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Scopophobia 意味:視線恐怖症
人の視線が嫌いだ。恐ろしく、吐き気を催す程、気味が悪いとさえ感じる。
魑魅魍魎に遭遇した時、視線が合わなければターゲットにされないのだと聞いたことがある。互いに視認しないと、魑魅魍魎は人がそこに存在していると認識出来ないらしい。つまり目を背けさえすれば、そういう恐ろしい存在とは関わり合いを持たずに済むわけだ。
人が相手だとそう簡単にはいかない。いくらこちらが見ていなくても、相手の視界に入れば勝手にこちらを認識されてしまう。全ての人の視線を避けて、関わらないように生きていくことなど不可能に近い。
なんと厄介で、理不尽なことか。
例えば長期入院で頬が削げ落ち、目が落ち窪んで精気の無くなった顔をちらちらと窺うように見てくる他の患者の見舞客。あばらの浮いた上半身を診察した後、少し離れたところでひそひそと話し合う医師や看護師達。ベッドに横たわった様子を凝視して、こちらが見返していることに気づくや否や、遠慮ない嘲笑と罵りをこちらに投げ付けて走り去っていく、同じ患者である子ども達。
絡みつく視線には人の思念が籠っている。憐憫、戸惑い、卑下、嫌悪。本人が実際のところどう考えているかなんて全くお構いなしの、うるさいくらいの決めつけをも内包する。
いくら顔を背けていても、病室で縮こまっていても寝たふりをしていても、彼らの視線は常にこちらを追いかけて来た。
そういうものから一切、逃れられたと思っていたのに。
「三谷藤、若菜さん?」
放課後、ひと気の無くなった廊下を一人で歩いていた私の身体がびくりと揺れる。まさか名を呼ばれるなんて、想定外だったからだ。
声のする方へ顔を向けると、全く見覚えのない女生徒が立っていた。
同じクラスの人ではない。記憶を辿ってみても、面識のある顔立ちではなかった。
「やっぱりあなたが三谷藤さん! ずっと入院してたんでしょ?」
彼女はにっこりと笑いかけてきた。私は驚きと違和感が勝って、相手を見返すことしかできなかった。
「へえ、登校できるくらい身体が回復したんだ、良かったじゃない」
話しながら、少しずつ詰め寄ってくる。彼女は前かがみになり、下から私を覗き込んできた。じっとりとした、値踏みするような目つきだ。
「ね、あたし、人を観察するのが趣味なんだ。いままで色んな人達を観察してきたの。たぶん他の人が気づいていないこと、たくさん知ってる」
彼女は姿勢を正した後、ぐんと胸を張った。
「例えばあなたのクラスの林田さん。藤本君と付き合ってるけど、彼女の親友の古谷さんも、彼のことずっと前から好きだったの。態度からしてあからさまなのよね、秘密にしてるみたいだけど。あの三人、とっても観察のしがいがあるわよ。
そうそう、あなたにこの話をしたのは、あなたが誰にも話さないだろうってあたしには分かってるから」
私は黙っていた。女生徒は何かを期待し強請るような表情をしたが、私の反応がないことで、徐々に顔を曇らせていった。
「三谷藤さん、まだ調子悪いの? それとも……あ、もしかして世間慣れしてないとか。こういう話、嫌い? ちょっと天然入ってるのかな」
女生徒はくすくすと笑った。最初に見せたものとは異なり、人を小馬鹿にするような笑いだった。違和感の正体はこれだったのか。彼女は、見下せる相手を探していて、私はそのターゲットにされたわけだ。
腹の中が、ジワリと熱くなる。
女生徒の綺麗に切り揃えられた前髪が揺れる。きちんとアイロンのかかったシャツに、少しだけゆるめに結わえられたリボン。綻びも汚れもない、ブレザーとチェックのスカート。それらは校則を破らぬ程度に上手くアレンジされている。肌も唇も潤っている。眉は整えられ、上向きのまつげに縁取られた目は、強い光を放っていた。
なるほど、と私は思う。観察する自分自身が攻撃されぬよう、隙を無くしているというところだろうか。
「三谷藤さんって、自分から積極的に他人と話すタイプじゃないよね。常にクラスメイトとは距離を置いて、誰とも話そうとしない。お昼休憩と放課後はまだしも、短い休憩時間ですらすぐに教室を出て行っちゃうんだから。
そもそも人と視線を合わそうとしないのって、かなり変わってる。でも」
女生徒は私のことなどお構いなしにお喋りを続けていたので、私も聞き流そうとしていたが、
「あたしとは合わせてくれたわね、視線」
指摘された途端、背筋がぞくりとした。私は慌てて彼女から一歩身を引き、顔を背けた。
「ふーん、そう。三谷藤さんって一対一で話すとそんな感じなの。人見知り? まあ、面白いことには変わりないわね」
面白い。その言葉にまた、苛立ちを覚えた。
「あなたのこと、これからもずっと観察させてもらうわ」
私は下を向き、沈黙を守る。
しばらくの静寂の後、女生徒はふんっと鼻で笑い、すたすたと足音を立てながら去って行った。
周囲から何の音もしなくなってようやく、私は顔を上げた。誰もいないことを確認して、ため息を吐く。
私は長年憧れていた高校生活を、ただひっそりと楽しんでいただけだったのに。嫌な思いをさせられた。
反論や反発を、口にした方が良かっただろうか。いや、と私は首を振った。恐らくいま何を話しても、あの女生徒には伝わらない。
だいたい、人の噂話をして何が楽しいのか。観察することに、何の意味があるのだろう。
こちらのことを暴いたつもりになって得意にお喋りする、名も名乗らぬ失礼な人。きっと私に話したのと同じように、あの医師や看護師達のように、見舞客のように、入院している子ども達のように、私のことを自分勝手に話すに違いない。
それに、これからもずっと観察すると言っていた。また、あの絡みつくような、気持ち悪い視線と思念を身に受けなければならないのか。
冗談じゃない。もう二度と、こちらを見て欲しくない。
与えられた苛立ちはどす黒く粘り気のあるタールのようなものになり、腹の底を侵食しながらふつふつと煮えていく。
「お帰りなさい、おねえちゃん」
ふすまを勢いよく開ける音と掛けられた明るい声にはっとして、私は顔を上げた。学校での出来事を考え過ぎて、家へ辿り着いたことすら自覚できていなかったらしい。
妹の萌菜は、何度母さんから注意されても、私の部屋である和室へ入る際、ノック無しでふすまを開けて中へ突入してくる。まだ小学一年生なのだからしょうがないと思う。ごめんなさい、と慌てて謝るところもまた可愛らしいので、私としては全く構わない。
「きょうも学校、たのしかった?」
私は萌菜に対し、大きく頷いた。嫌なことはあったが、そのことを萌菜に伝えるのは止めておいた。理解してもらえるようにするのも大変だし、何より萌菜が心配してしまうからだ。
萌菜の口が横に広がり、丸い頬が更にもっちりと盛り上がったのが見て取れた。
「よかった! そうだよね、学校、病院よりもどこよりも、ぜったい楽しいもん!」
萌菜が小さく手招きをする。私が屈んで耳を寄せると、
「……おうちよりも、ね!」
萌菜はくふふふっ、と笑いながらぴょんと身を離した。上下する丸い頭に手を伸ばそうとして、
「萌菜ー、ご飯前の宿題は終わったのー?」
リビングから母の声がして、私は手を引っ込めた。
「おねえちゃん、またくるね」
言い残して、萌菜は入ってきた時同様、勢いよくふすまを開け、部屋を出て行った。