第97話 伯爵家男子の婚約破棄。
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日曜日。
相変わらずそうそう外に出ることができないスフィーダは、ヒトの少ない城内をぶらぶら散歩していた。
夜になったら大浴場に行く予定だが、それまでは暇なのである。
ヨシュアの私室を訪ねてみた。
彼はいた。
木製の戸をノックすると「開いてますよ」と返答があったのだ。
入室する。
「おや。陛下ではありませんか」
椅子に座り読書をしていたヨシュアは、少し目を大きくした。
スフィーダはとことこ歩いて彼の前を横切り、ベッドの端に腰を下ろした。
「ヨシュアよ、ちゃんと家には帰っておるのか? 日曜日まで城にいる必要はないのじゃぞ? 何度も言っておるじゃろうが」
ヨシュアはぱたんと閉じた本を、机の上に置いた。
「私邸には、日が暮れたら戻ります」
「たまにはクロエとショッピングにでも出掛ければよいのじゃ」
「私もクロエも、基本的にはインドア派です。そうでなくとも、私達は夜に燃え上がることができれば、それでよいのでございます。抱き合うことで愛を確かめ合い、もっと言えば、互いの体のありとあらゆる部分をああだこうだすることで――」
「よ、よいっ。その先は言わずともよいっ」
「情報は展開したく存じます」
「おまえ達夫婦のラブラブさ加減はわかっておる。現状、それ以上の情報は要らん」
「残念です」
「しつこいぞ」
「暇を持て余し、城内を散歩されていたのでございますね?」
「そういうことじゃ」
「私でよければ、お相手いたしましょう」
「ならば、付き合ってもらうのじゃ。なにか面白い話でもありゃせんか?」
「私だって、それほどエキサイティングな日々を送っているわけではありませんが。まあ、暇潰しになるような話であれば、いくつかございます」
「おっ、そうか。あるのか」
「はい。たとえば、イイ話と怖い話でしたら、どちらをご所望ですか?」
「こ、怖い話は嫌なのじゃ。イイ話がよいのじゃ」
「わかりました。では、とある伯爵家に生まれた男の話をいたしましょう」
「実話か?」
「はい」
ヨシュアの碧眼がスフィーダを見据える。
彼女は思わず生唾を飲み込んだ。
やはり、怖ろしいまでの美丈夫だ。
「男はこの世に生を受けたときから、体が弱かったのです。ことあるごとに長くは生きられないだろうと医者に告げられながら、毎日を過ごしていました」
「体が弱いとは、どの程度弱いのじゃ?」
「走るのはもちろんのこと、歩くことすらつらいレベルです」
「それは、痛ましいのぅ……」
「しかし、そんな男にもフィアンセがいました」
「おぉ。それはめでたいではないか」
「両親が無理やりあてがったわけではありません。お互いのことを理解し合い、尊重し合い、その上で、婚約をかわしたのでございます」
ここまで聞いただけでも、じゅうぶんにイイ話だとスフィーダは思った。
だが、まだ先があるようなので、彼女は引き続き耳を傾けることにする。
「結婚できる年齢、すなわち、十八まで生きること。それが男の目標になり、また生きがいにもなりました。しかし、男はフィアンセとの関係について、深く踏み込むことはしなかった。手をつなぐことすらしなかった」
「それはどうしてじゃ?」
「自分がどれだけ生きたいと思っていても、生きられないかもしれないからです。いたずらに彼女を汚すことはできない。男はそう考えていたんです」
「汚す? それはちょっと、考えすぎではないか?」
「かもしれませんが、とにかく、彼はフィアンセに触れることはしなかった。それを自らに課した決め事として、守り抜いた。そして」
「おっ、いよいよ結婚か?」
「そうではありません」
ヨシュアが幾分、声のトーンを落とした。
途端に不安に陥ってしまうスフィーダである。
「け、結婚できなかったのか?」
「結論を言ってしまえば、そういうことになります」
「なぜじゃ? どうしてじゃ?」
「男の命のろうそくの火は、結婚を目前に控えたところで、いよいよ小さくなってしまいました。男はフィアンセに謝ります。どうやら結婚の日までもたないようだと。フィアンセは当然、男にすがりつきます。そんなのは嫌だ。私は貴方の妻になるために生まれてきたのだと。しかし、無理なものは無理であり、不可能なのでございます」
「そ、そのまま男は死んでしまったのか?」
「死んでしまいます。ですが、男は病床で最期を迎える瞬間、強い声で遺言を残しました」
「なんと言ったのじゃ?」
「クリスチーナ、私はおまえとの婚約を破棄する。しっかりと、はっきりと、そう告げたのでございます」
スフィーダの左目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「イイ話でもなんでもなく、ただただ悲しいだけの話ではないか」
「しかし、見事な生き様だとは思われませんか?」
「思うが、救いがないじゃろうが」
「まあ、そうですね。ですが、私にこの話をしてくれたクリスチーナ氏ご本人は、彼と想い合うことができて幸せだったと言っています。当時のことを口にするときの彼女の表情は、それはもう穏やかなものでした」
「そのクリスチーナは、今はどうしておるのじゃ?」
「陛下はどうあっていてほしいですか?」
「想いを貫いてほしい気もするし、女としての幸せを掴んでほしい気もするぞ」
「彼女は未婚のままでいます」
「結婚はせんのか?」
「わかりませんよ。先のことなんて、誰にも」
ヨシュアはそう言って微笑み、また本を手に取った。
一方のスフィーダは、一度ズズッと鼻をすすってから、ベッドに仰向けになった。
先のことなんて誰にもわからない。
その通りだ。
強くそう感じたものだから、メチャクチャ、フォトンに会いたくなってしまったのだった。




