第87話 声は力。
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「アキ、いいのよ? 椅子に座って?」
三十路を過ぎたくらいであろう女性、エダにそう言われても、アキと呼ばれた七つの少女は大きな大きな瞳をスフィーダに向けたまま、いっこうに動こうとしない。
よほど興味があるのか、あるいは物珍しいのか、とにかくただただじっと、スフィーダのことを見つめてくる。
そのまま視線をはずすことなく、アキはその場でぺちゃんと正座をした。
エダが「申し訳ございません」と頭を下げる。
「よいよい。そなたが気にすることなど、なにもないぞ」
恐縮しきりといった表情のエダ。
彼女は静かにアキの隣に膝をついたのだった。
「今日はどういった用向きで参ったのじゃ?」
「このコに、アキに刺激を与えたくて……」
「刺激? どういうことか、説明してもらってもよいか?」
「はい。といっても、どう話せばいいのかしら……」
「好きなように話すがよいぞ」
「では、えっと、私、結婚したんです」
「おぉっ、それはおめでとうなのじゃ」
「ありがとうございます。って、やだ。私ったら、なにからしゃべってるのかしら」
「なにを述べてもよいと言っておる。気にするでない」
「わ、わかりました。再婚なんです。前の夫とは、私が石女なので、別れるしかなくて……」
「ひどい夫ではないか」
「いえ。それなりの家柄にある方だったので、やっぱり子供が生めないというのは大問題で……」
「今の夫は、それでもいいと言ってくれたわけじゃな?」
「はい。だからとても感謝しています」
なんともほっこりさせられる話ではないかと思い、スフィーダはニコニコしながら「うむうむ」と頷いた。
「それで、再婚だから私はいいと言ったんですけれど、新婚旅行にも連れていってもらって……」
「本当によい夫じゃのぅ」
照れくさそうに、エダははにかんだ。
「初めて、国境を跨ぎました」
「大旅行ではないか」
「そうなんです。なにを見るのも目新しくて……。いろいろな文化に触れました。さまざまな街並みを目にしました。とにかくあちこちをめぐりました。そんなふうに旅をしている途中で、このコを、アキを見掛けたんです」
「見掛けた? どういうことじゃ?」
「街中でフツウに、その……売られていたんです。首輪をされて、石畳の上に座らされていました」
「まさに人売りか」
「そうです。その国は、奴隷市場が当たり前のように存在している国だったんです。痩せ細ったこのコを見て、主人も私も見て見ぬふりはできませんでした。ヒトを買う。その行為自体は軽蔑すべきことであるように思えました。でも、本当に、かわいそうでかわいそうで……」
涙で声を濡らしたエダは、隣のアキの頭を愛おしそうに撫でた。
「アキという名は売り手の男性から聞かされました。変えたほうがとも考えたんですけれど、祝福されて生まれてきたんだって信じたかったから……」
「エダは優しいのぅ」
「いえ。本当に優しいのは主人のほうです。このコは私達の子供だ、大切にしようって言ってくれたんです。私、それが嬉しくて嬉しくて……」
「経緯はわかった。そろそろ本題か?」
「はい」
「アキに刺激を与えたい。そなたはそう申したな?」
「そうです。ご覧の通り、このコ、しゃべらないんです」
「なにか理由があるのじゃろうか」
「全身に虐待の痕があります」
「ふむ。そこに原因を見るのが適切かもしれんな」
「こんなことで謁見に申し込んでいいのかと迷ったんですけれど……」
「全然よいのじゃ。わしに会いに来る理由。そんなものはなんでもアリなのじゃからの」
スフィーダ、玉座をあとにする。
階段を下り、アキの前まで歩んで膝を折った。
「アキよ、こんにちは、なのじゃ」
笑顔でそう伝えたものの、アキの反応は鈍い。
まばたきを繰り返しながら、きょとんとした目で見てくるだけだ。
ぺろっと舌を出し、目を大きくして、おどけてみせてみた。
反応は変わらない。
アキの両手を握ってみた。
やはり反応はない。
「手ごわいのぅ」
今度はアキの手を引っ張り、一緒に立ち上がった。
自分より頭半分背が低い彼女のことを、ギュッと抱き締めてやった。
「しゃべってくれるまで放さぬぞぉ」
するとだ。
「……匂い」
「おっ」
「いい匂い、する……」
たちまちエダは赤絨毯に突っ伏し、「わっ!」と泣き出した。
「陛下! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「これこれ。わしは大したことなどしとらんぞ」
スフィーダはアキの耳元に唇を寄せた。
「アキよ、もうしゃべれるか?」
「……う、ん」
「声が掠れておるな。ま、そのうちよくなるじゃろう」
「友達、欲しい……」
「安心せい。わしとアキは、もう友達同士じゃ」
アキから少し離れ、スフィーダは彼女の両肩をぽんぽんと叩いた。
「わしの知り合いに、しゃべれないニンゲンがいるのじゃ」
「そう、なの?」
「うむ。もうこの先ずっと、話すことはできぬ」
「悲しい、ね?」
「そうなのじゃ」
泣き笑いのような顔をしたスフィーダである。
「その声を、ずっと聞いていたかったその声を、これからも忘れようはずがない。声は力じゃ。ヒトの記憶に焼きつき、残り続けるものなのじゃ。それだけ大切なものなのじゃ。じゃからのアキよ、口を利けることに感謝して、これからたっくさん、しゃべるとよいぞ」
「はい。わかり、ました」
「うむ。よい返事じゃ」
スフィーダはたいへん満足し、アキのことを今一度抱き締めた。




