらい、萌菜の側にいて、大事に、大切にしたいのだ。

 でも、時々腹の底に、どす黒いものが侵食してくることがある。

 萌菜は、壊れやすくいつ死んでもおかしくなかった私の代わりに生まれてきた子どもだ。元気で丈夫な萌菜がいれば、不良品の私はいらない。父さんと母さんは私を諦めることにしたのだと、もう要らないと思われたのだと絶望する。私が死んだら、私は忘れられ、元からいなかったように振る舞われるのではないかと恐怖する。

 もしもあの何も知らない、私に対して親愛の情だけを浮かべる瞳に少しでも変化があったら。何か別の感情が一筋でも混じっている萌菜の視線を、私が見返してしまったら。

 きっと私は止められない。

 庇護欲を掻き立てるはずの弱々しい肉厚で柔らかい腕やぽってりとしたお尻やもちもちの頬を乱暴に掴み汗と尿と涎とお乳の入り混じった小さい子独特の匂いを胸いっぱいに吸い込んで両手で捩じ切って喰い散らかしたい、ふっくら膨らんだお腹に手を突っ込んで引っ張り出した内臓を溢れ出る汁ごと全部嚙み砕き嚥下してやりたいという衝動に駆られる。優しい純粋無垢な魂を全て真っ黒に塗りつぶして、殴って踏んで破って粉々にして跡形もなく消し去りたいという欲求が燃えたぎる。

 あの子は嫌がるだろうか。あの女と同じように顔を歪ませて、泣き叫んで助けを乞いながら、逃げ惑うのだろうか。

 私はあの子を追い立て捕まえ、まんまるな目玉が大量の涙で覆われたところを抉り出し、丸ごと飲み込み、喉をずるりと通らせるのだろうか。

 でも、あの暗いところはきっと心地が良い。あの子も気に入るだろう。むしろ喜び、ありがとうお姉ちゃんと感謝されるかもしれない。

 ああ、視線が怖い。自分勝手な想いを含んだ他人の目が、私を苛立たせ、狂わせる。暴れて壊して、視界に入る全てを崩壊させたくなる。

 全部、全部全部全部、こっちを見るヤツらが悪い。


 ――あれ。

 まただ。私は頭を振る。またぼんやりしていた。まさか、短期の記憶喪失みたいなものだろうか。幽霊が記憶喪失だなんて笑わせる。私を助けた神様は、随分と中途半端な力の持ち主らしい。

 いや、もしかしたらこの世にいられるタイムリミットが近いのかもしれない。だとしたら尚のこと、萌菜の側にいられるようにしなければ。

 学校へ通い続けていたら、またあの女生徒のように、私を勝手に見る(やから)が現れないとも限らない。再び魑魅魍魎達を使って処分するのは、楽しいしすっきりはするけれど、余計な手間だし、面倒だ。

 そうだ、もう学校へ行くのはやめよう。そして時間の許す限り、萌菜の側にいよう。

 私は萌菜のお姉ちゃんだ。萌菜を守れる、唯一の存在なのだから。






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