第9話 歯ブラシ。
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私室で眠っていたところ、コンコンコンというノックの音がして、それで目が覚めたスフィーダである。
スフィーダ、朝は弱い。
めっぽう、弱い。
今日も、ふかふかのベッドから、転げ落ちてしまった。
床にゴンと頭をぶつけ、その音が響いた。
絨毯が敷かれているのだが、それでもかなり痛かった。
かなり痛かったが、眠い、眠いのだ。
あるいはたんこぶができてしまうかもしれないが、とにかく眠くてしょうがないのだ。
「陛下? 陛下? 大丈夫でございますか?」
外からヨシュアの声が聞こえてくる。
「だ、大丈夫じゃあ……」
そう返事をしてから、立ち上がる。
寝間着である白いワンピースをもそもそと脱ぐ。
ダイヤやクリスタルで装飾された純白のドレスをもそもそと着る。
スフィーダの私室は玉座の裏手にある。
戸を開けるとヨシュアが立っており、彼は深々と頭を下げた。
「おはようございます、陛下」
「おはようなのじゃ、よひゅあぁぁ~」
スフィーダ、大きなあくびをした。
目をこする。
やはり眠い、眠いのだ。
「今日はまた、えらくお寝坊さんでございますね」
「すまぬ。面目ない」
「いえ」
「謁見者は? もう来ておるのか?」
「まもなく訪れます」
「では、朝食は抜きでよい」
「申し訳ございません」
「おまえが謝ることではないぞ。少し待っておれ」
「承知いたしました」
◆◆◆
スフィーダは洗面台にて、歯磨きをした。
それから表に出た。
早足で進み、よっこいしょと玉座に腰掛けた。
ヨシュアはきちんとかたわらに控えている。
スフィーダとヨシュア。
二人が揃ったのを確認した側仕えの一人、黒くて平べったい帽子を頭にのせている気性穏やかな老人が赤絨毯を歩き、大扉の向こうに消えた。
入れ替わるようにして、謁見者が姿を現した。
茶色いチョッキに茶色いズボン。
職人、あるいは商人みたいないでたちであるように思う。
中年であろうその男はやがて跪き、深く座礼した。
スフィーダ、いつも思う。
そんな大層な真似をしてくれなくていいのに、と。
「面を上げよ」
「はっ」
「そなたは何者じゃ?」
「歯ブラシを作っております」
「む、歯ブラシとな?」
「はい。僭越ながら、長らくお城に献上いたしております」
スフィーダは「おぉ」と興味津々である。
「そうじゃったのか、そうじゃったのか。ありがとうと言っておくのじゃ」
「おぉぉぉぉ、もったいなきお言葉。ところで陛下、歯はきちんと磨いていらっしゃいますか?」
「もちろんじゃ」
「時間をかけて、磨いていらっしゃいますか?」
「うーむ、そう言われてみると、そうでもない気がする。自分が満足ゆくまでは磨いておるがの」
「それはダメでございますぞ」
「むむ、そうなのか? しかし、わしは虫歯になったことなど、一度もないのじゃぞ?」
「これからなるやもしれませぬ。歯はしっかりと磨いてくださいませ」
「あいわかった。気をつけることにしよう。あ、そうじゃった。一つ、疑問があったのじゃ」
「なんでございましょうか?」
「歯ブラシの柄の部分についてじゃ。民のみなが金でできたものを使っておるわけではなかろう?」
すると歯ブラシ屋の人物は「はい」と頷き。
「ほとんどは動物の骨を使用したものにございます」
「ならば、わしに納めるモノも、民と同じモノにせよ」
「おぉぉぉぉ、なんという懐深きお言葉。わたくし、ますますスフィーダ様のファンに――」
「むっ、ファンじゃと?」
「い、いえ。なな、なんでもございません。それではわたくし、失礼いたします」
「ちょっと待て。そなた、まさかわしのファンクラブとやらに入会している者ではあるまいな?」
「まま、まさか。わたくし、妻も子もある身でございます。そんな、陛下の肖像画を見て、はあはあするなど――」
「はあはあじゃと?」
「いい、いえ。ししっ、失礼いたします」
歯ブラシ職人の男は逃げるようにして立ち去った。
ファンクラブと「はあはあ」の件について、もう少し問い質したかったところではあるが、行ってしまったものはしょうがない。
それにしてもわからないのは、ヨシュアはどうして謁見者に歯ブラシ職人を選んだのかということだ。
そのへん、実際に訊いてみた。
すると、「たかが歯ブラシ。されど歯ブラシでございます」という答えが返ってきた。
「世には、陛下をはじめ、民の生活を支えている多くの職人がおります。その旨を頭に入れておいていただきたかったのでございます」
「職人の存在が貴重であることは知っておるつもりじゃったが、うむ、改めて、肝に銘じておくことにしよう」
「そうなさってくださいませ」
ヨシュアは大きく腰を折り、礼をしてみせたのだった。